goo blog サービス終了のお知らせ 

海と空

天は高く、海は深し

6月17日(月)のTW:「芸術品について」

2013年06月18日 | Myenzklo

ギリシャ的性格の中心点のなすところのものは、まさに美的個性である。そこで次に、この概念を実現している個々の光線の面に立ち入って考察しなければならない。この光線はいずれも芸術品を形成している。我々はそれを三つの形象に要約することができる。主観的芸術品、すなわち人間自身の形成と、


客観的芸術品、すなわち神々の世界の型態(像)と、最後に政治的芸術品、すなわち国家組織(憲法)の様式とその中にある個人との在り方、がこれである。【歴史哲学下(s 25 )】


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月7日(金)のTW:#「小論理学」

2013年06月08日 | Myenzklo

思考には何事かを証明する力があると言うのなら、そして論理学は証明するべきであると要求するのであれば、そして論理学が証明の仕方を教えると主張するのであれば、論理学は何よりもまず、もっとも独自の自己自身の内容を証明して、その必然性を洞察する力がなければならない。§42


§31
心、世界、神の表象は、さしあたって思考のために、しっかりとした足場を提供しているように見える。しかしながら、それらの表象には特殊な主観性の性格が入り混じっている。そして、そのことによって、それらは非常に異なった意味を持ちうる。


いずれにしても、表象はまず思考を通じて確固たる規定を得ることを必要としている、ということである。

このことは全ての命題が言い現している。述語を通じてはじめて(つまり、哲学において思考規定を通して)主語が何であるか、すなわち初めの表象が何であるか、が示されるということである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月23日(木)の#橋下徹

2013年05月24日 | Myenzklo

「橋下 徹氏発言の余波」逆に言うなら、それができぬ人間(例えば、先のニヤニヤしたドライバーの様なメンタリティを持った日本人)は、如何なるレベルの外交においても、関与してはならないのです。 goo.gl/g0ghJ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月14日(火)のつぶやき

2013年05月15日 | Myenzklo

国家犯罪としての「慰安婦問題」は存在しないとしても、売春を容認していた旧日本軍が米軍に対して道徳的に劣位にあることは事実。橋下徹や石原慎太郎らの米軍にすら及ばないモラルの低さ。【橋下氏の慰安婦容認】米軍は買春を拒否 米国防総省報道官  p.tl/DCrh

reviewさんがリツイート | 1 RT

「俗見は概念の形式へと高められなければならない。」(s15)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月13日(月)のつぶやき

2013年05月14日 | Myenzklo

※法哲学の§1の補注の中で、概念と実在の関係について、それを比喩的に説明するとして、ヘーゲルは人間の場合における「霊魂」と「肉体」にたとえている。霊魂Seeleは精神と言い換えてもよく、「精神」と「肉体」は、人間の要素、契機モメントであると同時に両者は不可分の関係にある。

1 件 リツイートされました

Dasein「そこにある物」と概念との統一が理念である。理念とは単なる調和ではなく、完全な融合である。§1補注
※樹木を例に挙げれば、「概念」は、自己の内に樹木の全体の力を含んでいる「萌芽」である。※ここでは「種子」の方が、「萌芽」よりも概念の本質をよく喩えることができると思う。

1 件 リツイートされました

※種子の中には、樹木の全体が概念として、樹木そのものを、観念的に内包されているのである。この基本的な認識は、すでに以前の論考『葉薔薇に名前と普遍論争』において論じておいた。

1 件 リツイートされました

法学は哲学の一部門である。したがって法学は理念を、すなわち対象の理性としての理念を、概念から展開せしめなければならない。・・・法の概念はその生成という点から見れば、法の学以外に属することになり、その演繹はここでは前提されたものとされ、a

1 件 リツイートされました

かつ法の概念は与えられたものとして認められなければならないのである。(法哲学§2)
※日本の凡俗の法律家たちのほとんどはどいつも「哲学的な問題意識」のない「井の中の蛙」だから、「法学が哲学の一部門」であることに思いも及ばない。否、哲学大系からすれば、個別科学の全てが哲学の一部門を

1 件 リツイートされました

構成する。「科学は体系的な認識でなければならない」ということが分かっていない法律学者や物理学者に真に「科学哲学の研究」など出来るわけがない。現在の日本の大学、大学院の惨状がそれほどひどいと言うことである。その結果として、現政権における対米中韓との歴史認識における敗北にもつながる。

