こんな所は来たこともない
どこへ行けばいいのかも分からなかった
君に会うのも初めてだよ
君の暮らす所へ行ったことはないけれど
どこかで知ったような匂いがする
石造りの階段の上を
歩いていると懐かしい感じがする
好きなことをどんなことだって何だってできるんだよ
どこででも地に潜ってでも新しいものを掘り当てるんだ
望むことすべてやってみることができる
どこででも逆さまになっても新しいものを見つけるんだよ
ひとりきりで飲む人たちが
電話のダイアルを押している
どこかで目にしたような光景
電話で話しているのは僕なのか?
ひとりで飲んだ最後の1杯
僕は本当にこの場所を離れたことがあったのか
おなじみの戸惑い
好きなことをどんなことだって何だってできるんだよ
どこででもひっそりとでも新しいものを掘り当てるんだ
望むことすべてやってみることができる
どこででも混乱した頭を抱えたままでも新しいものを見つけるんだよ
じゃあ、君にとって新しいことって何なんだろう
君にとって新鮮なことって何だい?
君がまだ知らないことって何だい?
ENGLISH
10日間ほど旅に出ます。初めてのロンドンとダブリン(とキルケニー)へのひとり旅です。
以前にも書いたことがあるけれど、私は1年の最初に読む1冊になんとなくおみくじのような意味を見出すことがあります。1年の終わりにもなると、何を読んだか忘れてしまうこともあるのだけれど、その年の最初の頃には何となくいろいろな決定に際して方向性を定める指針になったりもする。今年の始めは、あまりしっかりとした本を読もうという気持ちが起きず、とりあえず手軽になにか1冊読んでおこう、というような気持ちでした。父親の部屋に行ってなにかないかと探しているうちに、遠い昔の父の誕生日か父の日か、そんな機会に私がプレゼントした本が見つかった。村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫・2002年)です。なぜ、この本をプレゼントしたのかよく覚えていないけれど、村上春樹が好きな父の部屋で目にしたことがない本だったのと、写真がたくさん載っていて綺麗だな、と思ったような気がします。写真も含めて100頁余りの本当に薄い本だったし、プレゼントしたというのに私自身は1度も読んだことがないというのもおかしなものだと思い、この本が今年の1冊になりました。『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』は、村上さんがスコットランド(アイラ島)とアイルランドに行ってウィスキーを飲んだり、ウィスキーの工場を見に行ったりした時のことを書いたエッセイでした。いちども行ったことのないスコットランドやアイルランドへ、いつか私も行くことがあるのだろうか、と思いながら緑豊かなアイルランドの写真を眺めました。
でも、それから少しして、なんだかアイルランドに行くことになるのかもしれない、という可能性がどんどん高まっていったのです。最初は小さな可能性であり、ちょっとした夢だったものが、1つ1つステップを踏んで行くことで、みるみる現実的になっていきました。その間ずっと、どこか現実味はないままだったし、今でもまだあまりないけれど、そんなふわふわした気持ちのどこかで、「これは今年の始めに『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を読んだことによる運命なのだ」というようなことをどこか本気で信じたりしています。
自分自身でも現実味が無かったということもあるし、見た夢の内容は人に話してはいけないと言われるように、なんとなく口にすると旅が逃げていきそうな気がして、旅の計画は早くからあったのだけれど、あまり誰にもこの話はしませんでした。それからもう1つの理由としては、この旅は私だけのものでなければならない、という思いがあった。これはひとり旅でなくてはならない。そして誰にも着いて来られないように、ひとりで先に周到に用意を進めました。今になると分かるけれど、この短い旅には象徴的な意味があって、自分が今でも本当に自由であること、そして自分だけで何かを今でも乗り越えられることを自分自身で確認するための旅でもあるのだと思う。私が最後に全く新しい土地をひとりで訪れたのは、もう随分と前のことになってしまいました。新しい国ということで言えば、2008年の夏以来だし、新しい街、という意味でも2009年の春以来になります。それから私の生活はあまり大きな変化を経ていないし、私自身があまり大きな挑戦というものをしていないような気がする。今時、ロンドンやダブリンに行くことくらいがさしたるチャレンジかといえば、それはどうか分からないけれど、誰も私を知らない所へひとりで行く、ということはやっぱり少し緊張するし、寂しくもある。でも、同時に誰ひとりとして私を知らないところへひとりきりで行くことがいかに自由を感じさせることか。それはもう心が躍る、というような表現ではとてもとても足りないくらいです。胸を刺すようなさびしさと心がどこまでも軽くなるような自由に引き裂かれるような感じがする。そして、行った先で、どちらの思いが最終的に勝るのかは本当に行ってみないと分からない。これまで、耐えがたいさびしさに襲われたことも、帰りたくなくなるくらい自由を感じたこともどちらもありました。でも、それを引き受けることも含めて私の自由であり、挑戦なのです。小さくて、個人的で、でも大切な。
