海と空

天は高く、海は深し

書評  藤原正彦『国家の品格』3

2006年05月31日 | 書評
 

だから、藤原氏が第三章の末尾で、「もちろん民主主義、自由、平等には、それぞれ一冊の本になるほどの美しい論理が通っています。だから世界は酔ってしまったのです。論理とか合理に頼りすぎてきたことが、現代世界の当面する苦境の真の原因と思うのです。」(p94)と言うときも、その洞察に思わず微笑せざるをえないし、また、それに続く第四章で、その苦境の「一つの解決策として」「日本人が古来から持つ「情緒」あるいは伝統に由来する「形」」を藤原氏は提示しておられるけれども、(p95)それらが、現代世界の「苦境」を根本的に解決する能力も可能性もないことについては、ここではこれ以上に論証するつもりはない。

ただ、この藤原氏の主張が、「情緒の過剰」と「論理と合理の欠乏」という日本人の民族としての根本的な弱点を拡大再生産することにつながらないことを願うばかりである。ここで「自然に対する繊細な感受性」や「世界一の庭師」や「茶道、華道、書道」などの伝統文化に藤原氏が誇りを持ち、それらにアイデンティティーを見出すのはもちろん自由であるが、その文化の反面は「ひよわな花」と形容されることも知るべきだろう。

また、現代日本の市民社会が退廃しているからという理由で、第五章で「武士道精神の復活」を主張され、志されること自体は、もちろん悪いことではないし、それなりに意義のあることかもしれない。しかし、もはや江戸時代の鎖国社会に後戻りもできない現代日本において、「近代的合理主義の欧米の精神や文化」の否定的な側面を「批判」するということは、そういうことではないと思う。

確かに、武士道の精神であれ、きっちりそれを日本人が実行できれば、それは欧米の「平均的な」モラル以上ぐらいは達成できるかもしれない。しかし、藤原氏が、この「武士道の精神」を「つまらない論理ばかりに頼っている世界の人々に伝えてゆかなければならない」と言って、「武士道の精神」から「論理と合理の精神」を排除するとき、この「武士道」の行き着く先は、先の世界大戦でのインパール作戦の悲劇の再演にしかならないだろう。

そして引き続く第六章で、「なぜ「情緒と形」が必要であるか」、その理由も説明しておられるが、ここでは、それにいちいち反論する意思も暇もないけれども、ただ、部分的には真実が語られているからこそ、この本が広く受け入れられていることになっている事は認めてよいと思う。

しかし、藤原氏が「情緒と形」という言葉で表現されている人間の「感性」という能力は、「悟性」や「理性」よりも低い動物的な能力であること、その分を弁えて、日本人の美しく素晴らしい繊細な「情緒と形」を主張するのでなければ、それは「おのれ誉め」にしかならず、それはすぐに「自惚れ」に転化することを知っておくべきだろう。それに、藤原氏は伝統やユーモアを重んじるイギリスの国柄やその美しい田園風景を評価され、イギリスの政治家のモラルの高さも認めておられるけれども、このイギリスも西欧の一国として、一面は近代的合理主義の精神の国であったはずである。「論理」と「情緒」は両立するし、させるべきものである。論理なき情緒は動物の情緒でしかない。

そして、藤原氏が「人間中心主義というのは欧米の思想です。欧米で育まれた論理や合理は確かに大事です。しかし、その裏側には拭いがたく「人間の傲慢」が張り付いています。」(p152)というとき、それは日本人が欧米人程度の傲慢さも持ちえないということでもある。それに傲慢であればあるほど謙虚さも深い。

また「閉塞感、虚脱感には、人間中心主義により自然が対立関係に陥った事実が深く影響」(p153)しているというとき、対立や分裂のない調和は、子供の調和でしかないし、対立や分裂が大きいだけ、快復した調和は深いということもある。一般に藤原氏に、こうした弁証法的な認識のないことが思考の弱点をなしていると思う。