1 件 リツイートされました

安倍首相の政治姿勢が、中韓の対欧米工作と特に欧米の左翼リベラリズム勢力から「国家主義」や「極右」などの「批判」を招いているらしい。日本国民が、GHQマックの洗脳政策とマルクス主義を克服できない限りは対抗できない。マッカーサーの情報封鎖から解放されている国民はほとんどいない。

1 件 リツイートされました

安倍内閣の菅 義偉官房長や高市早苗氏らは(安倍首相自身も)直観的に感性的に日本国の歴史的正当性を確信し反論しているけれども、戦後教育下に生育した政治家たちのほとんどは、その歴史認識の限界を克服できるレベルまでには達してはいない。その歴史認識の内実は極めて貧弱な水準に止まっている。

1 件 リツイートされました

現在のところ中韓の左翼と欧米のリベラリズムに対等に論争できるのは、戦後民主主義下の歴史教育とマッカーサーの占領政策を根本から本当に批判し反論できる力量を持った思想家は、戦前の日本の国家政策と哲学を研究し抜いた西尾幹二氏くらいにしか出来ない。戦後日本のアカデミズムの完膚無き敗北。

1 件 リツイートされました

日本は単に軍事的に敗北したばかりではなく、その後の文化的思想的戦争においても敗北している。軍事的のみならず学術、科学においても、引き分けにもって行くことすらも出来ない。左翼とマッカーサーに洗脳された戦後民主主義の日本人は、哀れにも自国の歴史の正当性を主張する能力も去勢されたまま。

1 件 リツイートされました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月12日(日)のつぶやき

2013年05月13日 | Myenzklo

「哲学的な法科学は、法(正義)の理念、法(正義)の概念、そして、これの実現を対象とする。」(法哲学§1)※言うまでもなく Recht は、権利、法、法律、裁判、判決、正しさ、正義などの意義を合わせ持った語であるが、特に必要な場合でなければ Recht は「法」「法律」と訳す。


哲学は理念の問題にすべきであって、それゆえに、人が「単なる概念」と呼んでいるものとかかずらうものではない。哲学は、むしろ、単なる概念の一面性と非真理とを示し、同じく「概念」(これは,人がしばしば呼び聴きしているものではなければ、ただ単に抽象的な悟性的な規定であるものでもない)a


のみが現実性をもち、そして確かに、自己に自己自身を与えるものである。概念自身を通じて法則化された現実でない全てのものは、過ぎ去りゆく「そこにある物Dasein」であり、外にある偶然性であり、思いつきであり、本質を失った現象であり、非真理であり、思い違いなどである。§1


概念が自己を現実化する際に与える「型態」は、概念の認識自体を与えるものであり、それは、別の、単に「概念」としてある「形式」とは区別された、理念の本質的な契機(要素Moment)である。c §1


※ここでもヘーゲルは「哲学的法科学」(「法哲学」と呼ぶ)の対象が何であるかについて彼独特の用語で説明しているが、要するに、理念Ideeには、概念と実在の二つの要素Momentがあるけれども、法の理念においては、「自由」がその概念であり、「法律」がその実在である、というのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月12日(金)のつぶやき

2013年04月13日 | Myenzklo

(承前)心中天網島は、この世の倫理規範が成立している世界と、その向こう側の地獄の美世界の両方を描いていて、主人公(とくに男)がそのもう戻れない境界線を渡るところが素晴らしく美的に描かれていた。かつどっちの世界が良いとも言ってない。この踏み越えの感覚を近松は描きたかったに違いない。

reviewさんがリツイート | 10 RT

それは独立の個体性が先ず脱却しなければならない内容で、当初の形式としては単に形式的で皮相な擬人という形式をとっている。この単なる自然力を退け、対立と抗争を通じてこれを超克することこそ、古典的な芸術がそれによって実現されうべき重要な点である。(ibid s 1137 )


崇高の芸術の根底にある世界観では、またある程度はインドの場合にさえも、それ自身独立に完成した、感覚性を超越した神が万物の始元であったが、今吾々の問題とする段階では、諸々の自然神、しかもなによりも先ず自然の普遍的な諸力が発端になっている。・・・これらが先ずあってそこからはじめて a


ヘリオスなどのような、より明確な諸力が生成し、それが後の精神的に個体化された神々の自然的な基礎となる。ここに想像によって案出され、芸術によって型態化された神統系譜論と宇宙生成論が出てくる。然し、そこに登場する最初の神々は、一方では直観の対象としてはっきりと規定されるに至らない。b