7月に入ると、だんだんと旅の日にちは近づいてきたけれど、具体的な計画を殆ど立てずにいるせいで、何が起こるかまるで予想がつかない感じが自分の人生そのものみたいでやや不安になったりもしました(一寸先は闇…!)。でも、そんな時に、『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を読んでから、さほど時を経ずして今年の始まりに出会って好きになった曲を聴いて、気を取り直しました。それが今日、取り上げたステレオフォニックスの"Pick a Part That's New"(『Performance & Cocktails』(1999)より)です。私はどこでだって、何だって好きなことができる。行ったことのないところへ行き、新しいものを見つけることができる。初めての場所なのにどこか懐かしさがあるかもしれない。家が恋しくなるかもしれない。東京が恋しくなるかも。一緒に来なかった人が恋しくなるかもしれない。またしても場所を移ることは何ら根本的な解決にはならないのだということを痛感するのかも。でもそれさえも新しい発見であり、行ってみなければ分からないこと。この曲は厳密には今年最初に聴いた曲ではないけれど、『もし僕らのことばが…』と同じように、やっぱり何か運命的な出会いだったようにも思えます。でも、実際は私がそこに何らかの意味を見出しているに過ぎないのかもしれない。
最後に1つだけ、なぜアイルランドなのか、ということに関するもう1つの理由について。私が旅に出るきっかけになったのは相変わらずブルース・スプリングスティーンです。7月27日、28日にキルケニーで行なわれるコンサートを観に行きたいと思っています。でも、ここ暫くブルースはずっとヨーロッパをツアーしているし、何もアイルランドである必要はなかったとも言えます。タイミングがいちばん良かったということはあるのだけれど、それでもパリでもミラノでもジュネーヴでも良かったはずなのです。それでもアイルランドに惹かれた理由は、1つには先に述べたように『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』があったから。もう1つは、私にとって最も近しくて憧れを感じるブルースファンの先輩の1人である方が、アイルランドにたいそう思い入れていたからです。私はこのブログを通じて、いろいろなブルースファンの方に出会えたけれど、最初の頃は本当に誰のことも知らなくて、私は極東に残された最後のブルースファンの生き残りなのではないか、と思うこともありました。そういう時に出会った彼は、私にとってブルースファンとはこんなにも素敵な人たちなんだ、という印象を本当に強く与え、こんなふうに私もなるんだと思わせてくれた人でした。(本当はブルースファンがみんな彼のようであるというよりは、彼はちょっと変わっているほうの人だと今では分かる)。ちょっと浮世離れしていて、大胆な夢想家で、ロマンティックで、でもニヒリスティックらしい。アズベリー・パークに行った時も、何年も前にまだ寂れきっていたその街にひとりでやって来た彼のことを考えたし、いろいろなところで実は結構影響を受けているんじゃないかと思うのです。そして、ブログを作ったばかりの頃に、彼ともう1人のまた全然違ったタイプのやはりブルースファンの先輩の2人に出会っていなかったら、今頃このブログはなかったかもしれないとも思っています。かつて彼がアイルランドについての文章を書かれた時に、私は今年の始めに『もし僕らのことばが…』を読んだときと同じように、いつか私もこの国に行くことがあるのだろうか、と思いました。彼が訪れた場所は私は殆ど行けないだろうけれど、多かれ少なかれ、彼が旅をし、文章を書いたということのために、私はその頃には想像もしなかった旅をしようとしているのです。
どこへ行けばいいのかも分からなかった
君に会うのも初めてだよ
君の暮らす所へ行ったことはないけれど
どこかで知ったような匂いがする
石造りの階段の上を
歩いていると懐かしい感じがする
好きなことをどんなことだって何だってできるんだよ
どこででも地に潜ってでも新しいものを掘り当てるんだ
望むことすべてやってみることができる
どこででも逆さまになっても新しいものを見つけるんだよ
ひとりきりで飲む人たちが
電話のダイアルを押している
どこかで目にしたような光景
電話で話しているのは僕なのか?
