海と空

天は高く、海は深し

「よしわら」

2009年04月06日 | 時事評論

 

hisikaiさんは、ここしばらく「よしわら」と題して、日本の戦前の公娼制度の象徴としての「吉原」を取りあげられています。

これまでの論考でも明らかなように、いわゆる「戦後民主主義」については私は多くの点で低く見ているのに対して、戦前の「大日本帝国憲法」下の日本についてはかなり肯定的に評価してきました。そして、戦後教育の産物であるいわゆる「団塊の世代」やその後継世代については、民族がその形而上的な精神を喪失してしまっていることや、倫理的な意識の希薄さという点において、平安、鎌倉、室町、江戸時代などの過去の日本の封建時代の「品格」にすら及ばないのではないかと思っています。これは私がかならずしも「民主主義」を評価していないためかもしれません。

ただ、それでも私が戦後の日本を評価する点があるとすれば、太平洋戦争後には、この「吉原」に代表される公娼制度がなくなったことがあります。また、この制度の背景にあった貧困問題の根源である小作人制度が「農地改革」によって農村からなくなったことだと思います。

ただ残念なことは、日本の敗戦によってGHQの指導のもとでこれらの政治的な改革が実行されたことです。日本人は民族として公娼制度などの悪習を主体的に廃止する能力を持っていませんでした。そのために今日も風俗産業などにおける女性の人身売買などは根強く残っています。

あえて誤解を恐れずにいえば、「吉原」などの公娼制度を廃止するためなら、日本の敗戦と引き換えにしてもよかったくらいに思っています。それほど、私にとっては「よしわら」の公娼制度は憎むべき対象です。そして残念に思うのは、hishikaiさんの論考においては、この旧悪弊に満ちた「よしはら」を、文学的に歴史的に叙情的に懐古的に振り返られるだけで、この公娼制度の産物に対するhishikaiさんの憎悪がほとんど見られないのを私は悲しいと思います。

おそらくこうした風俗文化の問題の背景には、日本人の民族としての宗教の性格が深く関わっていると思います。日本の伝統宗教の中にはこれまでモーゼの宗教の影響の痕跡すら見られなかったこともあると思います。日本人がモーゼやイエスの宗教に改宗して文化や社会の質を変えるまでは、いずれにしても問題の根本的な解決を期待することはできないのではないかとも思います。

 

遊女の救い  Salvation Prostitute's

 

 

 

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国家社会の改造の仕方(1)―――麻生新内閣を評す

2008年09月25日 | 時事評論

 

衆院選、11月2日に投開票…首相意向(読売新聞) - goo ニュース

きのう9月24日、麻生太郎内閣が船出した。この三年間に三つの内閣が入れ替わった。それだけ日本国のおかれている状況が国内外ともに多事多難であるということなのだろう。きのうの麻生太郎氏の総理大臣の就任記者会見では、国際、外交問題はとくに深く触れることはなかったけれども、国内問題については、現在の国民のおかれている状況について「景気への不安、国民生活への不満、政治への不信」というようにまとめておられた。的確に認識されているようだった。そして、「明るく強い国」にすることを、ご自身の使命と心がけておられるようである。

完全で理想的な国家社会というのは、イデーの世界に、概念の世界にしか存在せず、いつも現実においては理想的な国家社会というものはありえない。それを現実と取り違えるのは、ドンキホーテなどの妄想家、空想家でしかないだろう。私たちの乗り込んでいる宇宙船地球号、ノアの箱船は、時間の経過とともに、いつもほころびや破損を生じ、内在的に矛盾が発生してくる。つねに応急処置をして行かなければならない。そして、単なる応急処置では間に合わないとき、たとえば、わが国では明治維新や太平洋戦争の敗北といった事態に立ち至ったとき、その矛盾は小手先で対応できるものではなく、根本的な治療が、革命的な変革が必要とされるということである。

果たして、今日現在の状況はどうか。先の記者会見で、麻生太郎新首相が述べたように「景気への不安、国民生活に対する不満、政治への不信」があり、それはわずか三年の間に、三つの政権が入れ替わり、そのいずれも、国家行政のトップである首相の突然の辞任によるということが、その事態の困難さ、深刻さを示している。

年金、医療行政は破綻に近く、官僚には能力も清貧さも失われ、教育は崩壊して子供の学力は低下し、犯罪は凶悪化しつつある。消費者も生産者も役人も国民のモラルは失墜し、偽装偽造問題が日常的に蔓延している。緊急を要する国際問題にも的確に対応しうる能力を失っている。その象徴が、首相の突然の職務放棄である。

果たして、良識ある国民はこのような事態に立ち至って途方に暮れているようにも思える。その大多数は、市民として日常の生活に忙しく、私たちの信頼を託してせっかく送り出した政治家たちの能力は低く、官僚や役人たちを使いこなせず、役人たちは国民の監視の行き届かないところで、彼らの好きなような「行政」を行っている。国民の大多数の希望するような政治や行政をなかなか実行してくれない。

だからといって、市民国民は自衛隊を扇動してクーデターを起こすこともできなければ、チベットの市民のように市街地に出て、街頭で暴動に参加するつもりもないからである。

だから、せめてできることと言えば、現在の政治家という、まことに貧弱な手駒を使って戦いに、すなわち、少しでもよりましな政治と行政の実現にいどむしかない。そのとき、国民の手にする「政治家」という手駒が、飛車角やせめて金銀くらいの有能な手駒であれば、戦局も切り開きやすいが、たいていの場合は、歩か香車、桂馬クラスだから、なかなか勝負は上手に運ばないのである。

しかし、私たち国民は、たとえそんな無能で貧弱な手駒しかなくても、それを運命だと思って、現在に手にしうる手駒、政治家を使って戦いに、国家社会の改造に挑むしかない。私たち国民が議院内閣制という民主主義を選択するかぎり、そうした時間と手間と労力の掛かる方法で実行してゆくしかないのである。まことに民主主義とは手間暇のかかるものである。

そのときに私たち国民の行使できる武器といえば選挙権しかない。この繰り返される選挙を通じて、政治家たちをふるいに掛け、能力と倫理性においてより劣等な政治家は落選させ、より優秀な(残念ながらあくまで相対的にすぎない)政治家を当選させるという選挙のふるいに掛けて、政治家の取捨選択を行いながら、私たち国民の要求や希望を少しでも実行して行くしかない。現在もてるかぎりの政治家を手駒として使いながら、国家と社会の改造を実行してゆくしかないのだ。

そのとき、手駒として使えるのが歩や香車のような貧弱な持ち駒ばかりの政治家であっても、それを使う以外にないのである。そして、来るべき衆議院総選挙で私たち国民の使える手駒軍団としては、さしあたって現在のところ麻生太郎自民党と小沢一郎民主党しかない。私たち国民は、果たしていずれの手駒を使うべきか。

 

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hishikaiさん

2008年07月07日 | 時事評論

hishikaiさん、あなたに頂いたコメントにお礼とお返事をしようと思ったら、「内容が多すぎますので、946文字以上を減らした後、もう一度行ってください」という表示が出てしまいました。面倒なので新しい投稿記事にしました。


hishikaiさん

今日は暑かったですね。hishikaiさんのお住まいの地方はどうでしたでしょう。
とは言え暑いからこそ夏なのでしょうが。あなたのブログも折に触れ訪問させて頂いています。

