小泉首相の靖国神社参拝が外交問題になっている。小泉首相は公約にしたがって就任以来毎年靖国神社には参拝しているのであって、これまでも靖国神社の参拝も適切に判断すると言っていたのであるから、今回の参拝も当然に予期されたことではある。
哲学に興味と関心のある私のようなものにとっては、小泉首相の靖国神社参拝問題は、国家と宗教の問題として、哲学上の恰好の練習問題でもある。まあ、それは少し不謹慎な言い方であるにせよ、宗教と国家の関係については、終生の哲学的なテーマとして、当然に切実な問題であり続けることには変わりはない。
これまでも、小泉首相の靖国神社参拝問題については、幾度か私自身の見解を明らかにして来た。
「政治文化について」 http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20050731 「宗教としての靖国神社①」 http://blog.goo.ne.jp/aseas/d/20050716
「政教分離の原則を貫く判決に反対する人々」 http://www8.plala.or.jp/ws/e7.html
「靖国神社参拝違憲論争」http://www8.plala.or.jp/ws/e3.html
「小泉首相の靖国神社参拝について」
http://www8.plala.or.jp/ws/e1.html など。(関心のある方は読んでください)
基本的には考えは今も変わってはいないが、細部において、考えが深まっているかも知れない。今後も、引き続き国家と宗教の問題については、考察してゆきたいと思っている。
結論からいえば、私の立場は、国立の慰霊施設を造るべきだというものである。その理由は、まず、靖国神社が国家に殉じた人々を祭った宗教施設であるとしても、それが軍事関係者に集中していることである。国家のために身命を投げ打った者は、何も軍人のみに限らない。
先の太平洋戦争において国家のために尽くし、その犠牲となった人々は軍人のみに限られない。たとえば、勤労動員中に広島での原爆投下で亡くなられた人々は靖国神社においては慰霊の対象にはなってはいない。また、東京大空襲によって犠牲になられた方々についても同様である。靖国神社を国家的な慰霊施設にするには、そのように公共性に問題があるとも思われる。
もうひとつの理由は、宗教上、思想信条上の問題である。現代民主主義国家としての日本国は、宗教の自由、信仰の自由が認められている。そのために、日本国民は、いわゆる「神道信者」だけで構成されているわけではないということである。なるほど確かに、神道は日本の民族宗教として、日本国民にとっては特別な位置を占めていると言うことはできる。しかし、現代国家としての日本国の国民の中には、キリスト教徒もいればイスラム教徒もいる。また、靖国神社参拝に躊躇する仏教信者もいるだろう。それに無神論者、唯物論者もいる。要するに、現代国家の国民は、その宗教も多様であるということである。国際化した今日はいっそう多様化してゆくと考えられる。
そうした状況では、国家としての慰霊のための施設は、特定の宗教から独立した施設であることが好ましい。靖国神社が特定の教義と儀式を持つ宗教である限り、国家の機関である内閣総理大臣が職責として国家のために殉じた人々のために慰霊する場としてはふさわしくない。
実際に、靖国神社は戦後は一宗教法人になっているのであって、多くの株式会社と同じように、国家とは独立に、自らの宗教活動そのものによって参拝者を増やす努力をしてゆけばよいと思う。その活動の自由は完全に認められている。小泉首相にも、もちろん、一私人として、靖国神社に参拝する自由は完全に保証されている。しかし、国家の機関として内閣総理大臣の立場としての参拝であれば、いくつかの裁判判例で疑念が示されているように問題が多い。
だから、今回の参拝のように、小泉首相が一私人の立場であることをより明確にして、一般参拝者と同じように参拝したことについてはまったく問題はない。もちろん私人小泉純一郎氏と内閣総理大臣は切り離せないから、その影響力は避けられない。それはひとつの限界である。
政教分離の思想は、宗教と国家が癒着することによる自由の束縛、あるいは侵害に対する歴史的な教訓から生まれた。特に西洋では多くの宗教戦争や迫害という歴史が背景にある。思想信条、宗教信仰の自由、言論の自由など、いわゆる「自由」は精神的な存在である人間にとって、基本的な人権の最たるものである。これが侵害されることは、人間の権利の最大の侵害になる。自由の価値を自覚するものは、宗教と国家の分離に無関心ではいられない。特に、わが国のように戦前にいわゆる国家神道として、国家と宗教が深くかかわった歴史的な体験をもつ国家において、また、国民の間に自由についての自覚がまだ成熟していない国においては、政教分離の原則を今後も五十年程度は厳しく貫いて行く必要がある。
宗教は国家の基礎である。だから、真実な宗教である限り、国家は宗教を保護しその宗教活動の自由を保証しなければならない。したがって、靖国神社も他の宗教法人と同様に、国家から税法上その他の特別な取り扱いを受けているはずである。国家は自らの法津に従い、オーム真理教のように違反して敵対的にならない限り、諸宗教に対しては自由に放任し、寛容でなければならない。それがもっとも国民にとって幸福な関係である。
最近の一連の「靖国神社参拝」訴訟で、最高裁をはじめとして、総理大臣の参拝が、国家としての宗教行為に該当するか否かの判断の基準として「目的効果基準」の考え方が採用されているが、これは、判断基準としては必ずしも適正な概念ではない。この概念の根本的な欠陥は、何よりも「何が宗教的な行為であるか」についての判断が、裁判官の恣意裁量に任されてしまうことである。また、それは政教分離の思想の歴史的な由来にも合致していない。あくまで、「靖国神社参拝」の違憲訴訟においては、国家の宗教の分離という観点から、国家の宗教に対する中立性が、違憲、合憲の判断基準でなければならない。
最後に、首相の「靖国神社参拝」が中国や韓国との関係で外交問題にまでなっていることについて。もし、中国や韓国が一私人の小泉首相の思想信条の自由を侵害するものであれば、むろん、私たちは小泉首相個人の信仰上の自由を擁護しなければならない。特に中国など政教分離がいまだ確立しておらず、自国民の宗教の自由をどれだけ保証しているかについて重大な疑念のある国家においては。
しかし、また、先の太平洋戦争において、旧日本軍兵士の一部の間に、実際に国際戦争法規違反の事実があり、アジアの多くの無実の非戦闘員に対して惨害をもたらしたことも歴史的な事実である。その点で太平洋戦争の戦争指導者たちの責任が問われるのはやむを得ない。また、靖国神社にいわゆる「A級戦犯」が祭られていることからくる、そうした誤解を近隣諸国から受けるのを避けるためにも、宗教から独立した、そして、日本国民のみならず、日本国に関係した諸外国民をも含む慰霊施設を用意すべきであると思う。その一つの例として、沖縄の「平和の礎」があると思う。
2005年10月21日
※ 追記20140125
上記の考察では、新しい『国立の慰霊施設』の建設を主張しているけれども、2014年の現在においては、新しい国立の慰霊施設の建設については反対 へと考えが変わった。軍人以外の戦死者に対する慰霊施設としてはすでに千鳥ヶ淵墓苑があるし、おそらく、国立追悼施設としては今後千鳥ヶ淵墓苑に収れんし てゆくことと思われる。
靖国神社については戦前における「宗教の自由」の状況についてもう少し調査研究したうえで、また論理的な帰結をさらに再検証した上で、改めて意見を述べたいと考えている。
要するに、靖国神社を民族の伝統的宗教に関連する施設として認めるとしてもそれは本質的な問題ではないと考えるに至ったからである。核心は国家が信 教の自由をどのように保証するか、ということにある。戦前の歴史的状況と明治憲法の本質について改めて調べなおさなければ、靖国神社問題について発言でき ないと思った。上記の考察からすでに八年が経過している。
現時点では、明治憲法下での宗教観がどのようなものであったのか、結論を出すにはその本来のその概念の認識がまだ不十分であると考えている。特に先週になってインターネット上で初めて知見を得た、佐藤雉鳴氏の「国家神道」問題についての見解を再検討したうえで、これらの問題の歴史的な背景をも含めて再研究した上で、改めて自分の意見を述べるつもりでいる。