海と空

天は高く、海は深し

祈り

2006年01月18日 | 宗教一般

キリスト者にとって、人生に、生活(LIFE)にもっとも切実で不可欠な行為は祈りである。イエスも、倦まず弛まず祈るように教えられた。(ルカ18:1)
どれだけ深く強く鋭く粘り強く祈ることが出来るかは、それも修練の要することだと思う。

この祈りの中で、神と「理論闘争」が行われる。その中で思考と思想が練られる。聖書の中には、イスラエルが神と格闘したことが書かれている。そして、イスラエルは神と人と闘って勝った。(創世記32:29)


私たちもある意味では、神と闘わなければならない。ここでは、神とは「運命」のことである。人間は自分の神、すなわち「運命」と闘って勝たねばならない。そして自分を自分の運命の主人としなければならない。人間にとって、神とはそのような関係にある。


祈りとは、そのための神との戦いの場でもある。もちろん戦闘だから負けることもある。だが、人はこの「祈りの戦場」において鍛えられるのである。その意味では、キリスト者にとって「祈り」は、禅宗の座禅のような意義ももっている。祈りは、キリスト者にとっては精神の修羅場である。

 

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今日はクリスマス

2005年12月25日 | 宗教一般

    今日はクリスマス──伝道の書第十二章、詩篇第五十一篇

今年もクリスマスが来た。ただ一人の人の誕生日が今年も全世界で祝われる。その人の誕生日は西暦に刻まれているから、生まれてから何年の星霜を閲したかわかる。今年はその人が生まれてから二〇〇五年、その人は僅か三十余歳で十字架に付けられて一度は死に、そして三日目に復活し、今もなお、聖なる精神として生き、世界と個人に生きて働いておられる。

今年のクリスマスを無事に迎えられることを感謝する。しかし、今年も私は多くの過ちを犯し、罪を犯した。なすべき義務も果たさず、多くの愚行を重ねた一年だった。これというほどに仕事も成果が挙がらず、無為に一年を過ごしてしまった。
しかし、願うことは、無垢な人の十字架の死によって、私の愚かさと罪の贖われることを。主の御名の崇められんことを、御国の来たらんことを。クリスマスにちなんで。

詩篇第五十一篇


指揮者によるダビデの賛歌。バテシバに通じたダビデの所に、預言者ナタンが来た時。

私を憐れんでください。神よ。あなたの愛によって。
あなたの深い憐れみによって私の咎を消し去ってください。
私の悪をことごとく洗い流し、罪から私を清めてください。
私の過ちを私は知っています。
私の罪はいつも私の前にあります。
あなたに、あなたにのみ私は罪を犯し、
あなたが悪と認められることを、私は行った。
あなたの語られることは正しく、過たずあなたは裁かれる。
まことに、私は不義のうちに生まれ、私の母は罪のうちに私を身もごりました。
あなたは心の奥の誠実を喜ばれ、そして、隠された知恵を私に教える。
ヒソプの枝で、私の罪を拭ってください。そうすれば私は清められます。
私を洗ってください。私は雪よりも白くなります。
楽しみ歓ぶ声を聞かせてください。
あなたに打ち砕かれた骨が歓び踊るように。
あなたの御顔を隠して私の罪を見ず、私の悪をすべて消してください。
清らかな心を私に造り、新しく強い魂を与えてください。
あなたの御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
あなたに救われることによって、私はふたたび歓びを取り戻し、聖なる霊が惜しみなく私を支えてくださるように。
あなたに背く者たちに、私はあなたの道を教えます。罪を犯した者はあなたの御許に立ち返るでしょう。
血を流す者から私を救い出してください。神よ、私の救いの神よ。
私の舌は、あなたの正義を歓び歌うでしょう。
主よ、私の唇を開かせてください。私は口を開いてあなたを賛美するでしょう。
たとえ私が捧げたとしても、あなたは生けにえを好まれず、祭りも喜ばれない。
神の喜ばれる捧げものは、打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔い改める心を、神は軽んじられない。
御心によって、シオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください。
その時こそ、正義という供え物と、燃え尽きる全き生け贄はあなたに喜ばれるものとなる。その時こそ、あなたの祭壇に牡牛が捧げられるでしょう。

 

そして、青年時代から、聖書の中でももっとも好きな本の一つだった『伝道の書』の第十二章から。

伝道者は知恵あるがゆえに、つねに人々に知恵を教えた。伝道者は多くの格言を学び、それが真理であるか、心を尽くして吟味した。伝道者は美しい言葉を捜し求めた。彼の書き残した言葉は真実である。智者の言葉は、迷える羊を導く牧童の棍棒のようなもの、集められた格言は、堅く打たれた釘のように、揺らがない。それは、私たちすべての案内者である神から与えられたもの。

我が子よ、肝に命じておかねばならないのは他でもない。本を書くことには終わりがない。激しい勉強は身体を磨り減らす。

帰するところ、言うべきことはただ一つ。神を畏れ、神の戒めを守れ。私たち全ては、そのために造られたのだから。神は私たちの行為のいっさいを、善であれ悪であれ、隠れてなされたことのいっさいも、裁かれるだろう。(9節~14節)

二〇〇五年、クリスマスの記念に

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ニーチェとキリスト教

2005年11月01日 | 宗教一般
 

                   
ニーチェは激烈なキリスト教批判者として知られている。  私もそのように聞いている。しかし、ニーチェがどのようにキリスト教を批判しているのか、その実際は不勉強のためにほとんど知らない。私はニーチェを自分の先生に選んだわけでもなく、また、限られたわずかな人生の時間の中で、ニーチェの研究にまでは到底手は回らない。