ところで私のブログも少し真面目すぎるかなと感じています。もう少し、ユーモアや冗句もあってもいいかなという反省もあります。「哲学のユーモア」か「ユーモアの哲学」も気にかけて行こうと思うのですが、どうしても地が出てしまうようです。

hishikaiさんにコメント頂いたのですが、今回の記事で、戦後半世紀以上も、この日本国を支えてきた「平和」憲法の核心を根本的に批判しているはずですのに、ほとんど何の反響もないのも少しは寂しく残念な気がします。無名で平凡な一市井人のつぶやきには、誰も真剣に耳を傾けないのでしょう。

無視を決め込んでいるか、問題提起にも意識が掘り起こされるということもないのでしょう。本当は「平和」憲法を養護する憲法学者たちの意見を聴きたいのですが、皆さん、政府の審議委員などのお偉方できっとお忙しいのでしょう。非哲学的な国民のことですから、このあたりが妥当だろうと思っています。

hishikaiさんはコメントで「本文では「非哲学的な日本国民」を平和主義者を自認する人々に絞って用いているように読めます」とありますが、そんなことはありません。

哲学における国民性の資質と能力に――それは、宗教などに規定される面も大きいと思うのですが、私は希望は持ってはいませんから。どんな国民にも得手不得手はあるから仕方はありません。ただ、国民と国家の哲学が深まらないかぎり、国家や国民に本当の「品格」は生まれて来るはずはないとは思いますが。

また、hishikaiさんは「これからの我国では左右両翼の対立に代えて、真に対立軸とすべきは、この哲学的思考の有無でなければならない」ともおっしゃられていますが、この認識をもう少し具体的に進めて言えば、この「哲学的思考の有無」は「ヘーゲル哲学に対して自分はどういうスタンスを取るか」、あるいは、とくに国家論で言えば、「ヘーゲルの「法の哲学」に対して自分はどのような立場を取るか」、ということになるだろうと思います。

しかし、残念ながら国立大学の憲法学者たちですらこの教養の前提がなく、したがってそうした問題意識すら生まれてこないのが現状であるようです。そうして、こうした憲法学者が、日本国民に憲法を「教授」しているのです。

 

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自己決定権のない国家

2008年07月05日 | 時事評論

アメリカが北朝鮮に対してテロ国家の指定解除に向けて動き出した。ブッシュ政権からいわゆるネオ・コンの勢力が後退し、対北朝鮮ではライス国務長官らの穏健路線に進んでゆくことが既定路線になっている。

すでに5年以上の歳月が過ぎてしまったけれども、アメリカの北東アジア政策については、CATO研究所の副所長をしていた、テッド・ガレン・カーペンターの論文を翻訳したことがある。

北朝鮮問題処理の選択肢   テッド・ガレン・カーペンター          (原文

このテッド・ガレン・カーペンター氏が今日のブッシュ共和党政権の中で、アメリカの防衛や外交政策にどのような影響力を持っているのかは私には定かではない。

しかし、現実のアメリカの外交、防衛政策に実際にどのような影響力をもちえているかにかかわらず、カーペンター氏が論文の中で考察しているように、アメリカの北東アジア問題で採りうる選択肢は限られており、それは必然的な帰結として出てくるものである。

カーペンター氏は北朝鮮に対してアメリカの取りうる選択肢として、以下のような4つの選択肢を挙げていた。

選択肢の1 ピョンヤンを再び買収すること。 (前クリントン政権のように北朝鮮の核開発を断念させる見返りにエネルギー支援を行うこと)
選択肢の2 先制的戦争(ピンポイントでピョンヤンの金正日を狙うこと)
選択肢の3 経済制裁(中国の後ろ盾がある限り決定的な効果はない)
選択肢の4 地域的な核バランスの可能性を育成すること

この論考の中でカーペンター氏は、北東アジアの問題は、基本的には中国、ロシア、韓国、北朝鮮、日本の北東アジア五カ国自らが解決すべき問題であって、最終的にはアメリカは北東アジアから手を引いて、「ワシントンは北東アジアにおける、一任された安全保障の危険性を減らし始めるべきである」と考えていることである。つまり、アメリカにとって採りうる現実的な政策は、この選択肢の4しかないということである。

残された選択肢としては、選択肢4の「地域的な核バランスの可能性を育成する」 ことしかないとアメリカは考えている。そうしてその現実的な政策選択の必然的な帰結として2003年に中国の協力を得て六ヶ国協議という枠組みを作ってからは、この地域の軍事的なバランスの可能性を育成しながら、アメリカは北朝鮮という煩わしいこの「やくざ国家」との関わりを断ち切りたいと思いつづけてきた。

その一方でまた、カウボーイ男アメリカの袖を引き続けて、いつまでも依頼心を抜けきれず、また独り立ちもできない悪女の片思いのような韓国や日本の存在も煩わしく、出来ればこれらとも縁を切りたいと考えている。要するに、アメリカは北東アジアとの関わりを重荷に感じているのである。アメリカにとって、中東問題ほどには極東アジアには関心をもたない。イラク、イランに対するほどには切実な関心はない。

もし北朝鮮がアメリカ本土内の目標にまで到達する弾道ミサイルの能力を持ったとき、アメリカは自国の諸都市を犠牲にしてまで、韓国や日本の防衛のため立ち上がることはない。このことを、カーペンター氏はこの論考の中でも率直に明言している。

韓国に駐留し、日本の基地にいる10万人足らずのアメリカ兵士は、むしろ北朝鮮に人質にされているような状況にある。アメリカはそんな何の見返りもない仕事にいらだち、一刻も早くアメリカ本土からも遠く縁も薄い、醜く煩わしい北東アジアから手を引きたいと考えている。

またキリスト教徒のアメリカ人はそれをあからさまに言うことはないとしても、「北朝鮮が拉致した日本人を回復するのが何でアメリカ人の仕事なのか」と本音では考えている。そして、世界でも有数の「経済大国」でありながら、独立して自国の防衛も満足に行えず、自国民が拉致されておりながらも、自力で何ら対処する力を持ち得ずいつもアメリカに泣きついて来る日本人を哀れみの眼で眺めている。

拉致問題について、北朝鮮の「悪辣非道な国家犯罪」に非難の声を挙げるのはたやすい。しかし、哲学は物事の根源を見つめ問題にするものだ。現象の奥に潜む本質を見極め、因果の必然を明らかにしようとする。日本人拉致問題の根源や背景に、日本の国家形態や憲法に欠陥は存在しないのか。

拉致問題が起きたのはなぜか。第一に北朝鮮という「ならず者の国家」の存在。もう一つは、「無防備な奇形国家」日本の存在である。拉致問題の成立には、この二つの条件がある。日本の憲法をはじめ、現在の日本国という「国家形態」に何らの異常も感じることなく、それを認めることの出来ない者は奥平康弘氏や樋口陽一氏などの憲法学者をはじめとして少なくない。

その原因はそうした国民や国家指導者たちの持つ「国家概念」のゆがみに起因する。概念とは、事物の本来の姿である。

たとえていえば、病人も確かに人間ではあるが、「人間の概念」には一致していない。そのようにように、現行の日本国も確かに「国家」であるにはちがいないが、自国の軍備で主権を独立して守ることも出来ない「歪んだ国家」であり「国家の概念」に一致しない。国家の真理を体現しえていない「国家」である。肝要なことは正しい「国家概念」を確立することである。