それらの諸力は、第一には大地や精神に関する威力であって、精神的・人倫的な内容を欠き、従って無拘束であり、奇形で粗野猥雑ものである。・・・自然の生命は実際に「時」の力に従っており、ただ刻々に移ろいゆくものを生じせしめるだけだからである。c美学vol.Ⅱs1139


一つの民族も歴史以前の時代にはただ一つの自然発生的・血族的共同体であって、国家を成すに至らず、何らの確然とした目的を追究せず、「時」の没歴史的な威力に委ねられている。【掟が出来、人倫が定まり、国家が成立するに至って、はじめて人類の消滅流転の内に存続する、aする】以前にも


確固たる基礎が定立されるようになる。古典的芸術形式の初段階の本質をなすものとしておいた変形の否定的な関係が、この芸術形式の本来の中心点となる。ここでは一般に擬人という形で神々が表象され、その前進の運動は人間的で精神的な個体性に向って押し進められる。b


しかし、本質的な進展は自然から精神へ、――古典的芸術にとって真の内容であり、本来の形式である精神へと向うものである。この進展と、その成り行きを認めるよすがとなる種々の闘争は、新しい神々が古い神々に対する永続的支配を確立するための闘いの場において展開される。ibid s 1147


※ヘーゲル哲学の論理的な進展の核心は、自然から精神へ、とおいう移行であるが、それは、法哲学においては、家族から市民社会へ、さらに国家への移行として現れる。家族は、感情や血縁や愛であるが、国家は、自覚的な法律的な公共生活であり、人倫生活である。国家の本質が中心的なテーマである。


※現代の一般的な憲法の本質論は、国家権力の制約説として認識されている。しかし、憲法の本質はそのような低い理解の段階に止まるものではない。憲法は、以前に考察したように、自然憲法と実定憲法の差違を、別な観点から言うなら、理性憲法と悟性憲法の差違としても捉えられなければならない。


※ここでの論考の課題も、悟性的な憲法の典型でもある現行の日本国憲法をアウフヘーベンして、理性的憲法へと憲法改正を図ることが課題であることは言うまでもない。絶対を課題とする哲学は、理性としての国家、ヌースとしての国家に到達するまでは終息することはない。この課題を追究するのは法律家


ではなく哲学者である。確かに現在の安倍内閣は従来の凡庸な歴代内閣の総理大臣に比して、戦後の日本国の国家体制の悟性的な性格を誰よりもよく認識している。しかし、まともな哲学者をブレインとしても持たない、自民党政府が構想した改正日本国憲法草案は、明治憲法の足許にも及ばない。


なぜ、こういうことになるのか。現代日本の政治家一般の思想的な貧困、哲学の貧困が根本原因である。戦後の日本国憲法の三大原理の、平和主義、国民主権(民主主義)、基本的人権、個人主義などの法思想の背景をなす根本的原理である、「法実証主義」を克服する論理を誰一人として持たないからだ。


現実的歴史において、ソ連邦、東ドイツ、アルバニアその他共産主義諸国の消滅によって、マルクス主義諸国家の歴史的な崩壊と破綻は、現実によって証明されている。しかし、その哲学的な論証は未だなされているとは言い難い。現実によって証明されたものを論理で確証することが哲学の仕事である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月10日(水)のつぶやき

2013年04月11日 | Myenzklo

神託の本質的な点は、ただ次の一事にある。即ち古典芸術においては・・・自然現象がそれ自身としてあがめられることは、もはや無くなり、神々自身が知と意志の主体として、自然現象を通じて人間にその叡智を告示するのである。(ibid s1134)※ヘーゲルはやはり深い。「神託」の概念をa


もっとも良く説明している。¥神々が神意を啓示するために使った表徴は、おおむね至極単純なものであった。・・デロスでは月桂樹がざわめくのも、同様の意味をもっていた。が、かような直接の自然音の外に人間自身も、正気を失ったり激しい興奮に駆られたりして、悟性の冷静な思慮をそなえた状態からb


神懸かり的熱狂の自然的状況へ移る限りでは、神託を語るものとなる。デルポイの巫女ピュティアが靄のために気が遠くなって、神託の言葉を語ったとか、トロポロニオスの洞穴の中で、神託を問い求める人が幻影を見て、その解釈から答えを得たとかいうのはその例である。(ibid s1135 )