日本では西尾幹二氏らがニーチェ研究家として知られているようである。結局、どのような思想や哲学に興味と関心を持つか、そこにはおのずと個人の根本的な個性の本能的な選択が働くようである。興味や関心が持てなければ縁がなかったのだとあきらめざるを得ない。今に至るまでニーチェのような思想家に本質的な関心と興味を持てなければ仕方がないと思っている。

ニーチェの思想はキリスト教との対決と批判から生まれたと言う。ニーチェは代々の牧師の家系に生を享けたと聞いているし、また、ドイツ人は紛れもなきキリスト教民族である。私のように多かれ少なかれ青少年期からキリスト教にあるいは聖書に事実として関心を持ってきた者には、ニーチェのような思想家は、余りにもキリスト教的な土壌からしか生まれなかったことだけは理解できるように思う。共産主義と同様に、ニーチェのような思想は日本などからは生まれるはずはないのだ。

もっとも良いものは、もっとも悪いものである。もっとも純潔なものはもっとも腐りやすいものである。最善のものは最悪のものである。もっとも美しいものはもっとも醜いものである。もっとも優しいものはもっとも冷酷なものである。多少なりとも弁証法を聞きかじっている私にとって、キリスト教もまた、余りにキリスト教的なドイツにおいて、このような弁証法的な運命を辿ったことは容易に推測がつく。だから、ニーチェがキリスト教を最悪の「価値」として攻撃したことは、およそのところ推測できると思っている。劇薬は慎重に扱われなければならないのである。キリスト教と言えども、それは、いつでも容易に最悪の迷信や狂信に転化しうる。イエスもそのことを予測してか、繰り返し、「私に躓かないものは幸いである」と警告している。キリスト教がわが日本においてもドイツと同じような運命を辿らないとは誰も言うことができない。

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ヨブの忍耐

2005年10月31日 | 宗教一般

 

久しぶりにヨブ記を読む。

ヨブは七人の息子と三人の娘と羊七千匹、ラクダ三千頭、牛五百頭など財産のすべてを失ったとき、ヨブは言った。


「私は裸で母の胎から生まれてきた。そして裸で死んでゆく。主は与えられ、また、奪われる。主の御名は称えられるように。」第一章。

「人間の生活は兵役に従事しているようなものだ。つらい手仕事に耐えなければならない。奴隷のように日暮れを望み、日雇いのように支払いを待つ。得るものは何も無く、空しく月日は去り、夜毎の嘆きがあるのみ。・・・
私の一生は機織りの梭よりも速く、望みも無く過ぎ行く。・・・
私は生きるのに疲れました。私を独りにしてください。私の一生には何の意味も無いのです。」第七章。

「神が壊されたものを誰が建て直すことができるのか。神が閉じ込められたのに誰が解放できるのか。・・・
神は国を興し、強める。しかし、また国を衰えさせ、滅ぼされる。」第十二章。

「女から生まれる人間は弱く儚い。生涯は短く困難は多い。花のように咲き、花のように枯れる。我々は影のように消える。」第十四章。

「語られるときには聴き従い、尋ねられたとき答えるように、あなたは言われた。昔は他の者たちが語っていたことを知っていただけです。しかし、今は私の眼であなたを見ました。だから、私はかって私の言ったすべてのことを恥じます。そして、塵と灰の上で悔い改めます。」第四十二章。


詩篇第百三十一篇

ダビデの都上りの歌


主よ、私の心はおごり高ぶりません。そして、高望みはしません。私には身に余ること、難しすぎることを追い求めようとはしない。私の心を落ち着かせ和ませます。母の乳を飲み終えた子のように。母の胸に抱かれる幼子のように。イスラエルよ、主に信頼せよ。今もいつまでも。

 

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小泉首相と靖国神社

2005年10月24日 | 宗教一般

 

小泉首相の靖国神社参拝が外交問題になっている。小泉首相は公約にしたがって就任以来毎年靖国神社には参拝しているのであって、これまでも靖国神社の参拝も適切に判断すると言っていたのであるから、今回の参拝も当然に予期されたことではある。

哲学に興味と関心のある私のようなものにとっては、小泉首相の靖国神社参拝問題は、国家と宗教の問題として、哲学上の恰好の練習問題でもある。まあ、それは少し不謹慎な言い方であるにせよ、宗教と国家の関係については、終生の哲学的なテーマとして、当然に切実な問題であり続けることには変わりはない。

これまでも、小泉首相の靖国神社参拝問題については、幾度か私自身の見解を明らかにして来た。

「政治文化について」    http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20050731                                               「宗教としての靖国神社①」  http://blog.goo.ne.jp/aseas/d/20050716    
「政教分離の原則を貫く判決に反対する人々」  http://www8.plala.or.jp/ws/e7.html
「靖国神社参拝違憲論争」http://www8.plala.or.jp/ws/e3.html
「小泉首相の靖国神社参拝について」
  http://www8.plala.or.jp/ws/e1.html など。(関心のある方は読んでください)

基本的には考えは今も変わってはいないが、細部において、考えが深まっているかも知れない。今後も、引き続き国家と宗教の問題については、考察してゆきたいと思っている。

結論からいえば、私の立場は、国立の慰霊施設を造るべきだというものである。その理由は、まず、靖国神社が国家に殉じた人々を祭った宗教施設であるとしても、それが軍事関係者に集中していることである。国家のために身命を投げ打った者は、何も軍人のみに限らない。
先の太平洋戦争において国家のために尽くし、その犠牲となった人々は軍人のみに限られない。たとえば、勤労動員中に広島での原爆投下で亡くなられた人々は靖国神社においては慰霊の対象にはなってはいない。また、東京大空襲によって犠牲になられた方々についても同様である。靖国神社を国家的な慰霊施設にするには、そのように公共性に問題があるとも思われる。