非哲学的な日本国民は、自らの理想主義のナルシシズムに酔って十分に検証する能力すら失っているようだけれども、健全な国家体制の構築のためには憲法なども哲学的に検証してゆく必要があるだろう。それは国民的な課題になるべきである。

現行日本国憲法の前文には次のような文言がある。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」

憲法9条の「戦争放棄」の条文なども、この憲法前文に見られるような理想主義を背景に制定されたものと考えられる。しかし、理想は理想としても、この憲法の前文が示している認識に欠陥はないのだろうか。果たして「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」するのは正しいか。

ありきたりの結婚にたとえれば、妻や夫はそれぞれ自分たちの選んだ伴侶は「公正で信義にあふれる人」で、いつも「私」を愛してくれると信じている。だからこそ人間は結婚を選択し、お互いが生活を伴にすることが出来るものである。

しかしその一方で、妻であれ夫であれ、人間は自我をもつ独立した主体でもある。つまり、それぞれエゴを持つ排他的な個体でもある。それゆえにこそ、どんなに夢と希望をもって始めた結婚生活であっても、日々の生活と「人間」のエゴの現実に直面して離婚したり、時には夫婦間ではあっても殺人などの事件が起きるのである。

結婚生活でさえそうであるなら、まして、国家と国家の関係においては、現実の互いに排他的な独立した存在である「国家」の本質を無視して、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」するのは明らかに誤りであろう。国家と国家の間には特殊な利害をめぐってさまざまな葛藤が生じるものである。対立や敵対は生まれざるを得ない。そうした現実の中で、日本人拉致被害の問題は、青臭い理想主義に毒された日本国の、その「主権国家」としての不備や欠陥を何よりも実証するものであるにちがいない。

それは人類から戦争を切り離せないという歴史の現実を見ないものであり、むしろ平和を担保するものは、軍事力であるという現実をこそ見るべきだろう。また、戦争がどれほど悲惨なものであるとしても、それを「絶対的な悪」と見るのは間違いである。むしろそうした現実から眼を背け、同胞に対する倫理的な義務を果たしえない国家と国民の退廃と無能力こそが問題にされるべきだろう。とくに政治家や憲法学者たちは拉致問題における自らの責任と使命を自覚すべきである。

以前の論考でも触れたように、北朝鮮の核を問題にするのは、それが日本の核武装に道を開くことになる場合だけである。六カ国協議の目的は日本である。日本をいかにして封じ込め、無力化して経済的に利用するかに向けられている。中国もロシアもすでに核を保有している。そうした中で、自国の独立と自由の保証を自国の軍備に求めないとすると、北朝鮮の非核化の検証は日本が主体になって実行すべきものである。アメリカや中国の検証は猿芝居になりかねない。

 

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景観条例――都市と農村の景観問題

2008年05月26日 | 時事評論
日本の都市や農村の景観の醜さについては、これまでに私も何度か論及したことがある。また海外旅行者が旅行先で撮ってきた写真やテレビ番組などで放映される西欧や北欧における都市や農村の景観の美しさと見比べて、わが国の都市や農村における景観の醜さについては体験的にも語ってきた。
 

春の歌(2008年04月01日)

竹を切る(2008年01月20日)

toxandoriaさんとの議論(2007年05月15日)

冬枯れの大原野(2007年01月20日)

二本の苗木(2006年01月06日)

個人的にはこの狭い日本国から外には出たことはないものの、欧米の、とくに西欧や北欧における都市および農村の景観美に、なぜ日本の景観は及びもつかないのか、とくに都市景観についてははるか足下にも及ばないのはなぜか、という昔から抱いてきた問題意識もある。それがたとい観念的なものではあるとしても。

居住空間の一つとしての景観の差異が、いったい民族や人種の資質による先天的な差異によるものなのか、宗教や文化的な質のちがいに起因するのか、あるいは、政治や経済上の原因によるのか、現在のところ、その根本的で決定的な理由を見いだし得ていない。

おそらくそれは、それらすべての複合する要因によるのだろうと推測はしているが、その中でも民族の資質と宗教文化の質的相違によるところが大きいのだろうと考えている。

というのも、とくに日本の都市空間などは、「アジア的都市景観」とでもいいうるほどに、特殊な傾向を帯びているからである。日本の都市空間は、韓国や香港などの都市空間とも共通していて、その雑然とした混沌の特質はアジア的とでもいいうる特殊性をもっているからである。

しかし、わが国においてもさすがに最近になってこの特殊な傾向は反省されて、西洋や都市政策との比較対照の観点からも、景観問題として自覚されるようになってきた。国家の政策の問題として、景観問題の改善に意識的に取り組まれるようになってきた。

とくに歴史的に画期的になったのは2003年7月に国土交通省によって「美しい国づくり政策大綱」が提示され、それに基づいて、景観法が2004年6月に公布されたことである。これによってようやく日本における景観問題の取り組みが始まったといえる。また、最近では全国に先駆けて、今年の二月に京都で景観条例が可決され、歴史的な都市の景観保護にさらに強力な取り組みが行われることになった。それは同時に看板などの商業施設やマンションの立地条件、建て替えの際の高さ規制など、多くの利害関係者の関心と議論を引き起こすこととなった。

近所の大原野あたりについても、もっと美しくあってしかるべきこの景観が、かならずしも十分に守られてはいないなどという現実がある。それはただに政治や行政の拙劣さに起因する問題ではなく、国民の意識や、教育、芸術文化の資質の問題、さらには民族性の問題として自覚し改善されてゆくべきものでもあると思う。景観問題は民族の精神状況が外化したものに他ならない。

取り分けて深刻なわが国のこの景観問題を国家の問題の一つとして考え、わが国の都市及び農村の抱える景観問題を改善してゆくことを、たといライフワークそのものではないとしても、せめてサブライフワークとしてぐらいに、問題の所在の研究とその改善にいささかでも取り組み貢献してゆくべきかとも思っている。
 
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理論と実践

2008年05月20日 | 時事評論

 

理論と実践


このブログの記事の中には、いくつかの独自の見解が含まれていると思う。とくにヘーゲルの概念論については、マルクスや「唯物論者」たちなどによって浅薄に誤解された概念観を訂正して、ヘーゲル自身のありのままの概念観を把握しようとつとめた。私の知る限りでは、これまで日本の大学教授や哲学者の中にも、まだ誰も私の示したような概念観を展開した者はいないように思う。

もちろん、それもまだ極めて未熟で内容も不十分であることはわかっているけれども、根本においてはこれまで誰も示さなかった独自の新しい解釈を示しているとは思う。この「概念」についての研究の充実と深化は引き続きこれからの課題でもある。

政治理論の面でも、自由主義者の集結する自由党と民主主義の思想に生きようとする者の集結する民主党によって、理念実行実現型政治に転換することを主張しているのも独自の見解だと思う。自由党と民主党による政権交代可能な政党政治については誰もが着想しそうなことだが、それを明確に定式化して主張した者はいなかったのではないだろうか。考え方や原理は単純であるけれども、それを理念として自覚し、実行してゆく意識と能力をもった政治家が出て来ないだけだ。また世界と日本の歴史的な方向としてはそれしかないと思う。