ひとりで飲んだ最後の1杯
僕は本当にこの場所を離れたことがあったのか
おなじみの戸惑い
好きなことをどんなことだって何だってできるんだよ
どこででもひっそりとでも新しいものを掘り当てるんだ
望むことすべてやってみることができる
どこででも混乱した頭を抱えたままでも新しいものを見つけるんだよ
じゃあ、君にとって新しいことって何なんだろう
君にとって新鮮なことって何だい?
君がまだ知らないことって何だい?
ENGLISH
10日間ほど旅に出ます。初めてのロンドンとダブリン(とキルケニー)へのひとり旅です。
以前にも書いたことがあるけれど、私は1年の最初に読む1冊になんとなくおみくじのような意味を見出すことがあります。1年の終わりにもなると、何を読んだか忘れてしまうこともあるのだけれど、その年の最初の頃には何となくいろいろな決定に際して方向性を定める指針になったりもする。今年の始めは、あまりしっかりとした本を読もうという気持ちが起きず、とりあえず手軽になにか1冊読んでおこう、というような気持ちでした。父親の部屋に行ってなにかないかと探しているうちに、遠い昔の父の誕生日か父の日か、そんな機会に私がプレゼントした本が見つかった。村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫・2002年)です。なぜ、この本をプレゼントしたのかよく覚えていないけれど、村上春樹が好きな父の部屋で目にしたことがない本だったのと、写真がたくさん載っていて綺麗だな、と思ったような気がします。写真も含めて100頁余りの本当に薄い本だったし、プレゼントしたというのに私自身は1度も読んだことがないというのもおかしなものだと思い、この本が今年の1冊になりました。『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』は、村上さんがスコットランド(アイラ島)とアイルランドに行ってウィスキーを飲んだり、ウィスキーの工場を見に行ったりした時のことを書いたエッセイでした。いちども行ったことのないスコットランドやアイルランドへ、いつか私も行くことがあるのだろうか、と思いながら緑豊かなアイルランドの写真を眺めました。
でも、それから少しして、なんだかアイルランドに行くことになるのかもしれない、という可能性がどんどん高まっていったのです。最初は小さな可能性であり、ちょっとした夢だったものが、1つ1つステップを踏んで行くことで、みるみる現実的になっていきました。その間ずっと、どこか現実味はないままだったし、今でもまだあまりないけれど、そんなふわふわした気持ちのどこかで、「これは今年の始めに『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を読んだことによる運命なのだ」というようなことをどこか本気で信じたりしています。
自分自身でも現実味が無かったということもあるし、見た夢の内容は人に話してはいけないと言われるように、なんとなく口にすると旅が逃げていきそうな気がして、旅の計画は早くからあったのだけれど、あまり誰にもこの話はしませんでした。それからもう1つの理由としては、この旅は私だけのものでなければならない、という思いがあった。これはひとり旅でなくてはならない。そして誰にも着いて来られないように、ひとりで先に周到に用意を進めました。今になると分かるけれど、この短い旅には象徴的な意味があって、自分が今でも本当に自由であること、そして自分だけで何かを今でも乗り越えられることを自分自身で確認するための旅でもあるのだと思う。私が最後に全く新しい土地をひとりで訪れたのは、もう随分と前のことになってしまいました。新しい国ということで言えば、2008年の夏以来だし、新しい街、という意味でも2009年の春以来になります。それから私の生活はあまり大きな変化を経ていないし、私自身があまり大きな挑戦というものをしていないような気がする。今時、ロンドンやダブリンに行くことくらいがさしたるチャレンジかといえば、それはどうか分からないけれど、誰も私を知らない所へひとりで行く、ということはやっぱり少し緊張するし、寂しくもある。でも、同時に誰ひとりとして私を知らないところへひとりきりで行くことがいかに自由を感じさせることか。それはもう心が躍る、というような表現ではとてもとても足りないくらいです。胸を刺すようなさびしさと心がどこまでも軽くなるような自由に引き裂かれるような感じがする。そして、行った先で、どちらの思いが最終的に勝るのかは本当に行ってみないと分からない。これまで、耐えがたいさびしさに襲われたことも、帰りたくなくなるくらい自由を感じたこともどちらもありました。でも、それを引き受けることも含めて私の自由であり、挑戦なのです。小さくて、個人的で、でも大切な。
7月に入ると、だんだんと旅の日にちは近づいてきたけれど、具体的な計画を殆ど立てずにいるせいで、何が起こるかまるで予想がつかない感じが自分の人生そのものみたいでやや不安になったりもしました(一寸先は闇…!)。でも、そんな時に、『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を読んでから、さほど時を経ずして今年の始まりに出会って好きになった曲を聴いて、気を取り直しました。それが今日、取り上げたステレオフォニックスの"Pick a Part That's New"(『Performance & Cocktails』(1999)より)です。私はどこでだって、何だって好きなことができる。行ったことのないところへ行き、新しいものを見つけることができる。初めての場所なのにどこか懐かしさがあるかもしれない。家が恋しくなるかもしれない。東京が恋しくなるかも。一緒に来なかった人が恋しくなるかもしれない。またしても場所を移ることは何ら根本的な解決にはならないのだということを痛感するのかも。でもそれさえも新しい発見であり、行ってみなければ分からないこと。この曲は厳密には今年最初に聴いた曲ではないけれど、『もし僕らのことばが…』と同じように、やっぱり何か運命的な出会いだったようにも思えます。でも、実際は私がそこに何らかの意味を見出しているに過ぎないのかもしれない。
最後に1つだけ、なぜアイルランドなのか、ということに関するもう1つの理由について。私が旅に出るきっかけになったのは相変わらずブルース・スプリングスティーンです。7月27日、28日にキルケニーで行なわれるコンサートを観に行きたいと思っています。でも、ここ暫くブルースはずっとヨーロッパをツアーしているし、何もアイルランドである必要はなかったとも言えます。タイミングがいちばん良かったということはあるのだけれど、それでもパリでもミラノでもジュネーヴでも良かったはずなのです。それでもアイルランドに惹かれた理由は、1つには先に述べたように『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』があったから。もう1つは、私にとって最も近しくて憧れを感じるブルースファンの先輩の1人である方が、アイルランドにたいそう思い入れていたからです。私はこのブログを通じて、いろいろなブルースファンの方に出会えたけれど、最初の頃は本当に誰のことも知らなくて、私は極東に残された最後のブルースファンの生き残りなのではないか、と思うこともありました。そういう時に出会った彼は、私にとってブルースファンとはこんなにも素敵な人たちなんだ、という印象を本当に強く与え、こんなふうに私もなるんだと思わせてくれた人でした。(本当はブルースファンがみんな彼のようであるというよりは、彼はちょっと変わっているほうの人だと今では分かる)。ちょっと浮世離れしていて、大胆な夢想家で、ロマンティックで、でもニヒリスティックらしい。アズベリー・パークに行った時も、何年も前にまだ寂れきっていたその街にひとりでやって来た彼のことを考えたし、いろいろなところで実は結構影響を受けているんじゃないかと思うのです。そして、ブログを作ったばかりの頃に、彼ともう1人のまた全然違ったタイプのやはりブルースファンの先輩の2人に出会っていなかったら、今頃このブログはなかったかもしれないとも思っています。かつて彼がアイルランドについての文章を書かれた時に、私は今年の始めに『もし僕らのことばが…』を読んだときと同じように、いつか私もこの国に行くことがあるのだろうか、と思いました。彼が訪れた場所は私は殆ど行けないだろうけれど、多かれ少なかれ、彼が旅をし、文章を書いたということのために、私はその頃には想像もしなかった旅をしようとしているのです。
アイルランド、この季節は最高だと思います。
夜のライブなのに、「昼間にやっている感」は不思議な気分になりますが、
アンコールの時間辺りに日が暮れてきて、その藍色の空をバックにしたジャングルランドは感動的になるはずです。
また土産話を聞かせてください。
そして、記事の中で取り上げてくださって、ありがとうございます。
浮世離れしていて、大胆な夢想家で、ロマンティスト。
さらにニヒルスティック。
すべて、最高の賛辞です!
Springsteen & I 観に行きます。
映画館での模様報告しますね。
お返事が遅くなってしまってすみませんでした。ブルヲさんから、コメントを頂くためにこの記事を書いた訳ではないけれど(!)、読んでくださったことが分かって嬉しいです。もちろん、すべて賛辞として書いたことばかりです。
そして、帰ってきて改めてブルヲさんが書いてくださったことを読んで、びっくりしました。キルケニーの2日目には、『Born to Run』がフルで演奏されたので、まさに"Jungleland"の頃、藍色の空になっていました。どうして分かったんだろう!
『Springsteen & I』のご感想もぜひぜひ聞かせてください。楽しみにしています。
おかえりなさい。
ダブリン、素晴らしいでしょ?
生まれてこの方、ブルースのライブが終わった後のまだ少し明るさの残るアイルランドの夜空ほど、美しい夜空は無いです。
ヘトヘトに疲れ果ててはいるけどこれ以上ないほどの充実感と、一抹の寂しさと、それらと相まったからなんでしょう、あの夜空は今でも昨日の事のように覚えています。
ジャングルランド、ブルースはアイルランドでは必ず演奏すると決めてるんだと思います。
演奏するには、最高の舞台だという事をわかってるんじゃないかなあ?
あ、映画の模様、まだ書いていません。
もう少ししたら、書きます!
もう、素晴らしいなんていう言葉では足りないくらいです。本当に心から行って良かったです。ブルヲさんには感謝してもしきれない.。o○ありがとうございます。こんなことなら最初から7日間ずっとアイルランドにいれば良かったです。人も温かいし、街並みも温かく、本当に美しかったです。
夜空のくだりを読んでいたら、キルケニーでの終演後の雑踏の中に、ブルヲさんもいらっしゃったかのような不思議な感覚になりました。
"Jungleland"、なるほど…と思いました。ブルヲさんが仰るなら、そうなんだろうなとも思います。
映画のことも、余裕のある時にぜひ。ブルヲさんのご感想をお聞きしないではいられないです。
キルケニーの雑踏の中にというくだり。
トム・ジョードじゃないけど、きっとそこにいたはずです。
素敵です.。o○
ニャロメさん
ありがとうございます。とても温かい言葉に胸がいっぱいになりました…。私は2012年のコンサートもそれはそれですごく良かったと思うのだけれど、今年の方が評判が高いのでしょうか。『Springsteen & I』のその場面、よく覚えているけれど、なるほどな…と思いました。何人かの方から感想をうかがったけれど、みんなそれぞれの場面に思い入れていて興味深くもあります。あんなふうに誰かの夢が叶った瞬間を目にすることで、それを見る人たち自身の夢も一層膨らむのかもしれないですね。キルケニーのコンサートでの帰り道に、女の人が「次こそは私が"Dancing in the Dark"でブルースと踊るわ!」と意気込んでいて、そう人に思わせられるブルースも、その夢を語れる彼女も素晴らしいな、と思ったのを思い出しました。ジョンさんの最後のエピソードは本当に素敵でした。確かに、彼の言葉を聞いて、私もまるで自分がブルースからそう言葉をかけられたみたいに嬉しく思いました。