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海と空

天は高く、海は深し

信頼すべきもの

2006年04月10日 | キリスト教

人に信頼する者、主に信頼する者(エレミヤ書第17章第5節~第8節)

主はこのように言われる。
呪われよ、人に信頼する者。
肉に過ぎない人間を右腕と頼みにする者、
その心が主から離れ去った者は。
彼は、荒野の枯れ木のようだ。
恵みの雨を見ることもない。
彼らは荒野の熱く乾いた土地に、
不毛の塩の土地に、
住むことになるだろう。

祝福されよ、主に信頼する者。
主を待ち望む者は。
彼は水辺に植えられた木々、
川辺に根を張り、
暑さに見舞われることもなく、
その葉はみずみずしい。
旱魃の年にも悩みはなく、
いつまでも実を結ぶ。

────────────────────

聖書のエレミヤ書のこの一節は何を私たちに告げ、教えようとしているのだろうか。
ここでは、私たちの前に、二者が対置されている。一人は、私たちと同じ肉の人、もう一人は主なる神。どちらを信頼すべきか。
この肉なる人の中には、当然に指導者や金持ち貴族も含まれる。要するに、人間一般である。
この一節は、人間を信頼するな、ただ主なる神のみを信頼せよ、と教えている。

ユダヤ教では、この主は、天と地の創造主であるが、キリスト教では、この主は、三位一体の神である。それは創造主であるとともに、イエス・キリスト、そして聖霊である。

新約聖書の立場からは、三位一体の神にのみ信頼せよ、人間に信を置くなという。現代日本でいえば、神に信をおかずに、小泉首相や小沢一郎氏に信頼するものは呪われよ、ということになる。聖書の人間観は、基本的に性悪説だから、こういう結論になるのかもしれない。究極的にはこのような選択を覚悟しておくべきだというのだろう。極限状況にあっては、自己と神にのみ頼ることになる。バビロニアの捕囚で人間の惨劇を体験したエレミヤの言葉らしい。

ここでは主なる神に信頼する者は、川の辺に植えられた木々喩えられている。主から離れず、いつまでも主に希望をおく者は祝福され、いつまでもみずみずしく実を結ぶと言う。砂漠の土地に生きた詩人になる歌である。この節ではエレミヤは明らかに詩篇第一篇のモチーフを念頭においている。

 

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永遠の命──ヨハネ書第六章第四十節

2006年03月18日 | キリスト教

私の父の御心は、子を見て信じる者がすべて永遠の命を保つことであり、終わりの日に私が彼を蘇らせることである。

 

父──天に在られる父なる神、創造主。
子──イエス。キリスト。創造主を父とする者。
御心──望み、成し遂げようと欲しておられる気持ち。
信じる──真実であると考えること、事実として認めること。
永遠の──始まりも終わりもないこと。時間を超えていること。
命──絶対的な豊かさ。生き生きとした活動性。死んでいないこと。
私──イエス。人間性をまとったロゴス(理性)。受肉した神。
終わりの日──時間の終わる時。最後の審判が行われて神の国が完成する                    日。
蘇り──死んで横たわっていたものが起き上がること。死から生き返る              こと。

ヨハネ書第六章には、イエスがいくつか奇跡を行ったことが記されている。一つは大麦のパン五つと魚の二匹で、五千人の群集を満腹させられたことである。もう一つは、イエスが湖の上を歩いて、沖合いの舟のところまで歩いて来られたことである。

イエスに満腹させてもらった群集は、彼を自分たちの王にして、引き続き飢えを満たせてもらおうとしてイエスを探し回っていた。イエスの奇跡の意味を理解したからではなかった。
イエスを見つけ出した彼らは言った。「先祖のモーゼが天からパンを降らせたように、私たちにもそのパンをください。」
すると、イエスは「私が命のパンである。私のところに来る者は、飢えることも渇くこともない。」そして言われた。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を保ち、私は彼を終わりの日に蘇らせる。活かすものは神の霊であり、人の肉は役に立たない。私の話した言葉こそ、聖霊であり命である。」


この話を聴いたときから、多くの弟子たちがイエスのもとを離れて去っていった。信じられなかったからである。父なる神は彼らがイエスのもとに来ることをお許しにならなかった。