そして、自由と民主主義の理念を深化させながら、人類は少しずつ自己を解放してゆく歴史になるのだと思う。

19世紀、人々は共産主義革命に、未来の明るい生活の展望を見いだそうとした。しかし、人類の解放を目指したこの運動も一世紀も経たぬうちに完全に挫折する。その後をうけて、フランシス・フクヤマの『歴史の終焉』という本も出たが、人類の将来は、自由と民主主義を模索しながら、その方向に進んで行くと思われる。理念としての自由と民主主義の必然性の解明が課題である。とくに、民主主義の否定的な限界こそ明らかにする必要がある。民主主義をただに「信仰」することなく。「信仰」にはすべからく注意深くあらねばならない。


 

 

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「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)

2007年11月20日 | 時事評論

「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)

年齢をとればとるほど、多くの事柄に慣れきってしまったり、細々した日常生活の必要に追われたりして、やがて新鮮な感動などほとんど覚えなくなる。その上に、温暖化だの高齢化だの対テロ特措法など、人間を悩ませる種につきることはないから、ますます子供のような新鮮な感覚は失われてゆく。そんな最近の気ぜわしい生活のなかで、久しぶりにというか、小さな感慨に浸らせてくれたニュースがあった。

JAXA(宇宙航空研究開発機構)が打上げた月周回衛星「かぐや(SELENE)」と日本放送協会(NHK)が、2007年11月7日に、月面のハイビジョン撮影に成功したそうである。37万キロの宇宙の彼方から、暗黒のなかにくっきりと浮かび上がる地球の美しい姿が、ネット上にも公開されている。
地球の出
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie01_j.html
地球の入り
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie02_j.html

映像で見れば実に小さな青い球体の上に、人類はその歴史を刻んできた。現在の科学の知見によれば、この青い球体は46億年前に太陽系の惑星として形成されたという。そして、一億年くらい前に原始的な猿が誕生し、そこから現在の人類が進化してきたという。そして、21世紀である現在は、キリスト生誕からもまだわずかに2000年ほどにしかならない。

この小さな青い球体の上に、人類はさまざまに歴史と文化文明を刻んできた。ピラミッドを造り、アレキサンダー大王は世界征服に乗り出し、ギリシャ文明は花開き、シーザーは暗殺される。近代に至ってはフランス革命やアメリカの独立があり、この百年の間に二度にわたって世界大戦もあり、多くの兵士たちがボロ屑のように死んでいった。私たちの父や母もこの惑星の上でわずか百年足らずの生涯を終え、やがてまもなく、私たちも彼らの跡を追ってゆく。個としての人間はまことにはかないものである。

それにしても、なぜ人間は、これほどにまで労力を払って、月探査機を作り、それにハイビジョンカメラまで積み込んで、宇宙から地球の姿を捉えようとするのだろうか。それは決して単なる経済的な動機にのみよるのではない。

古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)というアポロ神より下された神託が刻まれていたという。それが人類の宿命にもなっているからである。

ふつうには「汝自身を知れ」というと、「自分の姿をよく知って、身の程を弁えよ」とか「自分の分を弁えよ」といったことわざの意味に使われることが多い。「わがままはいけない。」「身の程知らずの目的を追求して身を滅ぼしてはならない」といった人間についてのいわゆる世知を示すものとして受け取られていた。

それを歴史的にさらに深い意味に発展させたのは、哲学史上ではソクラテスであるとされている。ソクラテスは、「汝自身を知れ」という神託によって、多くの若者や哲学者との対話のなかで、自身の無知を自覚することによって、もっとも優れた知者であるとされた。

ソクラテスの弟子には出藍の誉れ高い哲学の父プラトンがいる。さらにアリストテレスなどの先覚者たちの跡を受けて、哲学や宗教史上の多くの英才たちが、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託の意味を営々として限りなく深めてきた。


近現代において、「汝」を「自我」と捉え、それをさらに個人の「主観的な精神」「有限な精神」として捉え直し、さらに、家族や市民社会や国家における法や道徳や人倫を「客観的精神」として、精神の必然的な発展として考察し、「汝自身を知れ」というアポロ神の神託にもっとも深く徹底的に応えたのはヘーゲルである。彼は言う。「自己を認識するように駆り立てる神とは、むしろ、精神自身の絶対的な掟そのものである。そのために精神のあらゆる働きはもっぱらに自己自身を認識することである」と。いかにも彼らしい人間観である。

地球から生命が、人間が生まれたように、自然から精神が生まれる。人間の肉体は物質であり自然に属するが、人間の自我、意識、精神は観念的な存在である。そして、この精神は、さらに芸術や宗教やさらに哲学そのものにおいて絶対的な精神として捉えられる。

人類は宇宙の創造の神秘と自分の姿を知るために、月や火星に向けて、宇宙に向けてこれからも、探査機は打上げられるだろう。しかし、また、宇宙の創造者である神に似せて造られたといわれる人間の精神を探求することによっても、絶対者、すなわち神の認識へと至ることができるのではないだろうか。それが「汝自身を知ること」「人間の真実の姿」を知ることにもつながるはずである。それらはヘーゲルの師カントを驚嘆させた二つのもの、天体に輝く星辰と、我が内なる道徳律でもある。

 

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悲しき教育現場

2007年09月25日 | 時事評論

悲しき教育現場

教師がいじめ認識? 生徒ら漏らす 神戸・高3自殺(神戸新聞) - goo ニュース

「下半身写真ネットに」神戸自殺生徒、遺書に記す(産経新聞) - goo ニュース

相変わらず、教育現場で「いじめ」はなくならないようだ。「石川や浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ。」で人間から悪の種は尽きることはない。それにしても、こうした事件は、防ぐことはできるし、自殺に至るまでに何とか手を打つ手立てはあったはずであると思う。とくに生徒の教育管理に直接当たる学校関係者の責任は重大である。

以前にもこうした問題についていくつか論じたが、その原因の大きな根本は、国家がその共同体としての性格を敗戦をきっかけに失ってしまったこと、それ以来、国家として、国民に対する倫理教育ついての配慮をほとんど行ってこなかったことにある。いまだ国家としての倫理の基準を確立できないでいるためである。

こうした問題について、いまさら「教育勅語」を復活させることができない以上、「民主主義」を倫理として確立する以外にないことは、これまでにも繰り返し語ってきた。しかし、いまなお、今日の教育関係者のほとんどにはそれを切実な問題意識としてもつものはいない。これでは、いつまでたっても教育現場にその根本的な治療改善は望むべくもない。しかし、長期的な取り組みとしてはそれ以外に改善方法はないのである。それを放置して、いつまでも問題の解決を遅らせ、多くの児童、生徒を悩ませ続けるか。

ただ、短期的な対策としては、不幸にもこうした事件が生じた時には、今回の生徒の遺族は、加害生徒、保護者、学校関係者に対して、法的な責任を民事的にも刑事的にも追求しうる限り、徹底的に追及してほしいと思う。

それは、今日の学校教育関係者の――校長や教頭などの現場教員のみならず、文部科学大臣、教育委員会などの教育公務員の無責任、無能力を改善してゆくためにも、必要な措置であると思う。ご遺族の方々は、悲しみを乗り越えてそうしてほしいと思う。

民主主義を倫理教育としての観点から教育するという問題意識を今日の教育者はほとんどももっていない。その研究も行われていない。今一度正しい民主主義教育を、その精神と方法の両面にわたって充実させていってほしい。そして、いじめの問題などは、クラス全体の問題として、民主主義の精神と方法によって解決してゆく能力を教師、生徒ともども向上させてゆくべきなのである。