(ロ)神託の外的表徴にはもう一つ付け加えるべき第二の面がある。神託においては神は全知者であると信じられ、従って知の神アポロンの神託がいとも霊験あらかたなものとされるのであるが、然し、この神がその意志を告知するのは、所詮、自然の声とか、言葉の脈絡無き音とかいうような、全く無限定のa


自然的形式においてである。このように型態が不明確であれば、これに込められた精神的内容そのものも曖昧であり、従って解釈と説明を必要とする。(ハ)この説明は、はじめは単に自然的形式において与えられた神の告示を精神的に解して意識にもたらすものであるが、それにも拘わらず、やはり曖昧で b


二重の意味をもっている。なぜなら神の知と意志の向うところは具体的普遍性であり、神託によって啓示される勧告や命令も同様のものでなければならないが、普遍者は一面に偏した抽象的なものではなく、ある一つの面とそれとは別の面をあわせ含んでいるからである。神託が古典的芸術の内容の一面をなしb


重要性を持ったものとなるのは、彫刻においてでは無く、詩、とくに劇詩においてである。然し、古典的芸術では人間の個体性がまだ最高度の内面性を達成するにいたらず、主体が純粋に自発的に行為への決断を下すに至らないので、神託がやはり一つの本質的要素としての地位を保持している。1137


1137注**周知の如く「良心」は『精神現象学』や『法哲学』における一つの基本概念であるが、『哲学史』においてもヘーゲルは「何が正しいものであるかを知ること(Wissen)」が「良心(Gewissen)」と呼ばれると規定し、ギリシャ人がなおこの「良心」をもっていなかったことを a


指摘している。けだし彼等はまだ純粋に自己の確信に基づいて決意する精神の域に達しなかったのである。b1244※やはりヘーゲルは理論的能力の研鑽には不可欠の対象ある。すべからく、この目的のもとに行なわれるべきものである。これは西行の和歌やバッハの音楽の解釈の基礎を得るのに有効である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月9日(火)のつぶやき

2013年04月10日 | Myenzklo

彫刻は神々をその真の型態において感覚的直観に呈示する点で、古典的芸術の本来固有の中心をなすものであるからだ。もっとも詩は、彫刻が神々のその安らかに自足した客観性に於て表現するのとはちがって、神々と人間について感じるところを語り、a〔美学Vol.Ⅱ1133〕


あるいは神々の世界と人間の世界をその活動と運動の相において描き出す点で、芸術的表現を一層完全にすることになる。b (ibid s 1133 )


吾々もここでは、まだ形式を備えていない、蕪雑な自然力の場合から考察を始め、それがいくつもの段階を経て個体的な精神性に達し、確固たる型態に凝結するにいたる経過を示さなければならぬ。・・・神託は、神々の知と意志を、なお無型態のまま自然の存在物を通じて告示する物である。 s.1133


※ギリシャ神話からキリスト教の神への人間の神に関する思想の深化、発展の過程を、抽象的普遍から具体的個別への進展として捉える。これは、ヘーゲルの発展の論理の基本的な定式である。この基本的な論理は、次のようにも説明されている。「理想への本来全く必然的な進展は、自然のごく抽象的な a


精神的諸関係の、はじめは皮相的であった擬人が、それ自体においては従属的な消極的なものとして克服され、抑圧され、この貶めを通じて独立の精神的な個体性とその人間的な型態や行為が揺るぎなき支配権を得るようになることにある。(s1134)※新約聖書の福音書に於けるイエスキリストの生涯とb


ギリシャ神話や古事記などに於ける神の描写を比べてみれば、キリスト教が神を人間として、精神として明確な個別的具体的な普遍として捉えている点に、大きな差異のあること、そこに認識の深化と発展を見ることは難くない。こうしてヘーゲルは美術の歴史の中に、人類の宗教思想の発展を確認している。c


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月2日(火)のTW:#肉体、#精神、#芸術、#哲学、#詩

2013年04月03日 | Myenzklo

人間の肉体は、その全ての形状から見て、精神の栖であり、しかも精神の唯一の可能な自然的存在相であるという点にある。それ故、精神も肉体においてのみ他者に対して直接にあたえられている。・・単に自然的な面と精神的な面との相違を消去して、肉体の外形を美しい型態と化せしめ、b