「繊細な美的感受性の国」(p97)日本の現実の自然破壊(湾岸のコンクリート化や森林伐採を見よ)や風俗産業における女性の人身売買の現実は、「人間中心主義」の欧米よりも日本では深刻であるという事実を藤原氏はどのように説明されるだろうか。日本のパチンコ文化や都市景観の現実を見れば、日本人の「情緒と形」の精神の実際の現象形態がどういうものであるかがわかるだろう。果樹の良し悪しは、その結ぶ実によって分かると言うではないか。

藤原氏のように、「第二章で(自身の)論理の無力を説き、第四章で、それに代わるものとしての「情緒と形」を述べる」(p185)ことによって、果たして目的とする「国家の品格」が取り戻せるかどうか。

家族や友人たちとの人間関係において「論理」を優先するのは、おそらくアメリカなどの多民族の新興国であって、イギリスや日本のような多少なりとも伝統のある国ではその愚かさを国民は知っている。

そうではなく、国家のレベルで品格を取り戻すためには、政治や経済活動の公共の領域において、何が善で何が悪か、高い倫理と論理にもとづく正義を回復してゆくことである。その論理を主張するということは、もちろん「口角泡を飛ばす」ことなどではなくて(修道院の奥で行われる、静かで情熱的な論争がある)、自由や民主主義の哲学についての深い理解と高い論理的な構築力によって、より完成された立憲君主国を建設してゆくことによってである。

もし藤原氏が「自由と民主主義」を疑うのなら、それに代わる武士道の精神にもとづく「品格ある国家」がどのようなものかを具体化してゆく必要があるだろう。

 2006年03月16日

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書評  藤原正彦『国家の品格』2

2006年05月30日 | 書評
 

先の章で藤原氏は、帝国主義や植民地主義を、さらには、資本主義の現代的形態である市場原理主義と、その根底にある近代的合理主義の精神の「破綻」について述べたあと、この「第三章」で、現代国家一般の基本的な理念である、自由、平等、民主主義に対する疑いと批判へ歩を進める。

とくに欧米人の「論理の出発点」である「自由」という概念がよく分からない藤原氏は(p66)、とくに戦後日本における「自由」という名の化け物のことさらな強調とその現実の帰結を見て、「どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけだ。それ以外の意味での自由は、このことばとともに廃棄すべきだ」とまで言う。(p66)

そして、この自由は、藤原氏にとっては、欧米人の「論理の出発点」であり、また、それはまた、欧米が作り上げた「フィクション」にすぎないという。(p67)

しかし、果たして自由は、藤原氏が言うように、フィクションなのだろうか。藤原氏は、福沢諭吉の自伝でも読んで、いわゆる近代的な自由のない封建的身分社会に暮らしてみることを想像してみるか、あるいは、現実に北朝鮮や共産主義中国に移住して、氏の欲するような言論活動に従事してみればよいのではないかと思う。そうすれば、「自由」がフィクションであるか否かが、体験によって分かるのではあるまいか。理論的に分からない子供は、旅をし体験して理解するしかないのである。

また、自由は、日本国憲法には、言論の自由、結社の自由、職業選択の自由などと具体的に規定されているのであって、決して「フィクション」であるわけではない。

そして、この自由については第九七条には、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるとも書かれている。この「人類」とは実際には、直接的具体的には、欧米人のことであって、歴史的にさまざまな革命と変革において、西洋人が血の代償として贖いとってきたものである。

確かに、藤原氏が「欧米が作り上げた」(p67)と言うように、この自由の実現の功績は主として、欧米人によって担われたのであって、アジア人やアフリカ人には、自由の実現ということについては、歴史的にも思想的にも、ほとんど貢献するところはない。しかし、もし西洋人のそうした歴史的な貢献がなければ、今日の日本国憲法下に暮らして私たちが享受しているような自由もなかったはずである。

なるほど、自由は明治期の自由民権運動の成果として、わが国においては大日本帝国憲法によっても、一定限度において実現されていた。しかし、その帝国憲法下の自由と、太平洋戦争後に日本国憲法に規定された、自由に対する権利の内容と比較すれば、後者において格段に自由が増大していることは明らかである。