クラス全体にそうした問題解決能力のないこと、失われていることを、今回の事件も証明している。しかし、教師、児童、生徒たちの倫理意識の低さは、やがて結局は、自分たち自身がその責めを負うことになる。

         「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ

                 民主主義の人間観と倫理観

          学校教育に民主主義を

 

 

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理想の恋愛、理想の結婚

2007年09月11日 | 時事評論
 

畠山被告が娘への殺意否認 秋田・連続児童殺害初公判(朝日新聞) - goo ニュース

理想の恋愛、理想の結婚

人間であれなんであれ動物にとって、子孫を残すというのはその存在の根本的な使命と考えてよいと思います。そして、人間にとっては、その使命は結婚において家族をつくることによって果たされます。

聖書にもありますように、人は結婚することによって、それまで育てられた両親に別れを告げて、新しい伴侶と家族を形成することになります。そして、新婚の伴侶とともに生活の多くの時間を共同で過ごすことになります。生まれも育ちも違うそれぞれの自我をもった二人の人間が、一つ屋根に生活することからさまざまな問題が起きざるを得ないということなのでしょう。

だから、やはり人間の幸福ということを考えるとき、その結婚生活が幸福なものであるかどうかは、その人の人生を大きく左右するといえます。結婚の失敗は人生の失敗と言ってもよいくらいです。

もちろん、「成功」がすべて幸福であるというような浅薄な幸福観は持ちませんし、キリスト教でも、「悲しむ人は幸いなり」といった自虐的とも思われかねない幸福観もありますから、現代の多くの女の子たちが願うような、絵に描いたようなマイホームの小さな幸せがすべてだとは思いません。しかしそれでも、幸せな結婚生活は、多くの人が願ってしかも、なかなか手に入れることのできないものなのでしょう。

久しぶりに、家族の問題に関係のあるいくつかのブログやサイトを覗いたりしましたが、やはり、さまざまな家族があり家庭があるものだという感想をあらためてもちます。時々テレビニュースなどでも、立派な家庭のその豪邸が画面に写されてながら、一方でその家庭内殺人事件などが報じられているのを見聞きすると、それぞれの家庭内の事情というのは、なかなか外見からは、分からないものだということにあらためて気づきます。

昔、瀬戸内海を行く船のデッキの上で、アンナ・カーレニナの文庫本を読んでいた記憶があります。その本はその以前から長く読み続けていて、ちょうど終局に差し掛かっていて、もう第7巻目ぐらいに入っていた頃だと思います。

すでに多くの人に取り上げられてはいますが、この本の冒頭に、「幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」ということばがあったことをその時思い出したことを覚えています。瀬戸内の深緑の海と、背後に流れゆく松島の美しい景色とともに記憶に刻まれています。

幸福な家庭はみんな似たようなものだけれど、不幸な家庭にはいろんな形の不幸があるということなのでしょう。結婚生活の悲劇を描いてこれほど印象深い作品はすぐには思い当たりません。もちろん、家庭や恋愛の悲劇を描いた文学作品は無数にあります。小説などの文学作品は、むしろ、それらがテーマだと言ってもいくらいです。シェークスピアの「ハムレット」も、漱石の「こころ」も恋愛の悲劇を描いたものです。

実際、誰しもが理想の出会いを願い、理想の恋愛と理想の結婚を求めながらも、その多くは悲劇に、時には喜劇に終わってしまいます。それほど、男女の人間関係は難しいということなのでしょうか。

しかし、もちろん結婚生活や恋愛の失敗は決して侮ることはできません。それが人生の破綻につながることも多いからです。自分の拳銃で恋人を殺した警察官の事件もそうですし、数年か前に秋田で、自分の子供を殺すことになった女性も、つきつめれば最初の男性との結婚に失敗して離婚したことが、事件を犯すことになった最大の理由だと言うことがわかります。また、ついこの間も、仙台でスーパーで働いていた女性が、後輩の女性に好きな男性との結婚を横槍され妨害されたことを恨んで、おそらく彼女自身も想像することすらなかったに違いない事件を起こしています。

               秋田連続児童殺害事件

ネット上でも、結婚の問題がどのように取り扱われているのかちょと調べてみても、そこにはいろんな夫婦関係が記録されていて、なかには「こんな夫もいるのか」など驚かされることもあります。こんな夫と結婚すれば、奥さんも耐えられないだろうなと同情心も起きたりします。

それでも、その多くの記事について読んでも、やはり昔から「夫婦喧嘩は犬も食わない」ということわざもあるように、イラクやアフガニスタンに比べれば、日本は平和だな、くだらない、と感じることも少なくありません。

          ※ ラファエロ 聖母子像  写真先

 

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民主主義の概念(2)  兵役の義務

2007年08月30日 | 時事評論
 民主主義の概念(2)  兵役の義務

少し以前に、pfaelzerweinさんが、ドイツやスイスでの国民の兵役の義務についてのブログ記事、兵役任意制度の存続論 を載せられていたのに関連して、あらためて、民主主義国家における国民の兵役の義務について考えてみたいと思う。これは民主主義の原理を考えることでもある。

ここでの論考の多くの目的は、事物の概念自体について論じようとするものであり、たといもし現実を論じるとしても、それは概念なり理念なりの関係において考察されるものである。だから、たとえば国家について論じる場合もそうである。究極的にはそれは、私自身の「国家」の概念を明らかにしようとするものであり、多くの政治評論家のように、現実の国家についての評論に終始するものではない。ただもし、現実の国家に対する批判があるとしても、その概念とのかかわりにおいて論じられる。

主たるテーマがあるとすれば、それは国家の「概念」であって、必ずしも「現実」の国家ではない。また、それに対する批判があるとしても、もちろん、国家概念に立脚するものである。概念を概念として確立していない評論家、思想家は、現実に追従するのみで、現実を指導することも、批判的な観点も持つこともできない。


もちろん、思想家、理論家は、究極的にはつねに、その「国家概念」なり国家の理念の真理が現実において実現されることを、つまり、思想が現実において実現されることを念頭にはおいている。しかし、たとえもし、その思想なり、哲学が実現されなくとも、その理念についての、概念についての研究はそれ自体として価値は失われるものではない。


ここでの考察は、概念の概念としての研究を本質的な目的とするものであって、必ずしも、現実を究極的な目的とはしてはいない。言ってみれば、理想は理想であって、たとい、それが現実において実現されることがなくとも、その理想自体の価値がなくなるわけではないのである。「概念」の国家、「理念」の国家とは、いわば、「天の国」であって、イエスが「御国の来たらんことを」と祈ったように、もともとそれは、「地上の国」よりもはるか高みに立つものである。天の国においては、そこでのどんな小さな人でも、地上のヨハネよりも大きいとされている。

今ここで、もし、国民の「兵役の義務」について、あるいは、「国民皆兵制」の問題について論じるとしても、ただそれは、民主主義の概念からはそれが必然的に帰結するものであるというその論理を明らかにするだけである。それはまたもちろん一方においては必然的に、日本国憲法下の日本国の現実が、事実としてどれほど真実の民主主義の概念から離れたものであるかを承認させることにもなる。しかし、現実が概念に近づくほど、現実は理想に近くなる。


もちろん、現実は現実であって、つねに、概念なり理念なりを純粋に実現できるものではない。それゆえにこそ現実は現実であって、理念ではないのである。理想の民主主義がすでに現実に実現されているのなら、すべての理論家、哲学者は失職してしまうことになるだろう。

