海と空

天は高く、海は深し

個別・特殊・普遍の論理③

2007年03月27日 | キリスト教

個別・特殊・普遍の論理③

概念論の研究

この個別と特殊と普遍の論理は、すべての事物の根本的な原理でもあるから、当然に思想や精神の原理でもある。精神においては、その普遍の契機として、モメントとしては絶対的な精神が、天地の創造者として、父なる神として前提されている。この絶対的精神は、主体的な絶対的な威力でもある。

しかし、この絶対的な精神としての普遍も自己の分身としての子を、キリスト・イエスを産み出す。そしてこの特殊の契機において、自然は有限的な精神すなわち人間と対立的に分裂する。そして、子なるキリスト・イエスは死の痛苦の中に絶命する。こうして、普遍は特殊へと進展するが、それは普遍が自己を原始分割(UR-TEIL)することであり、それは日本語には現われてはいないが、判断をすることでもある。それは事物が分裂することによって、自己の本質を明らかにする判断の過程でもある。

絶対的な精神は、このを原始分割(UR-TEIL)を通じて自己の本質を現象させ、自己の姿をみずからの子の姿の中に顕かにする。そして、苦痛の中に死に至るという子の絶対的な自己否定を通じて、和解はなし遂げられる。この過程は、普遍―→特殊―→個別の推理をなし、客観的な歴史的な全体的な統一として、すでに世界において実現されている。

この普遍―→特殊―→個別の推理は、歴史的に実現された客観的な全体として、有限な個人においては、それを他者として、しかし、真理として直観されているものである。この精神の証を有限な精神(個人)が手に入れることを通じて、個人は自己の本性を悪として、虚しきものとして自覚するが、すでに、この普遍―→特殊―→個別の推理を通じて、世界に和解の実現されていることを確信しており、その直観を通じて、自己の永遠性を認識しようとする。ここでは個別は特殊を通じて普遍と結合されている。

また同様に、特殊は普遍を媒介として個別と結合される。また、個別は普遍と特殊をつなぐものでもある。

この個別は具体的で現実的なものであり、かつその永遠の存在が精神の理念であり、聖霊である。この事柄も日本語では表現されにくいが、ドイツ語では精神も聖霊も同じくGEISTであり、同一物の二側面である。

これらの推理の構造は、もちろん形式論理学では説明できないキリスト教の三位一体の教理を説明するものであるが、事実としては、ヘーゲルはキリスト教の研究を通じて、この論理を洞察したというべきだろう。

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詩篇第百二十八篇註解

2007年03月14日 | 詩篇註解

詩篇第百二十八篇

巡礼の歌

何という幸せか、主を畏れ、主の道を歩むものはすべて。
あなたがその両手で労した果実は、まさにあなた自身が味わう。
あなたは幸せである。善き物に恵まれるだろうから。
あなたの妻は家の奥にあって、葡萄の木のように豊かな房を実らせる。
あなたの子供たちは、オリーブの若木のように、
あなたの食卓を囲む。
見よ、主を畏れるものは、まさにこのように祝福される。
シオンから主があなたを祝福されますように。
そして命あるかぎりエルサレムの恵みを見るように。
そして多くの子供たちや孫たちを見るように。

イスラエルの上に平安あれ。


詩篇第百二十八篇註解    オリーブの実る家

この詩篇にも、「巡礼の歌」という標題が付せられている。エルサレムに祭りがあり、そこへ参る途上で人々が和しながら歌ったものと思われる。ある意味では私たちの生涯も巡礼のようなものである。
それは死へ向かう旅路であり、また私たちは天上のエルサレムに向かう旅人でもある。

キリスト・イエス自身は生涯妻を娶ることもなく独身であったし、また彼自身も独身生活を勧めもしたが、聖書には家庭の幸福を描いている個所は少なくない。この詩篇第128篇もそうである。短い詩の中に、このうえなき家庭の幸福を描いている。このような幸福な家庭像はまさに永遠の理想であって、時間や土地によって、時代や民族によって変化するものではない。どんなにフェミニストたちが、独身女性たちの身分を謳歌しようとも。

わが国でも妻のことを「奥さん」と呼び習わしているけれども、この聖書の詩篇の精神に見事に一致している。妻は、家の奥にあって、葡萄の木々のように豊かな房を実らせている。そして、食卓に連なっている子供たちは、一度もまだオリーブを搾り取られたことのない若木のように青々として幼い。

このような幸福な家庭を手にすることのできるのは誰か。
それは主を畏れ、主の道を歩む者である。彼はこのような家庭に恵まれるという。幸福な家庭を手に入れたものは、すでにこの世にいながらにして半ば、すでに天上にあるようなものである。それほどに幸福な家庭は貴重である。

人は誰も二人の主人に仕えることができないように、幸福な家庭にも主人は一人しかいない。わが国では妻は夫のことを主人と呼ぶが、これも聖書の精神に適っていると思う。しかしそれは厳密には正しくはない。なぜなら、どのような家庭にあっても真の主人はただ一人、それはキリスト・イエスのみだからである。

現代の日本の家庭の多くが、離婚や崩壊に面しているとすれば、それぞれの家庭が、この唯一の主人を抱かず、妻と夫が主人の地位を争うような誤った家庭観に囚われてしまっているからではないだろうか。

 