そして、この自由と権利の保持の責任とその濫用の禁止については、日本国憲法が、その第十二条にこの上なく明確に規定しているにもかかわらず、この日本においては「自由」が、藤原氏の言うような「身勝手の助長」(p66)にしかならなかったのは、結局、日本人にとっては、自由が「豚に真珠」「猫に小判」でしかなかったからではないのか。

西洋人が理解した自由とは、自由の真の概念とは、次ぎのような言葉に表現されているのではないかと思う。


「自分の身にふりかかることを自分自身の発展とのみ見、自分はただ自分の罪を担うのだということを認める人は、自由な人として振舞うのであり、その人は自分の身にどんなことが起こっても、それは少しも不当ではないのだという信念を持っている。」(ヘーゲル「小論理学§147)


ここには自由に「身勝手」という意味はない。藤原氏の自由観は真実を尽くしていないと思う。
 参照 必然性と運命(自由)

自由に対する筆者の「批判」と同じように、藤原氏の「民主主義」批判についても欠陥があると思う。藤原氏は「自由」の場合と同じように、「民主主義」についても、日本の戦後の「自由」や「民主主義」の特殊な「現実」から、自由や民主主義の「概念」を批判する。これでは真の批判にはならない。

そうではなく、批判とは、自由や民主主義についての正しい概念でもって、特殊な戦後日本の「自由」と「民主主義」の現実を判断すべきものである。だから、批判するためには、まず、自由や民主主義の概念を正しく理解していることが前提になる。

藤原氏は疑って「民主主義は素晴らしいのか」(p74)と言う。民主主義すなわち国民主権、主権在民は、「国民が成熟した判断をすることができる」場合には、文句なしに最高の政治形態である(p75)と。

もちろん、民主社会における国民の判断や世論のそうした限界はよく知られているし、一部の狂信的な「民主主義者」だけが、民主主義の限界も弁えずに崇拝し、「絶対性」を主張しているだけである。

それぐらいは誰も知っているし、だからこそ、チャーチルも、「民主主義は最悪の政治形態であるが、今まで存在したいかなる政治制度よりはまだましである」と言ったのだ。民主主義の価値は相対的なものであり、まだその絶対性を論証した者はいない。民主主義は、概念としては、藤原氏が言うように「国民が成熟した判断をする」ことを自明の前提とはしていない。

しかし、だからと言って、「国民は永遠に成熟しない」(p82)と断言して済ませるだけでは、民主主義における日本国民の文化的な成熟度についてや、その国民的な資質の向上についての教育上の課題も問題意識に上ってこない。


それとも、アメリカやイギリス、オランダ、デンマーク、スイスなどの欧米諸国民の民主的な成熟度と日本のそれとが同一の水準にあると藤原氏は見ているのだろうか。雲仙市会議員たちの、口にするのも愚かしいような乱行が、今日も明らかになったばかりである。これが、日本の国民や政治家の現実ではないか。

さらに言うなら、歴史的にプロテスタント・キリスト教文化を背景にする民主主義には、国民が宗教改革を体験し、自由の意識を確立しているという前提がある。この前提がなければ、日本やイラクにその例を見るように、借り物の「民主主義」による悲喜劇を見るだけではないのか。

それとも藤原氏は、この借り物の「民主主義」を本物にしようとするのではなく、民主主義の精神と制度に代えて、武士道の精神に置き換えようとするのだろうか。

民主主義国家にも「真のエリート」が必要である(p83)と言うのはそのとおりであると思う。民主主義国家であれ、株式会社のような経営者の「独裁的」な組織であれ、指導者、幹部の質がその国家なり組織の質を決定することになるのは言うまでもない。

藤原氏が言うように、もはや現在の日本の「官僚」は真のエリートでない(p84)どころではなく、政治家も含めて、「高級公務員」が、反国民的な単なる利益集団に変質し、堕してしまっているのが現実である。

イギリスやフランスやアメリカで養成されているようなエリートが日本にはおらず、養成もされていないことが問題であるのは藤原氏の言うとおりであると思う。しかし、だからと言って、民主主義の「限界」を拡大解釈して、民主主義の持つ「意義」をすら否定しようとするのは、藤原氏の「政治思想」の水準を示すものでしかないと思う。

藤原氏の自由観や民主主義観についていえることは、また平等についてもいえる。悪平等と言う言葉があるように、「平等」をただ抽象的に狂信的に振り回せば、どういうことになるか。それは、フランス革命や中国の文化革命の末期に吹き荒れた凶暴な人民の暴力、日本の「男女平等法案」に教育上の問題を見るまでもない。家庭内において、親と子が「平等」でありうるわけがない。

それにも係わらず、藤原氏は、「平等とは何か」その真の概念を問い、それを具体的に展開しようとせず、「平等」もフィクション(p88)とか、「平等」ではなく「惻隠」を(p90)といって、不完全ながらも、曲がりなりにも「平等」を具体化し制度化した現行の制度を無視する。そして現行の組織や行政を具体的にさらに「真に平等」のものに改革して、本当の惻隠の情を実行しようとするのではなく、「惻隠という武士道精神」の抽象的なスローガンで応じるだけである。そして「論理だけではもたない」とか、「自由と平等は両立しない」(p92)と断言するだけで、より高い論理能力で問題を解決する方向には進まないのである。

 2006年03月13日 

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書評  藤原正彦『国家の品格』(1)

2006年05月28日 | 書評
 

およそ批判や批評の対象として取り上げる科学論文なり学術論文が、理論的に価値のある著作であれば、そこで展開されている思想の概念、判断、推理は当然に精確なものであるはずである。

とはいえ、もちろん批判や批評の対象は、必ずしも科学論文、学術論文のみに限らない。詩歌や小説などの文学作品から絵画、音楽、また映画などの芸術作品なども当然に取り上げられる。だが、その際には、「純粋な」科学論文,学術論文を批判する場合のように、その理論を厳密に検証するということにはならない。学術論文を批判する場合と、随筆や宗教的著作や芸術作品を批評の対象とする場合とでは、当然にその方法も内容も異なったものになる。

とはいえ、批判とはいずれにせよ、対象作品を、批判者自身の価値観の体系のなかに取り組み、位置付けることによって評価することである。このことは同時に、批判者の判断力や認識能力など、その理論的水準自体が問われることでもある。だから、何よりも批判者自身が、その作品を批判し、批評する能力や資格があるのか、ということが当然にまず問題にされるだろう。また、その内容がどれだけの理論的な水準にあるか、その批評行為そのものによって批判者自身が批判されることでもある。

この藤原正彦氏の『国家の品格』はベストセラーにもなったそうだ。それにしても、この作品は、ジャンルとしては何に分類されることになるのだろう。作者の藤原正彦氏は数学者である。しかし、言うまでもなく、この著書は数学の本ではない。『国家の品格』という書名が付けられているけれども、国家理論などを厳密に展開したいわゆる国家学の書物であるということもできない。恋愛や愛国心などの人間の心理を掘り下げ追求した心理学書でもなければ、もちろん小説というジャンルに分類することもできない。

また、多くの個所で「論理」の問題が取り上げられているけれども、認識や存在や時間や弁証法などを問題にする哲学の本に分類するにも無理がある。

一読したところ、一冊の本としては、倫理を問題にした随筆か、あるいは愛国心などについて論じた道徳的な啓蒙書として捉えるのが妥当であると思う。愛国心(筆者によれば祖国愛)や倫理的な精神としての武士道を取り上げている。これが本書のテーマでもあるといえる。

「はじめに」(p3~6)のなかに、本書の全体の趣旨が簡単にまとめられているといえる。筆者自身のアメリカとイギリスでの留学体験が語られ、そこでの筆者の価値観の変化、すなわち論理偏重から情緒重視へと、さらに武士道精神の再発見へと心境の変化が語られる。それは、現在わが国社会においても進行しているグローバリズム、アメリカナイズの過程で、市場経済に代表される欧米の「論理と合理」に日本が身を売り、わが国古来の「情緒と形」を忘れ、それが日本の「国家の品格」を失わせることになったという筆者の問題意識が、その時代的な背景としてある。(p6)

第一章  近代的合理的精の限界(p11~34)

もともと「野蛮で遅れていた」西洋はルネッサンス、宗教改革、科学革命により理性が解放されて、ヨーロッパは初めて論理や近代的な合理的精神を手にし、それによって産業革命を起こし、世界の欧米支配が実現した。 (p16)

しかし、今日いわゆる先進諸国では、家庭や教育が崩壊し、犯罪が多発している。筆者の主張によれば、それは近代的な合理的精神が破綻したからだという。そして、帝国主義や植民地主義もその西欧的な論理であり、その論理が通っているからこそ非道なことも行われたという。

ここで、筆者は「西欧的な論理」とか「傲慢な論理」とか「美しい論理」「見事な論理」というように「論理」にさまざまな形容詞を冠してしているが、論理それ自体は、感情的な評価とは無縁なのではないか。論理においては正しいか、必然的であるかだけが問題にされるのではないだろうか。


筆者は「帝国主義の論理」や「資本主義の論理」を取り上げているが、それらの論理がどういうものであるのか、具体的に展開して説明しないで、その論理の帰結だけを見て、弱肉強食とか卑怯とかケダモノとか下品とかといったことばで評して非難しているだけであるのは、単なるレッテル張りで、具体的な説明の展開がないだけ物足りない。この分野を専門としないことから来る限界かもしれない。


そして現在、資本主義が進化した市場原理主義に至って、世界経済自体が危機的な破綻を迎えているといい、それを救済するのは、筆者の主張によれば、「武士道精神」なのだそうである。なぜそうなのかは以下の第二章で説明される。


第二章  「論理」だけでは世界が破綻する(p35~64)     

どんなに論理的に正しくとも、それを徹底してゆくと人間社会はほぼ必然的に破綻に至ると筆者は言う。(「必然的」に「ほぼ」という形容詞を付すのはどういうことなのかよく分からない(笑)が)、だから、「論理」だけでは世界が破綻するという。その理由として、さらに筆者が追加するのは、

①論理には限界があること、   

②もっとも重要なことは論理で説明できないこと、

③論理には出発点が必要であること、

④論理は長くなりえないこと、

などをあげている。   
しかし、この四つ内容は、本当に「「論理」だけでは世界が破綻する」ことの理由の説明になっているだろうか。これらの四点は、理由として必要十分でかつ、必然的だろうか。いずれも非常に粗雑な説明で、論証になっていないと思う。

まず、「「論理」だけでは世界が破綻するという」説明自体が、第一にそもそも意味不明である。おそらく、論理のほかに「情緒や形」がなければ幸福な世界は成り立たないことを説明しようとしているのだと思うけれども。


また「人間の論理や理性の限界」の例として、「社会に出るとタイプが必要だから、学校でタイプを教えると、ろくな英語しか使えなくなった」ことを筆者は取り上げているが、それは、アメリカの当局者の教育理論が、ただお粗末なだけであって、「論理」に限界があるといった大げさなことではまったくない。そして、さらに、筆者は「論理に限界があること」の事例として、「市場経済主義だから株式投資」とか「国際化だから英語」という理由で小学生に英語や株式投資を教えることを、教育上の失敗の例として挙げているが、これもまた、その教育理論が拙劣なだけであって、「論理に限界がある」ためなどではない。

こんな拙劣な事例を取り上げて、厳密に「論理」を検証する余裕も能力もない人々に、事実として「論理」に対する偏見や蔑視を植え付けるのは教育上においても問題ではないだろうか。

特にわが国のように、過去において、その精神主義本位の傾向のために、人間性尊重と技術合理主義の精神の徹底を図れないまま、多大の被害や犠牲を出すという失敗の経験に事欠かない民族においては、「論理」や「合理主義」に対する偏見や蔑視を助長するような、筆者の非合理的な「説明」は、弊害が少なくないのではないかと思う。