しかしまた、現実は理念なり概念に導かれるものである。理念なき国家は、広い大洋で北極星を指針に仰がない船のようなものである。それでは進むべき進路を確認することはできない。そして、国家の運命は、現代においてはそれは国民自身の運命でもある。だから、安倍首相の「美しい国」のような、低級な「理念」にしか導かれないような国家と国民は、それだけ、貧弱で低劣な国家生活しか持ち得ないのである。それが真実であることは、日本国民の現実の生活によって証明されているであろう。貧弱な国家理念しか持ち得ない国民は、それにふさわしい国家生活しか持ち得ないのである。

戦前の大日本帝国憲法下の日本国民にあっては、文字通り「天皇の兵卒」として全国民は徴用されて天皇の兵士となった。戦前の日本はその意味で全国民に兵役の義務があり、国民は一定の年齢に達すると、兵役の義務を果たした。全体主義であれ民主主義であれ、国民は国家に従属する存在であって、国家は国民に奉仕を求めうる権利を持つ点については変わりはない。

戦後のマッカーサーのGHQによって、「民主化」は促進されはしたが、民主主義が全体主義に思想的に勝利したかどうかについて、思想上の問題ではあるだけに分かりにくい。軍事的な問題とは異なって決着は就いたわけではないと思っている。今でも事実上思想戦は戦われている。もちろん歴史的には、全体主義国家は民主主義国家に、軍事的に敗北したのは事実ではあるけれども。


ただここで、大日本帝国憲法下の軍隊についての私個人の私的な見解を付け加えて置くならば、多くの国民が「帝国臣民」として徴兵検査を受け、またいじめやリンチが多発したいわれる階級制度の厳格な当時の日本の軍隊の抑圧的で非人間的な性格については、まったく肯定できないし、もしそれが事実の性格の軍隊であれば、敗北し崩壊して当然であると考えている。

しかし、だからといって、現行の日本国憲法下の日本国が、国家として、また、「民主主義」国家として肯定しうるかというと、決してそうではではない。日本国憲法によって規定されている日本国の現実も、きわめて欠陥の多い国家体制であるという認識を持っている。

その象徴的な事実の一つが、国家の防衛にあたる国民の「兵役の義務」について、それを少なくとも現行憲法の第18条に違反する奴隷的、苦役的な労役とみるような憲法解釈であり、そうしたゆがんだ国家観である。このような異常な国家観、奇形的な国家観の現実が戦後60年も放置されてきたのである。わが国が、どんなに異常な民主主義観の上に成立した国家であるかということが、こうした一事においても明らかであるだろう。

 

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教育の再生、国家の再生

2007年05月09日 | 時事評論

教育の再生、国家の再生

今の安倍内閣においても、教育改革は内閣の最重要課題に位置づけられている。それは現在の安倍内閣ばかりではなく、歴代の内閣においても教育の問題は最重施策として取り上げられてきた。前の小泉首相は、郵政改革で頭がいっぱいだったから、教育の問題はそれほど自覚されなかったかもしれないが、その前の森喜朗元首相の内閣でも、文部科学省に教育諮問委員会を作って教育改革を目指していた。森喜朗氏でさえそうだった。森喜朗氏は文教族の国会議員としても知られている。

確かに国家の再生には教育の再生が前提になるだろう。しかし、教育の再生には何が必要なのか。教育の再生には、国語教育の再生が必要であり、国語教育の再生には、なにより哲学の確立が必要であると思う。だから、少なくとも国家の再生といった問題に関心をもつ者は、まず哲学の確立によって国語教育の再生をめざし、国語教育の再生によって教育の改革を、そして教育の改革を通じて国家の再生を計るということになる。教育の再生は国語教育から、ということではないだろうか。


江戸時代から、日本には「読み書き、ソロバン」という教育上の標語があって、この標語の教育の核心をついた普遍的な真理は、今日においても意義があるだろうと思う。読み書く力を十分に育てることが教育の根本的な課題であることは今日でも同じだと思う。


読む能力は、知識や情報を外部から吸収するのに不可欠であるし、書くことによって、自らの意思を社会や他者に向って発信することができる。この二つの能力は、個人が充実した社会生活を営んでゆく上で不可欠のものであるし、また、どれだけ高いレベルでそれらの能力を育成できるかが、個人の生涯を意義のあるものにできるかどうかも左右するのではないだろうか。


確かに、現在の学校教育でも国語教育がおろそかにされているとは思わないし、生徒たちの国語能力の向上に向けて、それなりの努力は行われていると思う。朝の授業前の読書の時間は多くの学校で普及しているようであるし、作文の時間などで文章を書くトレーニングもそれなりに行われている。


ただ、それでもなお、日本の国語教育における「読書の訓練」は生徒たちの自然発生的な意欲や努力に任せられたままで、読書の技術などは、まだ学校の現場では洗練されも高められもせず、充実してはいないようだ。もちろん日本の教育の伝統としても確立されてはいない。それは、多くの人々から指摘されるように、今日の大学生がまともな論文を書けないということにもなっている。

だから日本で世界的に通用する学術論文を書くことができるのは、リテラシーという言葉で「言語による読み書きできる能力」が長年の伝統の中に確立されている欧米などの海外に留学して、そこで教授などから専門的な論文教育を受けて、論文の書き方に「開眼した」という留学体験のある、大学の修士か博士課程の卒業者に多いのではないだろうか。この点で今日なおわが国の普通一般教育や大学や大学院での論文教育は充実していないようにも思われる。


この事実は、かなり高名な日本の学者、教育者の文章が実際に拙劣であるという印象からも証明されるのではないだろうか。論文教育はいわば科学研究の方法論の一環として行われるべきものであり、その核心は、論理的思考力であり、哲学的な能力の問題である。自然科学系の有名な学者であっても、その文章に現われた認識や論理の展開で、正確さや論証力に劣っている場合も少なくないように思われる。


いずれにしても、これだけ学校教育の普及した国民であるのに、果たして、それにふさわしいだけの国語能力が確立されているだろうかという問題は残っていると思う。実際の問題として、一般的に国民における読み書きの力は、(自分を棚にあげて)まだまだ不十分だと思う。


それでも、今日のように、とくにインターネットが発達し、ブログなどで比較的に簡単に個人が情報を発信できるようになったので、なおいっそうそうした能力は求められると思うし、また、その能力育成のための機会も容易に得られるようになったと思う。多くの優れた学者の論説文もネット上で容易に読めるようになったし、また、語学力さえあれば、自室にいながらにして世界中の著名な科学者、学者の論文も読むことができるようになった。一昔に比べれば、翻訳ソフトなども充実して、語学能力の育成もやりやすくなったと思う。


蛇足ながら、私自身は文章を書くときに注意すべきこととしては、次のようなことを心がけるようにしている。それは、思考の三要素として、「概念」「判断」「推理」の三つの項目にできうるかぎり注意して書くことである。


「概念」とは、一つ一つの用語を正確にして、それぞれの言葉の意味をはっきりさせることであり、

「判断」とは、一文一文の「主語=述語」の対応が正確であるか「何が何だ」をはっきり自覚することであり、

「推理」とは要するに、文と文のつながりのことであり、接続詞や副詞などが正確に使われて、一文一文に示された判断が、論理的な飛躍や誤りがなく、必然的に展開されているか確認することである。