徹底的に完成された、有心化された、精神的生命に充ちた型態に転化させることこそ、芸術の課題なのである。1100 哲学が自由な思考の形式における絶対者の意識であるのに対して、芸術は感性的直観の形式における絶対者の意識である。1224注


円熟の域に達した芸術はその表現のために必然的に人間の外面的現象という形式を採らなければならなかったのであって、それというのも、精神はこの形式においてのみそれに房わしい存在相で自然の感覚的素材の内に実現され得るからである。以上、人間の肉体とその表現についてのべたと同様の関係が a


人間の感情や衝動や所為や出来事や行動についても認められる。これらの人間的な現象の外面も古典的芸術においては、単に自然の生命相に属するものとしてではなく、精神的なものとして特徴づけられ、内容の面が外面と十分に相通じるものとして一体化されるのである。1101


ギリシャ神話の多種多様な諸観念の歴史的な研究は吾々の当面の課題ではないということである。ここでは吾々はただ上述の改造の本質的契機を、それが実際に芸術的形成とその内容との一般的諸契機となっている限りにおいて、問題とするのである。これに対して、限りなく夥しい特殊の神話や物語や史伝、a


一定地域や象徴的表現に関する諸事項は、それらも皆新しい神々の世界でもなおその存在権を保持し、芸術的諸形象の上に付随的に現れては来るけれども、吾々が我々の方針に従って到達しようとする本来の中心点に属するものではない。(ibid s 1133 )


本来の中心点とは、美の理想が純粋に完成された形で実現される場合をさす。芸術形式の「」形成過程を辿るにあたっても、これが究極的な目標となる。1242注


彫刻は神々をその真の型態において感覚的直観に呈示する点で、古典的芸術の本来固有の中心をなすものである。もっとも、詩は、彫刻が神々をその安らかに自足した客観性において表現するのとは違って、神々と人間について感ずるところを語り、あるいは神々の世界と人間の世界を  a


その活動と運動の相において描き出す点で、芸術的表現を一層完全にすることになる。※ここでもヘーゲルは芸術様式として、彫刻よりも詩を高い段階に位置づけている。――吾々もここでは、まだ形式を備えていない、蕪雑な自然力の場合から考察を始め、それが幾つもの段階をへて個体的な精神性に達し、b


確固たる型態に凝結するに至る経過を示さなければならぬ。第一に吾々の注意を要求するものは神託で、これは神々の智恵と意志をばなお無形態のままに自然の存在物を通じて告示するものである。第二の主要点はは普遍的な自然力に関係するものであり同時に又真の精神的な個体としての神々の根底に c


その母胎として存し、神々の生成と活動の必須の前提条件となっている正義その他の抽象的観念に関わるものである。最後に第三点としてあげるべき、理想への本来全く必然的な進展は、自然の活動やごく抽象的な精神的諸関係の、はじめは皮相的であった擬人が、それ自体においては従属的な、 d


消極的なものとして克服され抑圧され、この貶めを通じ独立の精神的個体性とその人間的な型態や行為が揺るぎなき支配権を得るようになる。この変化が古典的な神々の成立史における本来の中心点をなすもので、それはギリシャ神話では新旧両神族の闘争という形で素朴に、明白に表現されている。1134


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月1日(月)のTW:#自然、#精神、#人間、#肉体、#動物

2013年04月02日 | Myenzklo

こうして全く本然的に自立する自由絶対の意味をもつものは、絶対者をもって内容とし、精神的主観性をもって形式とする自己意識である。この自己規定的な、思考し意欲する意識の力に比べれば、他の全てのものはただ相対的で一時的な自立性を有するにすぎない。美学Ⅱ中(s1090 )


自然の感覚的現象、太陽、天空、星辰、植物、動物、岩石、河川、海岸などはただ抽象的に自己自身に関わっているだけで、たえず他の存在物と共に移ろいすぎてゆくことを免れず、従って有限の表象にとってしか自立性を有するものとはみなされない。それらにはまだ絶対者の真の意味は現れていない。a


自然はもとより外に現れてはいるが、実は外的存在の相においてであるに過ぎない。その内面は内面それ自身として自存しているのではなく、多彩多様な現象へ放散されており、従って自立性を欠いている。具体性と自由性と無限性とをもって自己自身に関わっている b