もうひとつの理由は、宗教上、思想信条上の問題である。現代民主主義国家としての日本国は、宗教の自由、信仰の自由が認められている。そのために、日本国民は、いわゆる「神道信者」だけで構成されているわけではないということである。なるほど確かに、神道は日本の民族宗教として、日本国民にとっては特別な位置を占めていると言うことはできる。しかし、現代国家としての日本国の国民の中には、キリスト教徒もいればイスラム教徒もいる。また、靖国神社参拝に躊躇する仏教信者もいるだろう。それに無神論者、唯物論者もいる。要するに、現代国家の国民は、その宗教も多様であるということである。国際化した今日はいっそう多様化してゆくと考えられる。

そうした状況では、国家としての慰霊のための施設は、特定の宗教から独立した施設であることが好ましい。靖国神社が特定の教義と儀式を持つ宗教である限り、国家の機関である内閣総理大臣が職責として国家のために殉じた人々のために慰霊する場としてはふさわしくない。

実際に、靖国神社は戦後は一宗教法人になっているのであって、多くの株式会社と同じように、国家とは独立に、自らの宗教活動そのものによって参拝者を増やす努力をしてゆけばよいと思う。その活動の自由は完全に認められている。小泉首相にも、もちろん、一私人として、靖国神社に参拝する自由は完全に保証されている。しかし、国家の機関として内閣総理大臣の立場としての参拝であれば、いくつかの裁判判例で疑念が示されているように問題が多い。

だから、今回の参拝のように、小泉首相が一私人の立場であることをより明確にして、一般参拝者と同じように参拝したことについてはまったく問題はない。もちろん私人小泉純一郎氏と内閣総理大臣は切り離せないから、その影響力は避けられない。それはひとつの限界である。

政教分離の思想は、宗教と国家が癒着することによる自由の束縛、あるいは侵害に対する歴史的な教訓から生まれた。特に西洋では多くの宗教戦争や迫害という歴史が背景にある。思想信条、宗教信仰の自由、言論の自由など、いわゆる「自由」は精神的な存在である人間にとって、基本的な人権の最たるものである。これが侵害されることは、人間の権利の最大の侵害になる。自由の価値を自覚するものは、宗教と国家の分離に無関心ではいられない。特に、わが国のように戦前にいわゆる国家神道として、国家と宗教が深くかかわった歴史的な体験をもつ国家において、また、国民の間に自由についての自覚がまだ成熟していない国においては、政教分離の原則を今後も五十年程度は厳しく貫いて行く必要がある。

宗教は国家の基礎である。だから、真実な宗教である限り、国家は宗教を保護しその宗教活動の自由を保証しなければならない。したがって、靖国神社も他の宗教法人と同様に、国家から税法上その他の特別な取り扱いを受けているはずである。国家は自らの法津に従い、オーム真理教のように違反して敵対的にならない限り、諸宗教に対しては自由に放任し、寛容でなければならない。それがもっとも国民にとって幸福な関係である。

最近の一連の「靖国神社参拝」訴訟で、最高裁をはじめとして、総理大臣の参拝が、国家としての宗教行為に該当するか否かの判断の基準として「目的効果基準」の考え方が採用されているが、これは、判断基準としては必ずしも適正な概念ではない。この概念の根本的な欠陥は、何よりも「何が宗教的な行為であるか」についての判断が、裁判官の恣意裁量に任されてしまうことである。また、それは政教分離の思想の歴史的な由来にも合致していない。あくまで、「靖国神社参拝」の違憲訴訟においては、国家の宗教の分離という観点から、国家の宗教に対する中立性が、違憲、合憲の判断基準でなければならない。

最後に、首相の「靖国神社参拝」が中国や韓国との関係で外交問題にまでなっていることについて。もし、中国や韓国が一私人の小泉首相の思想信条の自由を侵害するものであれば、むろん、私たちは小泉首相個人の信仰上の自由を擁護しなければならない。特に中国など政教分離がいまだ確立しておらず、自国民の宗教の自由をどれだけ保証しているかについて重大な疑念のある国家においては。
しかし、また、先の太平洋戦争において、旧日本軍兵士の一部の間に、実際に国際戦争法規違反の事実があり、アジアの多くの無実の非戦闘員に対して惨害をもたらしたことも歴史的な事実である。その点で太平洋戦争の戦争指導者たちの責任が問われるのはやむを得ない。また、靖国神社にいわゆる「A級戦犯」が祭られていることからくる、そうした誤解を近隣諸国から受けるのを避けるためにも、宗教から独立した、そして、日本国民のみならず、日本国に関係した諸外国民をも含む慰霊施設を用意すべきであると思う。その一つの例として、沖縄の「平和の礎」があると思う。

2005年10月21日


※ 追記20140125

上記の考察では、新しい『国立の慰霊施設』の建設を主張しているけれども、2014年の現在においては、新しい国立の慰霊施設の建設については反対 へと考えが変わった。軍人以外の戦死者に対する慰霊施設としてはすでに千鳥ヶ淵墓苑があるし、おそらく、国立追悼施設としては今後千鳥ヶ淵墓苑に収れんし てゆくことと思われる。

靖国神社については戦前における「宗教の自由」の状況についてもう少し調査研究したうえで、また論理的な帰結をさらに再検証した上で、改めて意見を述べたいと考えている。

要するに、靖国神社を民族の伝統的宗教に関連する施設として認めるとしてもそれは本質的な問題ではないと考えるに至ったからである。核心は国家が信 教の自由をどのように保証するか、ということにある。戦前の歴史的状況と明治憲法の本質について改めて調べなおさなければ、靖国神社問題について発言でき ないと思った。上記の考察からすでに八年が経過している。

現時点では、明治憲法下での宗教観がどのようなものであったのか、結論を出すにはその本来のその概念の認識がまだ不十分であると考えている。特に先週になってインターネット上で初めて知見を得た、佐藤雉鳴氏の「国家神道」問題についての見解を再検討したうえで、これらの問題の歴史的な背景をも含めて再研究した上で、改めて自分の意見を述べるつもりでいる。

 

 

 

 

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信仰と知(信仰と哲学)

2005年10月21日 | 宗教一般

 

信仰(信念)と知識(科学)──宗教と科学──の関係は、ヘーゲルにとっても大きな問題だった。カントに代表される啓蒙哲学が、信仰の問題を知識の対象から、物自体として、認識の対象から外し、信仰の問題を認識できないものとしてしまったから。その結果、近代の信仰は、知識を回避し、信仰には単なる抽象の空虚な主観的な無の確信しか残されないことになった。ヘーゲルはこれに不満だった。

なぜ、このようなカントの啓蒙哲学が生まれたか。それは、ルターの宗教改革の必然的な帰結だといえる。なぜなら、ルターの「信仰のみ(sora  fides)」を原理とする信仰は、ただ信仰者の良心による是認のみという主観的な問題に還元されることになったから。その信仰は神を個人の神として、主観的な精神のなかにのみ認められるものにしてしまった。そこでは信仰者の自己の信仰の是非は教会の是認ではなく、理性による確証に求めざるを得なかった。こうしてルターの信仰のみの原理が、カントの主観性の哲学になって現われたのである。近代哲学がプロテスタント国民から生まれる必然性もここにある。


しかし、カントは信仰の理性による把握の不能を彼の主観的観念論によって、不可知論のよって認識の可能性を否定してしまっただけだった。
この点を批判したのがヘーゲルである。彼は、本質と現象をそれぞれ媒介なきものとするカントの見方を悟性的として退け、現象の総体のなかに本質が認識されるという弁証法の認識論を主張した。ヘーゲルにとって神は認識できないがゆえに信仰されるのではなく、理性によって認識できるものであり、むしろ、神は理性そのものでもあった。

ヘーゲルはまた、信仰は知識と対立するものではなく、信仰がじつは知識の特殊的な形態に過ぎないと言うのである。ここから、信仰の知の特殊性とはなにかの解明へと、信仰の概念的な認識に向かうことになる。そして、この道こそが宗教を真に克服する唯一の道である。ヘーゲルにとっては、それが哲学することに他ならなかった。ただ哲学は宗教を内容においてではなく、形式においてのみ克服するのである。

2005年10月13日



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宗教的狂信について

2005年09月29日 | 宗教一般

哲学者ヘーゲルは宗教的な狂信についてはおよそ次のように論じている。

宗教的な狂信家は言う。
「正しい人間には法律は存在しない。敬虔であれ。敬虔でありさえすれば、あなたはつねにあなたの欲することを欲しいままに行えるのだ。あなたは、自分の欲する意志と情熱に身をゆだねることができる。それによって不法な被害をこうむる他人には、宗教の慰めと希望に頼るように勧め、それでも、困った場合には、彼らを非宗教的であると非難し、呪ってやればよいのだ。」

そして宗教的な狂信家は

「主なる神を求める自分の無教養な思いこみのなかに、すべてを実際に持っていると思いこみ、自分の主観的な思いこみを、さらに真理の認識へと、そして、客観的な義務と権利の知識へと高める努力を自分に課することをしない。そういう人々によっては、ただ、すべての倫理的な関係を破壊する愚行と非行が生まれるだけである。」

このような宗教的な自惚れ屋は、

「思い込みばかりで客観的な真理の認識をあきらめ、また、その能力もなく、時には権威には卑屈になり、時には横柄になり、法律や国家制度がどのようにあらねばならないのか、どのように作られなければならないのかを示すこともできず、それらをすべて自分の信仰のうちに持っていると思いこんでいる。しかし、それは宗教的な感情の強さのゆえではなく、無能力のせいである。


しかし、宗教が、それが真実の宗教であるなら、国家に対してそのような否定的な挑戦的な態度をとるものではない」   (法哲学§270)

ヘーゲルは宗教の否定的な側面も深く洞察していた。日本人は先の太平洋戦争やオーム真理教事件で、政治的狂信や宗教的狂信の結果を体験している。実際、イラクのテロリストや自爆信者、平岡公威や松本千津夫その他の宗教的狂信者、政治的狂信者の犠牲になるのは誰か。いつも無実の国民である。

 

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もし私が聖書を編纂するなら

2005年09月20日 | 宗教一般

 

洗礼を受けていなくとも、また特定の教会に所属していなくても、聖書に価値を認めて愛読している人は少なくないと思います。教会の特定の解釈や教義に縛られることなく自由に研究したいと思う者は、特に、その傾向が強いのではないでしょうか。


それにしても、現行の新旧約聖書は、あまりに大部で、忙しい現代の多くの日本人には質量ともに重過ぎると思います。テキストの形式としてふさわしいとも思えません。新約聖書だけなら、かなり、ボリュームが減るので、取り付きやすくなります。また、ユダヤ人でもない私たち日本人にはそれで十分なのかも知れません。しかし、それでは貴重な旧約聖書の遺産が失われますし、多くのクリスチャンの信仰がユダヤ人のそれよりも劣ることになりかねません。それで、もし私が現代の日本人向きに聖書を編纂しなおすとすれば、どれを選べきか考えてみました。


選択の根拠を詳しく説明するのもわずらわしいので省略しますが、まず、『詩篇』は欠かせないと思います。詩篇は聖書の中の聖書と言えるもので、日常のその朗読と判読は、聖書の宗教の基礎を形作るもので、不可欠だと思うからです。


そして、聖書を多くの現代のクリスチャンのように単なる信仰の書とすることなく、自分の頭で考え直す本とするために、旧約の「知恵の書」に属するテキストも欠かせなと思います。それで『箴言』や『伝道の書』も欲しい。さらに、聖書を芸術の香気豊かなものにしている、『雅歌』も不可欠です。また、旧約聖書の出発点である『創世記』はやはり必要かも知れません。


旧約の中から、最小限選ぶとすれば、これらのテキストを取り上げたいと思います。もちろん哲学書ならぬ宗教の書として、これらのテキストの選択について絶対的な必然性は証明できないのですが。


新約聖書の中からは何を選ぶべきでしょうか。共観福音書の中からはユダヤ教の色彩の薄い『ルカ福音書』と、それからギリシャ哲学の影響の濃い『ヨハネ福音書』を選びたいと思います。


それからキリスト教の教義の基礎を確立したパウロの『ローマ人への手紙』です。新約聖書からは、この三つのテキストで、現代人に必要な信仰と倫理道徳の基礎は十分に養成できると思います。そして、最後に聖書の教えを歴史的に、締めくくるために不可欠な書としてのヨハネの『黙示録』です。
このように聖書を簡易に改めて編纂すれば、現代日本人の多くにとっても「聖書」が『座右の書』となるのではないでしょうか。

ですから、私が私のために現行の聖書を編纂しなおすとすれば、さしあたっては

①創世記
②箴言
③詩篇
④伝道の書
⑤雅歌
⑥ルカ伝
⑦ヨハネ伝
⑧ロマ書
⑨黙示録


のテキストを選ぶことになると思います。そして、これらのテキストのそれぞれに平易な現代英語の対照訳をつけて、日本語と英語で聖書を読めるようにします。そうすれば、日常の聖書の判読が、同時に、英語の習熟と読解のトレーニングにもなります。


個人的にはこのような新編聖書があればと思っているのですが、どこかの奇特な出版社があって、編纂して出版していただければうれしいのですが。それは日本国がキリスト教国となるのにいささか貢献することにもなり、その意義は決して小さくはないと思うのです。もちろん、聖書を本格的に勉強したい者は、オーソドックスな従来の新旧約聖書を利用すればよいのです。


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伝道の書第十二章後半

2005年08月30日 | 宗教一般

『伝道の書』最終章でも智者は繰り返して言う。「空しいことの空しさ、すべては空しい。」(12:8)

これは、誰にも避けられない死を描写した前半の後に述べられた結論であり、語るにはあまりにも重い感想である。しかし、この虚無観にもかかわらず、伝道者は絶望にも陥らず、ニヒリストにもならなかった。そして次のように語る。

 

「伝道者は知恵あるがゆえに、つねに人々に知恵を教えた。伝道者は多くの格言を学び、それが真理であるか、心を尽くして吟味した。伝道者は美しい言葉を捜し求めた。彼の書き残した言葉は真実である。智者の言葉は、迷える羊を導く牧童の棍棒のようなもの、集められた格言は、堅く打たれた釘のように、揺らがない。それは、私たちすべての案内者である神から与えられたもの。

我が子よ、肝に命じておかねばならないのは他でもない。本を書くことには終わりがない。激しい勉強は身体を磨り減らす。

帰するところ、言うべきことはただ一つ。神を畏れ、神の戒めを守れ。私たち全ては、そのために造られたのだから。神は私たちの行為のいっさいを、善であれ悪であれ、隠れてなされたことのいっさいも、裁かれるだろう。」(9~14)

こうして、隠れた善悪のすべても裁かれる主なる神を畏れ、信頼して生きることを、全体の結論として『伝道の書』は閉じられる。

単純といえば単純である。素朴といえば素朴である。古代人の骨太な世界観であり哲学であると思う。こうした素朴な世界観、人生観を持って生きたに違いない古代人は、幸福であるといえば言える。近現代人は、果たして、このような伝道者の信仰を背景とする人生観、世界観に共感することができるだろうか。

 

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イスラエルのガザ入植地撤退完了

2005年08月24日 | 宗教一般

 

イスラエルの入植者がガザ地区から撤退したことが報じられていた。遠い中東の出来事で、郵政民営化問題に関する衆議院総選挙で騒いでいる今の日本から見れば、この古くて新しいイスラエル・パレスチナ問題は多くの関心を引くものではないのかも知れない。しかし、聖書の思想に生きようとする者にとっては、パレスチナの地は聖書の母なる土地であって、無関心ではいられない。


パレスチナの土地、すなわち、このカナンの土地は、神の召命に応えたアブラハムに神が約束した土地である。アブラハムはバビロニアのウルから父のテラと一緒にカナンの土地に向かったのであるから、アブラハムの故郷はもともとバビロニアである。(創世記第十一章第十二章)すなわち、今日のイラクが、イスラエルの始祖とされるアブラハムの本来の故郷なのである。しかし、フセインまでのイラクはイスラエルにもっとも敵対する国家だった。皮肉といえば皮肉である。


こうして、アブラハムの子孫がカナンの土地に来て以来、土着の住民たちとの軋轢は今日に至るまで絶えない。聖書に記されている民族同士の殺戮の歴史が現在に至るまで連綿として続いている。イスラエル・パレスチナ問題は聖書に記されているように、四千年来の問題である。おいそれと解決されそうにない。


パレスチナの地は人類の歴史が神の意志と出会う場所である。アブラハムがエルサレムの土地で、パンとぶどう酒でメレキデセクから祝福を受けて以来、この地はユダヤ教にとってのみならず、キリスト教にとっても、イスラム教にとっても聖地である。「神の平和」という名のエルサレムが諸宗教と諸民族が血で血を洗う、もっとも憎悪の深い土地となっている。

 

この土地に永遠の平和は訪れるのだろうか。それは、イスラム教過激派とユダヤ教狂信家たちが、血にまみれた闘争に互いに消耗し尽し、疲れ果て性根尽きるとき、そして人類の最終戦争の瓦礫の上に築かれる永遠の平和であるのか。自らの狂信と憎悪の愚かさに自ら気づくまで、その時まで平和は来ないのかも知れない。


宗教と民族の紛争は全世界至るところに存在している。つい数年前まで、セルビアとアルバニア人が、クロアチア、ボスニアなどの諸民族同士が民族浄化の名のもとに血みどろの死闘を繰り広げていた。それが、NATO軍の武力介入でようやく「平和」を回復したばかりである。スリランカでは仏教徒のシンハラ人とヒンズー教徒のタミル人との間に紛争がある。アフリカではルワンダでツチ族とフツ族の間で痛ましい虐殺行為があった。インドネシアにもかっての東ティモールとアチェで、またロシアとチェチェンでも紛争はいまだ解決せず、テロ行為が絶えない。中国でもチベット問題や台湾問題は、民族問題であり、かつ「宗教」問題でもある。


イスラエルとパレスチナの民族と宗教の紛争は、こうした人類に普遍的な民族、宗教戦争の中のもっとも象徴的な紛争であるということもできる。人類は、こうした紛争の解決のための普遍的な公式をまだ見出せずにいる。もし、イスラエルとパレスチナの民族に平和的な共存が実現できれば、その方式は人類の普遍的なモデルになりうる。


今回のイスラエルのガザ入植地撤退完了は、イスラエルとパレスチナの和平の一つの出発点となりうる。しかし、そのためには、パレスチナの過激派も狂信的な国粋主義ユダヤ教徒も民主主義を学ばなければならない。そして、そして、互いを民主主義的な主権国家として尊重しあうことなくして、エルサレムの平和は永遠の夢に終わるに違いない。それとも最終戦争によって、互いに自滅しあうかである。そして、民主主義の精神は、イエスの精神を自らのものとすることなくして実現できないのである。それは憎悪の果てに気づかれるものなのかもしれない。

 

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宗教研究の立場

2005年08月17日 | 宗教一般

 

このブログの目的は、ご覧のとおり宗教を研究することです。しかし、宗教といっても、実際には抽象的な宗教一般として存在するのではありません。実際に存在する宗教は、キリスト教、仏教、神道、イスラム教などの特殊宗教であり、カトリックやプロテスタント、日蓮宗や禅宗、浄土真宗などの個別宗教です。社会に存在するさまざまな個別的特殊的宗教をできうる限り多くの研究することを通じて、宗教の本質、宗教の概念に迫りたいと考えています。

 

ただ、どうしても私個人の趣好から、キリスト教や聖書に比重が行くのは避けられないかも知れません。というのも、私の問題意識は、もともとキリスト教の真理を科学的に認識することにあったからです。それにキリスト教は絶対宗教であって、最終的には「あれかこれか」の倫理的な選択を余儀なくされると思うからです。

とはいえ、この立場はその他の宗教を研究することを妨げるものではないと思います。仏教やイスラム教についても、視野に入る限り論及し、時には比較しながら研究してい行きたいと思います。

 

また、宗教研究といっても、それは本来的に伝道や宣教や教化を目的とするものではありません。もちろん、宗教を科学的に哲学的に研究して行く過程で、宗教に対する認識が深まり、「信仰」に至ることは当然にありうるかも知れませんが、この宗教研究自体は教化や伝道を目的とするものではありません。むしろ「信仰深く」あることには慎重でなければならないという立場に立つものです。

 

宗教を科学的に哲学的に認識するとはどういうことか。そもそも「科学」と「哲学」とはどう違うのか。宗教と哲学の違いについては、私たちは「宗教とは真理の表象的な認識」であり、「哲学とは真理の概念的な認識である」というヘーゲル哲学の立場と定義を承継しています。

 

ですから、私たちにとって、科学も哲学もほぼ同義であると言えますが、ここではさしあたって、さらに「科学とは個別的特殊的な次元での事物の論理的因果関係を認識すること」であり「哲学とは事物のもっとも普遍的な運動法則、弁証法についての研究である」ぐらいに定義しておきたいと考えます。

 

科学とは人間や自然および社会などの事物の存在や運動の因果関係の解明を目的とするのに対して、哲学とは狭義には、形式的には思考についての科学すなわち論理学であり、内容としては、真理や価値を研究対象としその概念的な把握を目的にしていることです。

 

したがって宗教を哲学すること、すなわち「宗教哲学」では、当然に物理学や天文学などとは異なって、単に因果関係の理法のみの認識に留まるものではなく、そこには「真理」や「人倫」などの概念の解明が中心的なテーマになります。このジャンルは特に現代日本人にとってもっとも縁遠い不人気な世界であるようです。

 

しかし、国民や民族が非宗教的であるということは、国民や民族が倫理的ではないことであり、絶対者と自覚的な関係を持っていないことを示しているのであって、これは必ずしも人間にとって名誉なことではないと思います。それは、ある意味では個人や民族の精神的な浅薄さを物語っているに過ぎません。o(*⌒―⌒*)oこうした問題も、宗教哲学の問題として、宗教社会学として論じて行くつもりです。

 

また、一方で最近になってアメリカ人が公教育に関して、聖書の記述が進化論に合致しているかどうかなどと議論しているようです。たしかにアメリカ人は日本人よりは宗教には自覚的ではあると思いますが、ヘーゲルも言うように「真実の宗教や真実の宗教性を人倫的精神の外部に求めるということは無駄なこと(精神哲学§552)」ですから、そうした議論は、私たちにとっては愚かなことであります。しかし、とはいえ、そうした議論がいっそう科学を発展させるという皮肉な現実も忘れるべきではないでしょう。現代世界において一般的にキリスト教民族がもっとも発達した科学技術を保持することになっているのも、この辺に理由がありそうです。もっとも宗教的な民族がもっとも科学的であるという事実によって、事物の弁証法はここでも貫かれているようです。








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JR福知山線脱線事故から一ヶ月

2005年08月05日 | 宗教一般

必ずしも宗教に関する研究とは言えなくても、宗教的意識についての事実を示す論考や小論も掲載して行きたいと思います。まあ、軽い宗教的なエッセイ、評論とでも言うべき内容です。

 

最近起きた事故としては、上の写真に掲げたJR福知山線脱線事故が凄まじい。こうした事故を見聞して改めてわかることは、私たち現代人の生活が、実に危険と隣り合わせに存在しているということである。

この列車に乗車していた人たちも私たちと異なった特別の存在ではなく、違った点といえば、たまたまこの列車に乗り合わせたということだけである。事故に遭われた人が私たちに比べて特別に罪深かったとか、悪人だったためではない。平均的に見れば、私たちとまったく同じ普通の人々だったろう。あたかも市民の日常生活の一区画が突然そっくり切り取られたに等しい。

乗客たちも、まさかこの朝に、通勤や通学の途上で、自分たちの人生が断ち切られるなどとは夢にも思わなかっただろう。大学生などの若者も多く、本人も遺族もやりきれない悔しい思いをされていると思う。言葉が切れる。

現代の生活は確かに便利になった。しかし、この便利さが科学技術の上に成り立ち、現代の科学がまだ極めて未熟なものであることを、この事故は改めて再確認させる。そして、これまできわめて安全な交通機関だと思われていた鉄道が必ずしもそうではなかったこともわかった。また、被害者の方々の怒りや憎しみが、JR西日本という鉄道会社の安全管理の企業の体質や労務管理の問題に向けられ、新聞記者の鉄道会社に対する取材上での行き過ぎた感情移入や、鉄道従業員に対する嫌がらせなど民衆のバッシング騒ぎも取り沙汰されることもあった。日本国民一般の精神における理性の確立の未熟さも教えている。

 

確かに今回の事故は、鉄道会社の安全管理、労務管理上に問題に大きく影響されているようである。列車の乗務員の労務管理に関する情報をもれ聞いても、そこには何か旧大日本帝国陸軍の精神主義を彷彿させるようなものがある。企業の体質として、あるいは日本人の国民の体質としても、そうした弱点を克服して、人間性尊重と技術合理主義をいまだ確立しきれないでいるようである。先進的であるはずの現代の大企業においても、労務管理や人間関係の多くの部面で、相変わらずの旧態依然としたものが少なくないことをうかがわせる。科学技術の導入や変革に比べて、人間関係や労務管理、さらには世界観や価値観などの精神や人倫関係を規定する思想や宗教の導入や確立はそれほど容易ではないのだろう。現代企業が人間性尊重と技術合理主義を確立し定着するためにはまだ歳月が必要なのかも知れない。

 

現代の企業は、市場競争でぎりぎりの所まで追い詰められている面がある。市場の競争によって、消費者、利用者の利便が著しく向上することも確かである。旧国鉄の解体と再編は絶対的な必要として行われた。それに大きな意義のあったことは否定し得ない。しかし、その「効率化」の追求が、消費者や利用者の安全を犠牲にせざるを得ないというのであれば、本末転倒としか言いようがない。列車の運行の安全も、運転手の職人的な技術に依存する点が大きく、自動列車停止装置(ATS)などの機械装置による安全確保もまだ十分に行き届いていなかったようである。早急な改善が望まれる。

 

しかし、どんなに安全に配慮しても、神ならぬ人間には、完全を期することは永久に不可能かも知れない。私たちの世代にうちに完全な安全を期待するのは不可能であると考えたほうが合理的である。20年前の過去にも日本航空機が、群馬県多野郡上野村・御巣鷹の尾根に墜落する事故があった。そして今回も被災者の遺族、関係者が生きている間は、事故の痛みは決して風化することはない。

 

死は避けられない。それは突然やってくるかもしれない。それは運命次第、神様の思し召しひとつのところがある。だから私たちにできることは、人間としてできることには万全を尽くし、その上で、常に次のような覚悟をしておくことかも知れない。

「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」 (ルカ伝12章)

「何もかも物憂い。かってあったことは、これからもあり、かって起きたことは、これからも起きる。太陽の下、新しいものは何一つない。昔のことを心に留めるものはない。これから先にあることも、その後の世には誰も気にも留めない。」(伝道の書 第一章)

ニュース源

 

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復活の問題について

2005年08月04日 | 宗教一般

 

日記にヨハネ書の読後感を書いていたら、「復活」について考えることになった。もう少し、深く考えたくて、こちらのブログに移して考えることにする。

「復活」の観念はもちろんキリスト教独自のものである。しかも、それはキリスト教の核心を成す概念である。

「復活」とは、十字架の上で処刑されて死んだイエスが、弟子たちや支持者たちの間に再び現れたと言う伝承に基づくものである。この復活の伝承が今日にまで至っている。

復活したイエスの肉体は、次のような特色を持っていた。

「マグダラのマリヤは復活したイエスを庭師と間違えた。(ヨハネ第20章第15節)」

「ユダヤ人を恐れて鍵で閉ざしていた部屋に復活したイエスは入ってこられた(20-19)」

「実際に復活したイエスを見るまで信じなかったトマスに対して、イエスは『私を見ることなくして信じるものは幸いであると言われた』(20-29)」

「夜が明けたころ、イエスは岸に立っておられたが、弟子たちはそれがイエスであることに気がつかなかった(21-4)」

「エマオに向かいつつあった二人の弟子は、目が遮られていたために同行しつつあった者がイエスであることに気がつかなかった(ルカ24:16)」

 

「弟子たちは復活の話をはじめて聞いたとき、たわごとのように思われたので、婦人たちの言葉を信じなかった。(ルカ24:10-12)」

「弟子たちは、はじめは亡霊を見ていると思ったが、イエスの手足を見、触れて初めて、復活したイエスが肉も骨もある身体であることがわかった。(ルカ24:37-39)」

「イエスの復活を信じきれない物分りの悪い弟子たちに、イエスは、モーゼと預言者たちからはじめて、聖書全体についてご自分の語られているところを説明された。(ルカ24:25)」

しかし、

「彼らの目があけられるまでは、イエスであることがわからなかった(24:31)」

以上の記事からわかることは、「心眼が開かれる」ことによってイエスのご肉身の復活が信じられるということである。この心眼が開かれることが悟ると言うことである。

こうして、「イエスは弟子たちの間に復活され、復活されたイエスは、天に上げられた。(ルカ24:51)」

 

「あなたたちは主のなされた奇跡と驚くべきことを見た。しかし、主は今日に至るまで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。(申命記29:2)」とある。

 

 

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宗教と民族性

2005年07月25日 | 宗教一般

 

国民や民族の根本的な性格を規定するのは、その民族や国民が歴史的に形成してきた習俗や伝統である。そして、その習俗や伝統にもっとも大きな影響を与えてきたのは宗教である。なぜなら、宗教とは民族や個人が持つ思想の中で、とくに、生存の目的や人生の価値について、さらには、人倫関係を規定する倫理思想の体系であるからである。

 

だから、逆にいえば、個人や民族の性格は彼らが、どのような神、どのような宗教を持つかによって規定される。そして、論理的に、人間が人間である限り、すなわち、精神的な存在である限り、神なくして、宗教なくして生きることができない。

 

だから、個人や民族がどのようなものであるかは、その個人や民族の保持している神、宗教がどのようなものであるかによって決まる。それらの信者の崇拝物、すなわち、神を見れば、その個人の価値観や人生観、さらには世界観や人間観が分かる。もちろん、神や宗教は、必ずしも、いわゆる「宗教的な形態」をとるとは限らない。歌手や俳優やアイドルや会社や、金が実質的な宗教であるということもある。

 

その典型的な例を、具体的にあげるならば、オーム真理教や創価学会や共産党、戦前の国家神道などをあげることができる。その具体的な崇拝物は、松本千津夫であり、昭和天皇であり、具体的な個人である。また、それは会社という組織だったり、国家であったり、共同体であったりする。そこで会社教や池田大作信者、毛沢東信者などと呼ばれたりする。要するに論理的には宗教とは民族や個人の究極的な目的や価値観を規定するものである。必ずしも、オーソドックスな宗教の形式をとるとはいえない。

 

そして、それらの思想が人間を人間たらしめている。それらを欠いた人間は、もはや本質的に人間ではありえない。動物である。

 

日本人の宗教は何か。日本人は歴史的に統一された支配的な宗教は持たなかったと言える。というよりも、絶対的な宗教、一神教と歴史的に出会うことがなかったために、神仏冥合などのように、異なった神々が並存し、共存してきた。仏教や儒教が、そして、土俗的な神道などの倫理や教えが渾然として日本人の宗教意識を形成してきたと言える。そのなかでも、仏教や儒教がもっとも日本人の宗教意識の形成に大きな影響を与えたということができる。思想的には、仏教や儒教が卓越していたために、圧倒的な影響力をもって流入してきたといえる。空海などは『三教指帰』でその思想性を検証しようとした。

 

明治維新においては、国家神道として、構成された。このときに、従来の仏教は「廃仏毀釈」によって、排除された。歴史的には、天皇制国家と並んで福沢諭吉が、明治維新後の日本人のもう一方での精神的な支柱となった。彼は、のちに円の基軸的な紙幣である一万円札の肖像写真に使われていることは周知のところである

 

そして、現代日本人の宗教は何か。戦後は民主主義の流入と資本主義の発展とともに、金が神であるとする価値観が支配的であるといえなくもない。マモニズム、金銭崇拝である。 金が現代日本人の多数の宗教となった。今まで押さえつけられてきた金銭教の蓋が開けられ、開放されたのである。一方で、伝統的な既成宗教は、現代の日本人に対して、ほとんど影響力を持たなくなった。それに代わるものとして多く登場したのが、さまざまな新興宗教である。

メモ:

宗教についてヘーゲルは次のように言っている。人間を人間たらしめるのは一般に思想であり、具体的思想であり、さらに詳しく言えば、人間が精神であるということである。

 

 

 

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宗教としての靖国神社①

2005年07月16日 | 宗教一般

 

今、中国や韓国の「内政干渉」の問題もあって、小泉首相の「靖国神社参拝」問題をめぐって、日本国民の世論を賑わせている。私は、残念ながら、神道の教義については、深い知識は持ち合わせてはいない。

小泉首相の靖国神社参拝についての私の立場は、個人的な信仰としての参拝なら、問題ないというものである。

しかし、ここで問題にしたいのは、宗教としての靖国神社である。宗教として靖国神社を見るとき、その宗教はどのようなものか。

①靖国神社は、どのような歴史的な背景があって創建されたのか。

②宗教としての靖国神社。その世界観、倫理観、人間観などは具体的にどのようなものか。

これらの問題を探って行きたいと考えている。

 

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