そんなことを検討し反省しながら書くようにしている。しかし、文章を書く上でこんな基本的なことも今の学校では教えられていないのではないだろうか。

なかなか、理想どおりにそれを十二分に実行できずに、現実にはご覧のような悪文、駄文になってしまっているのは残念であるにしても、これからも引き続き改善してゆくべき課題であると思っている。

今日の記事も、また、「教育の再生」や「国家の再生」といった大げさな標題を掲げてしまったけれども、多くの人がブログなどを書いてゆくなかで、「言語による読み書きできる能力」、、、いわゆるリテラシーを高めてゆくのに、こんなブログの記事でも、少しでも役に立てば幸いだと思っている。

 

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醜い日本人

2007年05月07日 | 時事評論

醜い日本人

私のような市井の片隅に生きる無名の者が「醜い日本人」などと語っても、おそらく世間の嘲笑を買うだけだろうが、しかし、曽野綾子氏のような高名な小説家なら、そうした言葉にも少しは耳を傾けられるのかもしれない。産経新聞のような全国紙に女史の『「醜い日本人」にならないために』という評論文が掲載されているのを読んだ。


確かに、とくに最近私も、曽野綾子氏と同じそんな印象を受けるように思う。自分を棚に上げて女史と同じような感想をもっている。それは近年流行のインターネットや携帯電話の悪い側面が出てきているためだといえるのかもしれないが、しかし、やはりネットや携帯電話が人間や国民の資質を決めるわけではないだろう。それは表面的な本質を見ない論議だと思う。


そうした状況の根本にある原因は、やはり先の太平洋戦争の敗北に、またそれを契機とした日本の「古き善き」文化的な伝統の崩壊にこそみるべきではないだろうか。太平洋戦争の敗北は何も、軍事力における敗北にとどまらないと思う。


現代の日本人がもし「醜い日本人」になりつつあるとするなら、それは太平洋戦争の軍事的な敗北が、何よりも現代日本人の倫理道徳心における敗北に連なり、また現代日本人の政治や教育における敗北となり、それがまた、現代日本人の学術文化における敗北を証明するものになっているということなのだろう。それは、民族をそのあるべき姿に正すことのできない現在の学校教育の敗北でもあり、さらには宗教や芸術や教育などに現われる日本民族の伝統文化の総合力の敗北の問題でもあるだろう。  


あくまで相対的であるとしても、太平洋戦争前の日本人に比較して戦後の日本人が「醜い」のだとすれば、それは結局、日本のかっての伝統的な宗教や倫理や学術や芸術文化が、太平洋戦争の敗北とその後の占領軍統治という日本史に未曾有の歴史的な困難を克服しうるものではなかっただけにすぎない。そうした困難に際して日本の伝統文化が自らの民族の倫理や文化の健全さを確保するだけの力あるものではなかったということを証明しているに過ぎないと思う。


そして、太平洋戦争後六十年を経過した今、一種の植民地文化的な状況に生育した戦後世代を両親に育てられた現在の若者たちの文化的状況が、少なくとも戦前の日本人の感覚をまだ失ってはいない曽野綾子氏のような世代の眼に、「醜い日本人」として映じているのだろう。


ただ問題が深刻であるのは、今の若者たちや、現代以降の日本人たちには、おそらく、戦前の伝統文化的な「美しい日本人」の感覚を概念として生まれつきまったく持たないことだろう。だから、昔の日本人の感覚による「醜い」という自覚すら彼らは持ちえない。自覚さえあればいつかあるべき姿を回復する可能性は失わない。しかし曽野綾子氏のような世代の眼に深刻に映るのは、現代の若者たちにはもはやそんな自覚すら失われている状況にあることだ。このまま更なる六十年を経過したとき、おそらく明治や大正の「美しい日本人」の伝統の姿は見る影もなくなるにちがいないと思う。

 

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宗教と国家と自由

2006年08月23日 | 時事評論
現行の日本国憲法は確かに信仰の自由、宗教の自由、良心の自由などは最高の価値として認めている。だからこそ、私たちは小泉首相の靖国神社参拝を否定しなかったのである。しかし、問題はそこにとどまるものではない。さらに、その信仰そのものの、その宗教の、その良心の「真理性」が問われなければならないだろう。少なくとも、私たちが宗教的に、文化的に高級な自由な人間であろうとする限り、さらにその信仰が「真理」であるかが問われなければならないのである。

「鰯の頭も信心から」という言葉があるが、その宗教が真理であるか、その「良心」の内容が真理であるか、が問われなければならないだろう。オーム真理教や靖国神社や創価学会その他の既成、新興の宗教が宗教として真理であるかが問われなければならない。神戸児童連続殺傷事件の酒鬼薔薇少年ですら「バモイドオキ神」を信仰していたではないのか。単に信じればいいという問題ではない。信じる対象が、真理であるのか、それとも「鰯の頭」その他なのかどうかが問題なのである。

真理以外の対象を崇拝することを偶像崇拝という。そして、宗教の自由とは、いかなる「神」をも信じる自由ではなく、真理を信じる自由のことである。憲法で保証されている言論の自由、宗教と思想信条の自由、良心の自由とは、この真理を信じることによってもたらされる自由のことである。

単に形式における自由のみではなく、その内容の自由が、その真理性が問われる必要がある。小泉純一郎氏をはじめ現代日本人にはこの問題意識がほとんどないのではないか。歌手プレスリーに舞い上がる小泉氏その他の政治家を思想家としてはほとんど評価しないのもそのためでる。そこにあるのは盲目的な「信仰」であり、その神が「鰯の頭」か「バモイドオキ神」か、はたまた「松本智津夫」か「毛沢東」か、その神々の内容こそが問われなければならないという自覚と反省はない。

神について劣悪な観念しかもてない民族は悲惨である。旧約聖書でモーゼやエリヤが異教徒の神々を攻撃したのは、それらの神々が人身御供を要求するような劣悪な神だったからである。モーゼは警告して言った。「あなたの主なる神に対しては、彼ら(異教徒)と同じやり方で崇拝してはならない。彼らは主が憎まれ、嫌われるあらゆることを神々に行ったからである。彼らは自分たちの娘や息子さえ祭壇の火に生け贄として捧げたからである。」(申命記第十二章第三十一節)

哲学者ヘーゲルも言っている。「神について劣悪な概念をもつ民族は、また、劣悪な国家、劣悪な政治、劣悪な法律しかもてない」と。また、「人間が絶対的に自由であることを知らない諸民族は、その憲法上でも、またその宗教上でも陰鬱な生活をしている」と。

キツネやヘビを崇拝する宗教をいまだ脱しきれていない日本国民には、この哲学者ヘーゲル氏の言葉に耳を傾けて、その真偽を検証する価値と必要があるのではないだろうか。

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カナの婚礼(ヨハネ書第二章)

2006年08月07日 | 時事評論
 

カナの婚礼(ヨハネ書第二章)

イエスが洗礼者ヨハネと出会ってから五日後、ガリラヤ地方のカナという土地で婚礼があり、イエスの母マリアがそこにいた。そして、イエスと弟子たちもその結婚式に招かれた。
その時のことである。