 

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世界と自分(2)

2006年02月19日 | キリスト教

『それからイエスは彼らにある例えを話された。言わく。「ある金持ちの畑が豊作だった。そこで彼は自分で考えて言った。「どうしよう。私の穀物を蓄えておくところがない。」そして言った。「こうしよう。自分の蔵を壊してより大きい蔵を建て、そして、そこに私の作物と財産を蓄えておこう。そして自分の魂に言おう。「私の魂よ。おまえは多くの財産を永年にわたって積み上げてきたではないか。これから休みを取って、飲み食いして楽しもう。」
しかし神は彼に言った。「愚か者よ。おまえの命は今夜取り上げられる。そのとき、おまえが用意したものは一体誰の物となるのか。」』
(ルカ伝第十二章第16~20節)

ここでは、金持ちの「自分の命」が彼が長年蓄えた「財産」と比べられている。人がどんなに富や財産を積み上げても、それは自分の命あっての物だねであることが語られている。この金持ちは不幸にも、自分の財産を楽しむ前に命を取り上げられてしまった。

この愚かな金持ちの例えは、イエスが人々に教えを説いているときに、群集の中の一人が、兄弟と遺産を争って、イエスに財産の分配を依頼したときに、イエスが貪欲の警戒すべきこと、人の命が財産によってもどうすることもできないことを教えようとして取り上げられた例えである。

ここでイエスは、神の眼に富むことと自分自身のために富むこととの違いを明らかにして、神の眼に富むこととはどういうことかを説明する。上の章節はそのような文脈で語られた言葉である。

この金持ちは、財産を手に入れたが、自分の命を失ってしまった。マルコ伝の第8章で全世界を手に入れても自分の命を失えば、何の得にもならないと言われたのと同じことが語られている。いかにも青年イエスらしい厳しいことばである。これらの教えはペテロなど選ばれた使徒に向けられたものであったのかもしれない。このキリストの教えと、旧約の伝道の書などに語られている次のような教訓と比べれば、その差異は著しい。


「見よ。良いこと望ましいことは、飲み食いし、そして神が私たちに与えられた生涯の日々に、太陽の下で労苦して得た産物を味わい楽しむことである。それは私たちに与えられた分なのだから。私たちにできるもっとも幸福で良いことは、神が私たちに富や財宝を与えられ、私たちにそれを楽しませになるなら、私たちは感謝して私たちがその労苦によって得たものを楽しむべきだ。それは神からの贈り物だから。」(第5章第18、19節)

「だから、私は楽しむことを薦める。人は太陽の下で飲み食いし、楽しむ以上に善いことはない。それは太陽の下で神が与えられた生涯の日々、骨折りと苦しみに添えられたもの。」(第8章第15節)

こうした旧約の教訓に比べれば、明らかにイエスの教えは深刻である。これが旧約の教えと新約との差異であるのかも知れない。旧約に比べれば、キリストの教えは日々に死を覚悟して生きようとする者たちへの教えのように思われる。神はなぜ人間に「死」と言う絶対的な限界を与えられたのか。なぜ肉体の生命は永遠ではないのか。それは分からない。しかし、この事実は人間に与えられた絶対的な前提である。ここで明らかに要求されている倫理の水準が旧約と新約とでは違うのである。そしてキリスト教では、有限の肉体の生命に代えて、永遠の生命が、「精神の生」が自覚されてくる。

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世界と自分

2006年02月17日 | キリスト教

 

世界と自分

 

もし、あなたが全世界を手に入れたとしても、自分の命を失えば、それが何の得になるか。人は失った命に何を代えるだろうか。


(マルコ伝8:36,37 ルカ伝9:25  マタイ伝16:26)

これらの福音書のテキストは、おそらく、同じ原典から採られたのだろう。この言葉が語られた文脈がもっとも明らかになっているのは、マルコ伝かもしれない。

それによると、イエスが弟子たちと一緒にフィリポ・カイサリア近くの村村を巡っているときに、弟子たちにメシアとしてのご自分の身分を確認された後で、やがて来るべき苦しみと死とを避けられないものとして述べられたときに、弟子たちにもその覚悟を問うたときに述べられた言葉である。