精神においてはじめて真実絶対の意味が本当に開示され、その現実的存在の内に独立自存しているのである。このように絶対的意味が直接的感覚に与えられたものから脱却して独立自存するものと成るところの道程において、吾々が出会うのは、想像が崇高性を帯び神聖化の作用をなす場合である。c


一体、絶対的意味を持つものは、何よりも先ず。感覚性を超絶して思考する絶対の一者である。この一者はひたすら絶対者としての自己にかかわり合い、従ってその創造した他者である自然や有限者一般を、確たるよりどころを内具していない。(ibid s 1092 )


それは全て存在物を超越し支配する客観的な力として表象された普遍者それ自体である。この一者が被造物に対してこれを空しいものと観ずることもあれば、汎神論的意味でそれ自身積極的に被造物に内在するものとして意識され表現されることもある。これらの見方には二通りの欠陥がある。1093


第一に、本来の意味で個体性と人格性を持つに至っていない。従って、精神として把握されない。・・・精神だけをその内面として現出せしめ、それ自身精神の外化や実在相に成っている。第二に、絶対者が抽象的で、本当の意味で具体的な型態として現出させることが出来ない。1098


ひとり人間の型態のみが精神的な内容を感覚的なかたちで啓示することができるからである。・・人間の外形は動物のようにただ自然の、生命を持っているものであるに止まらず、それ自身のうちに精神を反映する肉体なのである。・・一般に人間のすべての型態を通じてその人の精神的性格が表現される。a


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月29日(金)のTW:#自然哲学、#物理学、#内的必然、#外的必然、#概念

2013年03月30日 | Myenzklo

【自然の考察――ヘーゲルの自然観】私たち人間は自然の内に生き死にする存在であり動物である。空気(酸素)、日光、水などそれら自然物なくして片時も生存できない。肉、魚、米、野菜など自然界の有機物を食料として摂取しながら、外界の自然との新陳代謝を繰り返しながら生きてゆく。


ヘーゲルの自然観は彼のエンチュクロペディ-第二篇自然哲学§245以降に明らかにされている。その緒論の中で、自然の考察方法の違いとして、物理学と自然哲学の相違を述べる。要するに、物理学は、経験科学であって、もちろん、思考の働きによって、普遍性を、法則を認識する。


しかし、その法則性は原因結果の因果関係であり、外的法則性であり、物理学は内的法則性を認識しない。特に科学に置いて、法則性に内的と外的との二種を認めたことが、ヘーゲルの功績である。物理学も有限の経験科学として、ヘーゲルの哲学大系の中に取り入れられている。


自然哲学の論理は、普遍―特殊―個別であり、概念はこの論理に従って発展してゆく。有限の科学である物理学と、本質的に無限の科学である自然哲学との相違もここにある。自然哲学は「自然そのものに内在する概念を考察」するものである。(§245)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月27日(水)のTW:#国家、#立憲君主国家、#法の哲学、#西尾幹二、#ヘーゲル、#絶対的国家観

2013年03月28日 | Myenzklo

しかし、ヘーゲルは実体としての国家の客観的な実在を認めている。ヘーゲルの「国家」の体系的な位置は、第三篇、精神哲学の第二部、客観的精神のなかの人倫の項目である。ヘーゲル哲学の他に増して独自である点は、その哲学の体系性にあることは言うまでもない。ニーチェやショーペンハウエルなどの


愚劣な哲学に比して、ひときわ卓越せる点も又、この体系性とその論理的な完結性にあることは言うまでもない。そうした性格は科学哲学として、必然的なものである。そして、ヘーゲルは国家を論証し、それが近代においては具体的には「立憲君主国家」型態を取ることを論証したのである。


我が国の政治家や大衆は歴史的に、伝統的に我が国の国家体制が、皇室を中心とする「立憲君主国家」体制であることを承認し、又その優越性を理解しているようであるけれども、それはいわば、本能的な、あるいは直観的な、あるいは感性的な理解であって、決して哲学的な論理科学的な確証のある


理性的な理解にまでは立ち至ってはいない。私の知る限り東京大学の哲学教授でさえ、ヘーゲルが自身の哲学大系の中で論証した「立憲君主国家観」を理解していない。だから、日本の政治家の中でも誰一人として、哲学的確信をもって我が国の「立憲君主国家体制」を理解している者はいないとしても


おかしくはないのである。ただ、しかし彼らの国家観が哲学的でなく、感性的であり、直観的であることの欠陥や不完全性はやはり免れないのであって、それは、立憲君主国家を承認する者においても、その歴史観は「皇国史観」レベルに止まっていることに現れている。論理的な「絶対的国家観」として