にぎやかな婚礼でぶどう酒もすっかり飲み尽くされてしまい、困ったイエスの母マリアは、イエスのところに来て言った。
「ぶどう酒がなくなってしまいました」
すると、イエスは母に答えられた。
「婦人よ、私はあなたと何のかかわりがあるのですか。私の時はまだ来ていないのに」
彼の母は召使たちに言った。
「彼があなたたちに申し付けることは何でもしてあげてください」
すると、そこにユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置かれてあった。それぞれ四、五斗水が入っていた。
イエスは彼らに言われた。
「水がめを水で満たしなさい」
そこで、彼らは、水がめを縁いっぱいまで水で満たした。
すると彼は彼らに言った。
「さあ、汲み出して宴の主人まで持って行きなさい」
そこで彼らは持って行った。
宴の主人が水を味見したとき、ぶどう酒になっていた。だが、それがどこにあったものかは知らなかった。(しかし、水を持って来た召使たちは知っていた)
宴会の主人は、花婿を呼び、そして彼に言った。
「人は誰でもはじめに良いぶどう酒を出し、酔っ払ってから悪い酒を出すものだ。あなたは今まで良いぶどう酒を取っておいたのですか」
これはイエスがガリラヤのカナで行った奇跡の初めである。そうして彼の栄光をお現しになった。そこで、弟子たちは彼を信じた。
この後、彼と彼の母と彼の兄弟と彼の弟子たちはカペナウムに下ったが、そこでは多くの日を過ごされなかった。

ヨハネ書第二章では、カナの婚礼での出来事をこのように記録している。
イエスがその生涯で初めて奇跡を現されたのは、ガリラヤ地方のこのカナにおいてだった。このあたりは、ユダヤ王国の中心地エルサレムからは遠く北に位置する。どちらかといえば辺境の地で、ユダヤ人も異邦人と共に暮らしていたと思われる。イエスが両親のヨセフやマリアと共に幼い日を過ごした故郷のナザレとも目と鼻の先にある。この奇跡がこの地に現れたことからも、カナには信仰深い人が多く暮らしていたことがわかる。このあとに行かれたガリラヤ湖畔のカペナウムにイエスは住まわれ、そこで多くの弟子を見出された。

新約聖書のカナと現在のレバノンのカナが同じかどうかについては論争があるらしいが、いずれにせよ、この地方は新約聖書の歴史と深いかかわりを持った地方である。平和の象徴とでもいうべき婚礼の行われたこのカナの地で、先日7月30日に報じられたニュースによれば、イスラエルとヒズボラーとの紛争のなかで、イスラエル軍の攻撃によってアパートが破壊され、56人が殺されたそうである。そのうち34人が子供であったという。

奇跡の恩恵のあった地で今日殺戮が行われる。このカナでは10年前にも100人以上の市民が殺されたばかりである。これらの事件は、現代人の不信仰の証明のようにも見える。和解は不可能なのだろうか。和解の道はないのか。第三次世界大戦の忍びよる足音さえ聞こえてきそうだ。

2006年08月02日 

 

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「改正」教育基本法の「愛国心」

2006年05月26日 | 時事評論

教育基本法の改正について、国会で論議が行われようとしている。その中で、愛国心が問題になっている。
愛国心とは、国民一人一人の個人にとって、家族や社会が、共同体や国家、民族が、要するに「国」が、自分たちの心と身体の拠りどころであり、大切な目的であると考えるような心のあり方である。何も、大げさに旗を振ったり、ことさらにがなりたてたりすることではない。そして、愛国心には本当の自由があるが、戦後日本の浅薄に理解され誤解された「自由と民主主義」は、個人と民族や国家との有機的なつながりを切ってしまった。

この愛国心は、法律家や政治家が作成した一篇の法律から、生まれたり作られたりするものなどではない。この国に新しく生まれ来る子供たちが、周りの家族や社会や民族や国家(制度)によって、大切に守られ愛され育まれていることを実感することによって、自然に生まれてくるものである。国民の間に相互扶助の精神が浸透することによって生まれてくる。

この愛国心が、たった一編の法律によって生まれ育つことはないし、まして強制して作ることのできるものではないことはいうまでもないことである。

現代日本人の愛国心の欠乏は、何も現行の教育基本法の欠陥によるものではない。政治家、公務員(官僚)、法律家、教師、宗教家など国民に対して指導的な地位にある者たちに、本当に同胞と国を愛する心が、愛国心がないからである。子供たちに「愛国心」を教育するなどというおこがましいことを考える前に、音頭を取る者たち自らがまず自分の胸に手を当てて見るべき問題だろう。


どこかの小学校で、通信簿の中に「愛国心」について評価する項目を設けていたらしいが、言うも愚かな行為である。自由の価値と人間の尊厳がどこにあるかを教師が全く理解していないことの証左である。これが現代の日本国民の現状なのだろうか。学校教育がこれほど普及し、そこで多くの知識や技術は教えられているが、教師たち自身に自由の価値が本当には理解されていないのである。残念ながら、これが戦後六十年たったわが国の民主主義の水準なのかも知れない。

この事実に見るように、まだ国民自身が自分たちの思想・信条等についての「自由の保証」に自信がもてない。漠然とした不安がある。だから、与党の改正案が示すように「愛国心を育てる」と言い切ることができない。そして「国を愛する態度を養う」などという笑うべき記述を、基本法の中に書き込んで恥じることもない。心や精神を養わずして、どうして「態度」が培われるのか。それとも「改正」教育基本法は偽善者を造るための法律か。いずれも国民の間に十分に「自由」を尊重する意識が確立しておらず、浸透もしていないからこういうことになる。


「愛国心を養う」といったことを、教育基本法に書き込んでも何の意味がないと思うが、仮に、百歩譲って、そうした文言を入れたとしても、愛国心を持たない人間が存在するのはやむをえない。善と悪を自由に選択する能力を持つのが人間である。善であれ悪であれ、その選択は完全に個人の自由に任せなければならない。人間はただその選択の結果に対してだけ責任を負うようにすべきなのである。通知簿で子供や生徒たちの愛国心の度合いを、一体誰が、どんな権限で、どのようにして測定するというのか。そんなことをすれば、教師に対するゴマすりか、面従腹背の偽善的な子供をせいぜい作るだけである。

たとい、教育基本法の中に、「愛国心を養う」という文言が入れられたとしても、愛国心のあり方については完全に個人の自由に任せるべきものである。仮に「愛国心」を持たない者が存在してもそれはしかたがない。思想や信条、信仰についてと同じように、そのあり方については一切の強制からは自由でなければならない。こうしたことは成熟した自由の意識を持つ国民にとっては自明のことである。

この自由についての自覚が国民の間に自明のものになっていないために、「国を愛する態度を養う」という偽善者を育成することを目的とするような条文を入れなくてはならなくなる。精神を、心を、内面を養わないで、どうして態度が養われるというのか。


北朝鮮に拉致された同胞を、自らの命を賭してでも、戦争という手段を用いても、取り返し解放しようと決意するのでもなく、また、年間に三万人に及ぶ同胞の自殺者の問題の解決に真剣に取り組むこともなく、また大衆の預金者にゼロ金利を強制しておきながら、その同胞から、三割を超える高金利と暴力的な取り立てを放置する国民自身の同情心のなさが、愛国心の欠乏をもたらすのである。「情けは他人のためならず」という。自業自得である。何億円もの賄賂を取って正義を損ない、自分と一部の特権層の利益のために、国民全体のための政策を歪める役人や政治家たちが、子供たちや国民から愛国心を干からびさせるのだ。

 

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