ここで対比されているのは、「全世界」と「自分の命」である。そして、全世界をもってしても取り換えることのできないものとして、弟子たち一人一人のそれぞれが持つ命、魂の価値を明らかにしている。それは詩篇四十九篇8節9節でも語られているように、(おそらく、イエスにも詩篇のこうした個所が念頭にあったのだろうが)、神に対しては人間は自分の命はもちろん、兄弟の命も買えない。魂を贖う代金は高く、永久に払いきれない。それほど、私たちにとって命は魂は貴重であるという。

人は全世界をもってしても贖えないこの命を、この魂をどうすれば得ることができ救うことができるのか。
それに対してイエスは言う。自分の命を救おうとするものはそれを失い、福音のためにそれを失うものが、命を得ることができると。この逆説が、イエスの説明だった。この自分を失えば、たとい全世界を手に入れたとしても、それは取り返しのつかないものになるという

それは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスの後に従うことが自分の命を救うことになるという人間的にはきわめて困難な選択を告げた後に語られた言葉だった。イエスは弟子たちを叱って言った。「あなたたちは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 また、イエスは自分の生きた時代を、神に背いた罪深い時代と言っている。

このときイエスに付き従っていたペテロたちが、イエスと同じように自分の十字架を背負って、師の後に従ったことを私たちは知っている。ここには、自分の命、自分の魂を得ること、救うことの代価がどういうものかが明らかにされているのではないだろうか。

 

 

 

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マリアとマルタ(ルカ伝第10章)

2006年01月11日 | キリスト教

マリアとマルタは女性を代表する二つの性格のタイプとして、古来有名である。それはルカ伝の第十章の記録に由来している。マリアとマルタはラザロの姉妹である。このラザロはイエスによって死から蘇ることが出来た人物として知られている。

イエスがある村に入ったとき、おそらく友人だったラザロの家に宿をとったのだろう。そのとき、イエスを接待するために、姉のマルタは、料理を作ったり、食卓を整えたりして忙しなく働いていた。主イエスのために甲斐甲斐しく働くことが良いことだと信じていたのだろう。あるいは、そのことで皆から誉められることさえ期待していたのかも知れない。
それなのに、妹のマリアは、そんな姉マルタの気遣いなど、どこふく風のようにイエスのおそばに侍って、イエスの話にただ聴き入っていた。

そんなマリアの様子を、マルタは忙しさにかまける中で、いらいらしながら横目で眺めていたが、とうとうこらきれずに、主イエスの御許まで進み寄って、マリアにではなく、イエスに苦情を言う。妹に命じて私を手伝うように仰ってください。

すると主イエスから返ってきた返事は思いがけないものだった。主のために多くの心遣いをしているマルタを誉めるのではなく、逆に、マルタに向かって、あなたは様々なことに気遣いをし過ぎである、本当に必要なことはただ一つだけ、マリアは、それを選んだのだから、彼女からそれを奪ってはいけない、と言った。

明らかにここではイエスにおいて一つの価値の転倒が行われている。もし、このイエスの価値観が、一般的で普遍的なものであれば、なにもわざわざ、ルカ伝に記録されることはなかっただろう。実際にはマルタの態度が、普通であり一般的であったからこそ、人々はイエスの言葉に改めて驚嘆し、記録したのである。

イエスの生涯は、正しく一つの革命だった。その価値の転換という点で、歴史上もっとも革命的なものだった。かっての良きものが悪しきものとされ、大切なものとされてきたものが、どうでも良いものとされる。いわゆる世間的な価値観を転倒してしまったのだから。2000年前にこうして、この世に革命的な原理が入り来たったのである。

何を食べようか、何を着ようか、思い煩うな。ただ、神の国のみを求めよと。生業のための労働は取るに足らないというのだから、イエスの価値観からすれば、イエスがマルタに告げた言葉は当然のことだった。

しかし、このキリスト教の価値観、原理を忠実に実行できたのは、ただ、神の子だけだった。もし、これが忠実に人々によって実行されたとすれば、直ちに神の国が実現されていたはずだから。

 

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