の自覚を持ち得ないというところに現れている。評論家の西尾幹二氏らにしても、直観的に我が国の国家体制として、皇室を中心とする「立憲君主国家体制」の優越についての信念は持っている。しかし、ニーチェ学者でヘーゲルをやらない西尾幹二氏にとっては、


その国家体制の正当性についての確信は、決して論証された科学哲学的な信念であるというものではない。それはヘーゲルの『法の哲学』を通じて初めて獲得されるものだからである。


キリスト教国の王室は昔から庶子が排除されてたが、直ちに男系が断絶したなどという事実はない。フランスのカペー本家と、バロア家とブルボン家という二つの宮家で、フランス革命まで800年以上男系継承を続け、現在でもブルボン系のオルレアン家がカペーの男系を継承している。 #女性宮家

reviewさんがリツイート | 1 RT

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月26日(火)のTW:#国家、#人倫、#家族、#愛、#ケルゼン、#法実証主義

2013年03月27日 | Myenzklo

「国家は自己を自覚している人倫的な実体である。国家は家族の原理と市民的な利益社会の原理との統合である。この統一の原理は、家族においては愛の感情としてあるものだが、それは国家の本質でもある。a(ヘーゲル『哲学百科事典』§535)」


※これからヘーゲル哲学について研究してゆく場合の姿勢としては、まず、原典を出来うる限り忠実に翻訳してゆくとしても、それだけではどうしても、ドイツ語と日本語の言語体系の相違のために、ヘーゲルのドイツ語における認識や思考の展開が、どれだけ忠実に翻訳を心がけたとしても、a


本来的に両言語の持つ認識表現の差異のために、完全に日本語としての認識表現に転換するには限界がある。そこで、私は方法論として、まず第一に可能な限り、原文に忠実に日本語への翻訳を実行するけれども(これが翻訳の第一相)、第二に、その第一相翻訳を踏まえた上で、


認識の本質的同一性を保持したまま完全に自己の私自身の日本語に 転換するという作業を行なってゆく。(第二相翻訳)この段階は従来は「意訳」と呼ばれるものかも知れないが、少なくとも、ヘーゲルの原文の趣旨を、同一の事柄をどのように認識しているかを、


私自身が母語である日本語において表現し確定してゆこうというものである。だから、この第二相の記述においては、少なくとも、ヘーゲルの叙述の同一の事柄を、私自身がどのように解釈し、また、認識しているかを、事実として記録してゆくことになる。このことは、講壇学者のように、単にドイツ語の


横文字を日本語の縦書きに転換することをもって完了とするのではなく、ヘーゲルの哲学大系の現実的な意義を、私自身の哲学と思想の構築に生かし切るためにヘーゲル哲学大系の読解を目指す者にとっては、当然の姿勢であり方法論でもあるはずのものである。早速に、先述の翻訳個所について実行してみる。


「国家というのは、自己のことを自覚している人倫としての実体である。国家は家族と市民社会の二つの原理を統合する存在である。家族の原理は愛であるが、国家の本質も愛である。」※「人倫としての実体」の原文は、sittliche Substanz であるが、「Substanz」 は「主体」


とも訳せる。担い手、支える物、有体物などの意味で、ここでは原動力を内在させている物、ぐらいの意味にとっている。私たちが、日本やイギリスやドイツ、アメリカなどの言葉で具体的に表象する事柄や内容と考えてよい。日本であれ、イギリスであれ、これらの国家は、兵役の義務や納税の義務など、


それぞれの国家に所属する国民は、国家に対して倫理的な義務を担う。このように、ヘーゲルなどは国家を「実体」として捉えるのであるが、ケルゼンなどの立場は、国家を、ヘーゲルのように実体として「客観的観念的実在物」としては認めない。


ケルゼンが国家の現象として存在を承認するのは、実証できる制定法においてのみである。これは、哲学上の認識論から言えば、「概念」の客観的実在を認識しない不可知論、もしくは唯物論の立場に事実上立っている。従って、ケルゼンは「自然法」を認めない。この立場は法実証主義と呼ばれる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月23日(土)のTW:#主体、#他者、#時、#永遠、#アウグスチヌス、#過去、#未来、#不可逆