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日本人はすでに究極の自由主義を実現したか

2007年03月06日 | 宗教一般

以前に私のブログに書いた『公明党の民主主義』という記事にコメントをいただきました。そこでは日本の自由と民主主義のかかえる弱点を論じようとしたものですが、それに対して、あきとしさんという方から、日本ではすでに信教の自由をふくめて究極の自由を実現しているのではないかというコメントがありました。こうした問題について、ふだんから興味をもっておられる方は他にもおられるだろうと思い、いただいたコメントの返事を、新たに記事の形でも投稿することにしました。読者の皆さんの意見なども聞かせていただければ幸いです。コメントをいただいた、あきとしさんご本人のアドレスが分からないので、承認はとっていません。記事は次のリンクにあります。お目通しいただければ幸いです。

『公明党の民主主義』

あきとしさん、コメントありがとう。返事が遅くなり申し訳ありません。ブログを見なかったり、コメントに気がつかなかったりして、返事が遅くなることがあります。ただ、エチケットとして必要とされる返事はするつもりですので、こりずに覗いてみてください。あなたのアドレスがわからないので、少し長くなるかもしれませんが、ここに現在の私の考えを書いておこうと思います。

あなたのお考えの趣旨は、「わが国は多神教であって、すでにそれぞれの宗教は矛盾を解消してしまっているから、宗教改革の必要はない、日本はすでに究極の自由主義を実現している」ということだと思います。
あなたの考えの内容は、

①わが国は多神教で、それぞれの宗教の間の矛盾は解消してしている。
②日本は究極の自由主義を実現している。

の二つ命題として取り出すことができると思います。

それに対し、私がこの『公明党の民主主義』の記事で問題にしたかったことは、公明党の斎藤鉄夫政調会長をふくめて日本国民の「自由」についての「意識」の実際の内容はどのようなものかということでした。そして、一応の結論として見出したのは、公明党の斎藤鉄夫政調会長に典型的にみられるように、日本人の「自由」の意識は、(もし欧米の自由の意識が、出自の本場で、もし、それが普遍的なものであるとすると)、全く違うものになっているというのが、考察の結論でした。ですから、私の結論からは、あきとしさんが仰るような「日本は究極の自由主義を実現している」という見解には同意できないことになります。

その理由としては、次のようなことが言えると思うからです。

まず日本人の「自由」の意識には、キリスト教を信仰することによってもたらされる本来の自由の感覚と意識があるのだろうかという問題です。日本人一般には、キリスト教が本来持つ、神の戒律と人間の原罪との間の根本矛盾の自覚はそれほど鮮明ではないと思います。ですから、その根本矛盾の解消ということから生まれる自由の側面が、日本人の「自由」の意識の中にはないように思います。これは善悪の問題なのではなく、事実としてそうだと思います。

そもそも日本には自由の意識の本来の母胎であると考えられるキリスト教世界を伝統として持っていませんでした。したがって、欧米のキリスト教世界が必然的に到達したのと同じ自由の意識に達するための必然的な背景を日本人は持っていないといえるわけです。ですから日本国民の「自由」についての意識は、この自由の概念の出生地である欧米の本来の自由の意識にくらべれば、そして、西洋人の自由観が普遍的なものであるとすれば、日本人の「自由観」は本来の普遍的な自由の概念に一致していない特殊なものではないか、もっとはっきり言えばゆがんだものではないかということに注意を喚起しようとしたものです。

さらに、日本の多神教の問題ですが、確かに、日本には伝統的に多くの宗教が並存し、民族として、とくに支配的な宗教はもたないのかもしれません。仏教や民族宗教としての神道、それに、擬似宗教としての儒教などがあるかもしれません。そして、近世になって、キリスト教も入って来ました。

日本人の宗教が多神教であり、キリスト教などの一神教とは異なるとは、よく言われますが、私にはまだ多神教と一神教の概念の正確な識別ができません。だから、日本人の宗教意識においては、神々の間の矛盾は克服してしまっているというあなたの考えについて、今のところ、私の考えを述べることはできません。ただ本来の多神教とは、一つの宗教体系の内部に、絶対的な神が存在せず、神々が相対的に存在するような宗教だと思います。ですから、日本人は多くの宗教体系を並存させている多宗教の民族であるとは思いますが、多神教の民族であるのかどうか今のところよくわからないのです。

また、多神教の伝統の世界には、絶対的な人格神は存在しません。それは、神が人間としてのイエスに受肉されて私たちに現われたというキリスト教の独自の存在だと思います。ですから、非キリスト教世界に、人格と人格が対峙する経験はないと思います。そして、プロテスタントの宗教改革とは、直接に「人格」と人格が対峙することが認められることであり、その間に救いの絶対的な要件として教会などの仲介者の存在を必ずしも必要としないことを証明したことであると思います。

本来宗教を信じることによってもたらされる自由を、どの宗教を信じるかの「自由」として、あなたが捉えておられるところにも、あなたの「自由観」が現われていると思います。しかし、それは単なる思想的な、宗教的な無節操とどう違うのでしょうか。そんな疑問をもちました。


自由の問題や、多神教、一神教の問題については、まだ勉強中ですので、今のところ、これぐらいの事しか考えられませんが、ただ、あなたの仰るように、「日本人は、究極の自由主義を実現し、また諸宗教の矛盾を解消してしまっている」などとは、とうてい言えないようには思います。

欧米人の自由観については、以前も一度取り上げたことがありました。参考にしていただければと思います。

 
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