また、「論理」だけでは世界が破綻する(笑)第二の理由として、「もっとも重要なことは論理では説明できない」ことをあげているが、これも、また当然のことであって、たとえば女性の心理など、「数学的な論理」で説明できないのは言うまでもないことである。しかし、大衆は日常生活の経験から鍛えられた論理的思考で、のびのびと「論理的」に思考し、日常の問題を解決しているのではないだろうか。奥さんが氏の話を「半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷」というのも一つの見識ではないかとさえ思う。


注意しておく必要があるのは、筆者である数学者藤原正彦氏の念頭にある「論理」の内容が、とくに「数学の論理」であって、それが「特殊な論理」であることである。

数学の論理というのは、ただ、量と数をのみ目的として、その証明は機械的な自然の段階、領域においてのみ通用する論理であって、有機体や生命や社会構成体の運動や発展を説明できる論理ではない。

だから、単なる数学的な論理のみでは、藤原氏自身が述べているように「もっとも重要なことは(藤原氏の数学的な)論理では説明できない」のも当然のことであり、そのことは別段に新しい発見でもない。


論理的に説明できないことの、もう一つの例として、藤原氏は「人を殺していけないのはなぜか」をあげている。しかし、これも当然であって、これらの問題は数学的な論理の問題ではなく、倫理の問題であり、したがって、家族や社会や国家の論理から説明されるべきものである。

またさらに、第三の理由として、論理には出発点が必要であることを上げておられる。だがこれはまさしく、数学的な証明の欠陥を、あるいは限界を示すものであって、数学にあっては、この出発点Aの必然性が洞察されず、これこれの仮説Aから出発せよと外的に命令されて、その命令が証明にとって合目的的であることをさし当たっては盲従するしかないからである。

筆者にとって論理の出発点は、「情緒や形」である。この出発点は恣意的なものであって、その必然性を論証できないから、藤原氏は盲信するしかないし、また、この出発点AやBの恣意的な選択の結果として、結論が異なるのも当然のことである。

これは、数学の目的が、その論理的な証明が、貧弱で、その素材も、一という数や空間という量的なものに過ぎないからである。数学は、時間や有機体など、純粋な生命の不安定な事柄を対象にはできないからである。数学の証明というものは外的な必然性を目的にするものでしかない。
この「数学的な論理」の特殊性を普遍化して、「「論理」だけでは世界が破綻する」と藤原氏がいうのは正しくない。

また筆者は「最悪は情緒力がなくて論理的な人」(p53)というが、これもまた、能力と善悪が必然的に一致するものでないことを考えれば、当然のことである。

筆者が言うように、「数学をいくら勉強したところで、現実(民主主義や哲学など、人文科学や社会科学の領域)において適切な(判断や)振る舞いができるとは限りません」(p54)というのは、全くもって当然の話である。

そして、最後に藤原氏は第四の理由として、「論理は長くなりえない」ことをあげる。(p55)ここで筆者の専門である数学の論理で説明する。数学における証明はここでも説明されているように、1とか0.5といったは数量で取り扱える領域だけであるのに、現実の世界は、生命や磁石を見ても分かるように、生と死や陰極と陽極のように、その完全な境界を設定できない世界である。ここでは明らかに数学的なデジタル論理は破綻する。「短い(数学の)論理は深みに達しない」(p62)のだ。


だから、「「論理」だけでは世界が破綻する」という、この第二章の標題は、「世界の現実に直面して、藤原氏の論理は「破綻」する」とでもしておけばよかったのではないかと思う。


数学者、藤原氏は本質的には、論理の人ではなくて、感情の人、文学の人ではないかと思う。この章の最後で、氏が「欧米の支配を支えてきた論理や合理のほぼすべてがワンステップやツーステップで彩られている」(p64)というのは、西洋の数千年にわたる伝統の中で蓄積された哲学的思索や論理的な精神についての無知な、井の中の蛙の世界観ではないかと思う。

 2006年03月16日 

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