2013年03月24日 | Myenzklo

実在する主体は実在する他者と直接的なる関係交渉において立つ。かくの如く生きるのが生の最も基本的な根源的姿である。この土台の上に文化的人間的生は建設される。・・・ここよりして時間性が人間性の地盤にいかに深く根を張っているか、い (続く) tl.gd/lcg45h


自然的生を生きる限り主体は存在を獲得しつつしかも同時に喪失する。ここでは生ずるは滅ぶるであり来るは去るである。・・・将来と現在との間に存するこの矛盾関係は畢竟主体と他者とが生及び存在の真の共同に達しおらぬことを指し示す。・・ (続く) tl.gd/lcg8s9


アウグスチヌスの「時」の論はこの題目について思索する何人も研究の出発点となし又終始指導者となさねば画期的業績である。・・「期待」は自然的時間における将来に対応するとして許されようが、「記憶」は、後に論じる如く、文化的歴史的生の段階に属する働きである。(ibid s 16 )


アウグスチヌスが永遠と時とを単に区別し対峙せしめるに止まって、それと活きた連関において真にそれの克服者として理解し得るに至らなかったのも、同一欠陥の発露である。(ibid s 16 )


アウグスチヌスは将来が、実在的他者との関係交渉において自己の存在を維持する人間的主体の生き方を示す、といふ真理を認識し得ずにをはった。彼がが永遠と時とを単に区別し対峙せしめるに止まってそれと活きた連関において真にそれの克服者として理解し得るに至らなかったのも同一欠陥の発露である。


過去の内容は現在のそれと融合浸透を遂げつつ持続換言すれば包括的現在を成立たしめる。過去の内容は記憶に俟つ外はない。かくては持続としての時は文化的時間より将来を取り除いたものに過ぎぬであらう。さてすべてこれらの事どもはいずこに源を有するであろうか。いふまでもなく、a


主体が単独孤立の立場に置かれたことが一切の誤謬の原因である。持続を体験する主体は、他者への生に没頭する本来の態度を置き棄て、自己の姿を自覚の鏡に写そうとする反省の位置に退いてゐる。認識の方法は直観と言われてゐるが、これは抽象 (続く) tl.gd/lciujk


以上述べ来たった時及び時間性の本質的構造よりして吾々は、永遠性との対立及び連関において観られる場合特に重要性を発揮する諸々の特徴、時間性の形式的特徴ともいふべきもの、を導き出しつつ理解し得るであらう。第一は時の方向である。時の方向は将来より現在を経て過去へ向かうとも、又反対に a


過去より将来へ向かうとも考へられる。この矛盾は時の観念の中に伏在する問題を示唆するとしての意義はあらうが、その問題は、後の論述の明らかにするであらう如く、時間性の異なった段階を区別することによってのみ解決を見る。自然的体験的時間即ち時間性の最も基本的根源的姿においては、b


方向は将来より過去へと向かふ。しかもこの方向は断然動かし得ぬものである。過去になったものは無に帰したものである。単純率直なる非存在である。無くなったものは取り返しのつかぬもの、主体の処理の手の届きかねるもの、この意味において絶対的なるものである。(ibid s 18 )


昔を今になす由もないのが時の本然の姿である。ここに時の「不可逆性」(Unumkehrbarkeit)は成立つ。要するに有より無へ存在より非存在へ向かうのが時の最も根源的方向時間性の最も本質的性格である。次に、時間性は無常性と可滅性とを意味する。時と時における存在とは、


絶え間なき流動推移の中に有より無への方向を取りつつ、息みもせず振返りもせず、ひたすらまっしぐらに壊滅の道を進む。以上と連関して第三に、時間性は断片性不完成性を意味する。時間的存在はいつも滅びつつある従っていつも欠乏に陥りつつ (続く) tl.gd/lcj5o2


第四、時間性は主体と実在的他者との直接的関係交渉において成立つものとして、一方まっしぐらの没頭を、他方主体性の本質を為す自己主張に加えられる拘束を意味する。これは主体が自己の任意なる自由なる決意や努力により取除かれ得る事態ではない。いかにとも致し方なきいはば宿命的事態である。a


第五、生ずるは滅ぶるであり、有は無に等しく、生の意味の実現も達成されず、一切が果無き幻にをはる處、しかも主体がこの事態を自らの力をもっていかにともなし得ぬ處には、生の意味の否定、幸福の喪失、空虚の感、不安哀愁落胆等は避け難き (続く) tl.gd/lcj8q2


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする