夕方に起き出しても
何も言うことなんてない
朝 家に帰り
結局同じような気分で布団に入る
ただただ疲れているだけ
自分自身にうんざりするだけなんだよ
ベイビー 少しばかり手を貸してくれないか
火は起こせないんだよ
火は起こせないんだよ 火花なしでは
俺は雇われの身
たとえ暗闇の中で踊っているだけだとしても
メッセージは次第にクリアになってくる
ラジオがかかる中 俺は気忙しく動きまわる
鏡で自分の姿を見る
服も髪型も顔も変えてしまいたい
どこにも行きつけない
こんなごみ溜めみたいな場所に住んでいたら
でもどこかで何かが起きていることは
ベイビー 分かっているんだ
座っているうちにどんどん歳だけとって
その辺のジョークのネタになる
この世界を肩から揺すり落としてやる
ベイビー 笑い者にしたっていい
この町の通りに留まっていたら
ずたずたになるだけだ
ハングリーでいなけりゃと人は言うけれど
俺は今夜もう餓死寸前というくらい
何か行動を起こしたくてたまらない
この本を書き上げようとぼんやり座っているのにはもううんざり
誰かに愛で応えてほしい
ベイビー ちらと目を向けてくれるだけでもいいから
火は起こせないんだよ
破れた心を嘆いているだけじゃ
俺は雇われの身
俺たちはただ暗闇で踊っているだけだとしても
火は起こせないんだ
自分のちっぽけな世界が崩れることを心配していては
俺は雇われの身
俺たちはただ暗闇で踊っているだけだとしても
ENGLISH
ひとつきほど間が空いてしまって、もうそんな時期でもありませんが、みなさんあけましておめでとうございます。私はとりわけ迷信深い訳ではないと思うのだけれど、1年の最初のなにか、というものには少しこだわってしまうようです。何となく、それに方向性を決められるような気がして意識して最初の1つを選んでしまうような気がする。本でも映画でも、そして音楽でも。この年末年始は、あまり自分の思い通りにはできなかったけれど、その分こちらでその験かつぎ(?)をしようと思います。それで選んだのが、ブルース・スプリングスティーンの"Dancing in the Dark"です。比較的に分かりやすい、共感しやすいフレーズが多いことに加えて、キャッチーでもあるので、この曲はブルースを好きになりたてだった高校生の頃からずっと好きでした。『Born in the U.S.A.』(1984)に収められたスタジオバージョンも好きだったし、ブライアン・デ・パルマが撮った有名なビデオも好きでした。ブルースのダンスは見たことのないようなもので、うまいのか下手なのかよく分からなかったけれど、とてもキュートだと思った。そして、『Live in Barcelona』(2003)で聴かれた最近のより性急な感じのする演奏も大好きで、ずっといつかコンサートで耳にして、ブルース風のダンスをするのが夢でもありました。そして何よりも好きなのは、デイヴ・マーシュの『グローリー・デイズ』(CBS・ソニー出版、1987年)の中の、この曲が出来上がっていく様子を書いた部分でした。本当に1984年のある静かな明け方にホテルのベッドルームでギターを抱えて曲をひとりで作っているブルースの姿を目にしたような気持ちになるくらい印象的な箇所だったし、たぶん『グローリー・デイズ』の中でも最も好きな逸話のひとつです。『Born in the U.S.A.』がかなり形になりつつあった時に、ブルースは友人であり、マネージャーであり、プロデューサーだったジョン・ランダウに「ブルースのファンであり、『Nebraska』(1982)にもついてきてくれた人が、たとえ謎めいた曲であっても、『ああ、これがブルースだよ。こういうのをやろうとしていたのか、今、やっとわかった』って言えるような歌」としての「シングル」が必要だと迫られ、「俺はもう70曲も書いたんだ。また別のが欲しいんだったら、自分で書けよ」と怒ったという話は有名です。私が心を奪われたのはその続きの部分。
「しかし、その晩おそくなって、ホテルのスイート・ルームで一人になった時、ブルースはいつの間にか例の論争を再現していた。いまだに一番大事にしていた明け方近くの時間に、ベッドの端に腰かけて、彼はアコースティック・ギターをもち簡単なリフをつまびき始めた。
出だしの一節はすでに考えてあったのだ。
「朝起きると……」と歌い、そこでやめた。
いや、俺は朝に起きないもんな、と思った。じゃあ、俺なら何をしているだろう?
「夜起きると……」とやさしく歌い、考えた。
さて、どういう気分だろう?
「……言うことなんか何もない/朝、家に帰っても気分は同じ/まったく、くたくただ。くたくたで、自分自身に飽き飽きしている」
それから二年たった後でも、そのストーリーの話をするブルースは、次に起こったことにいまだに感心しているようだった。
「まるで、ハートが直接口から出てしゃべっているようだったよ。脳味噌もいちいち通らないでね。サビが俺からただほとばしり出たんだ」(185頁、岡山徹訳)。
故郷にいた10代の頃、このままではどこにも行けない、でもどこかに行かなくては、という気持ちを抱えていた自分を助けてくれるような古い曲は、こんなにも親密に感じられる所から生まれてきたのだ、と思うととても心を動かされたし、勇気づけられもしたし、愛おしく感じた。『Wrecking Ball』ツアーでは、"Tenth Avenue Freeze Out"と共にアンコールの最後の2曲として不動の位置を確立していたのもとても嬉しく思っていました。おかげで私もダンシングシューズを履いて、ブルースのように踊ることができた。
でも、それならどうして今の今までこの曲を取り上げなかったのか。それは、"This gun's for hire"の訳し方が分からなかったからです。きっといろんな人にとって思い入れのある曲だと思ったから(でも、私が特に思い浮かべるのは、以前コメントをくださった方のことです。夕方の時間にひとりで部屋の床に腰を下ろして、ラジオに耳を傾けていた彼が、この曲で初めてブルースに出会い、耳を奪われた様子は、先に引用した『グローリー・デイズ』の文章と同じくらい心に残っています)、いい加減な訳をしてはいけないという思いもあったし、自信もなかったから、違うと言われることが恐かった。そう言われた時に自分の思いを言えるほど、私はこの曲に近づけていないという畏れみたいなものもあったかもしれない。
でも、私は自分の良くないところとして、できないことをやらないということがあることをずっと感じていました。確実にできること(と言ってもそれも本当に確実な訳ではなくて、確実だと思っているだけだけれど)しかやろうとしない。いろいろ言い訳をして、まだ時期ではないとか、誰かに悪いとか、そういうことを言って、結局逃げてしまう。だけど、このままでは絶対に駄目だ。腰を上げることなく、歳だけこのままどんどんとって、絶対に火なんて点けられない。たとえ違うと言われても、完全でなくても、やりたいこと、やろうと思ったこと、そしてやらなければならないことをやらないと、自分自身にうんざりするだけで終わってしまう。だから、新年の験かつぎにこの曲を選んだのです。ブルースがこの曲を書いた背景ともどこか通じるところがあるような気がしました。本当に大切なことは、簡単には出てこないものかもしれない。自分の心を抉るようにして、少しは苦しまないと形にはできない、たぶん。この1年の間、自分がそういう挑戦を避けずに受けていけるようでありたかった。
そして結局、"This gun's for hire"とはどういう意味なのか?少しインターネットで検索するだけで随分、いろんなことをいろんな人が言っているし、正しい解釈がある訳でもなさそうです。ブルースはあまり、歌詞の意味を特定するようなことは言わないだろうし。"gun for hire"の元々の意味は、「雇われの殺し屋」というもので、ブルースが好きだと言われているフィルム・ノワールの作品にも『This Gun for Hire(拳銃貸します)』(1942)という雇われの殺し屋の話があるようです。
また、割りとよく言われる解釈の1つには、「gun」と言えば…、ということでセクシュアルな見方をするものがあります。私はこのセクシュアルな解釈は、間違いだとは思わないけれど、そこまで限定的に考えたくないとも思っています。
今回使った「雇われの身」という訳は、もしかすると私がいちばん最初に高校生の頃に出会ったもので、長い間それは違うだろう、と思っていたものと同じかもしれません。でも、「雇われの殺し屋」という元の意味から少しずつ解釈をしていくと、それは、指示されたことをやらないと稼げない人、つまり自分の自由な意思で行動することのできない人のことなんじゃないかなと今は思っています。性的な意味で解釈する場合にもこうすると、欲望に突き動かされて、自由な理性的な行動や考えを阻まれているというようなふうにも考えられる気がします。自分で書きながら、ちょっと無理があるような気もするけれど。でも、どんな理由であれ、自分の自由がきかない、暗闇で踊っているだけだとしても、何かに捉われているような思いがあることを言っているのかなと思うのです。
他の解釈には、「シングル」を書け!とジョン・ランダウにせっつかれたりしたブルースのプレッシャーというか、レコード会社の「雇われ」のような思いを言っているのでは、というものもあります。デイヴ・マーシュも「"Dancing in the Dark"はランドーとの激しいやりとりを再現している」(186頁、岡山訳)とも書いているので、少しそういう見方をしているのかもしれない。
最後はデイヴ・マーシュの素敵な引用で今日の記事をお終いにします。
「これは、大切にする価値のあるプロテストソングだったのだ。倦怠に対抗するためのマーチングソングであり、孤独に対する鬨の声であり、孤独な者が支払うべき代償の決算だった。加えて、再び通りに飛び出すことが待ちきれない者の身体的衝動のうめきでもあった。『どこかで何かが起きていることは/ベイビー 分かるんだ』と彼は歌いもう1度言う『何か行動を起こしたくてたまらない』と。彼は自分の(或いは誰もが)手に負えるだけのものを、今にも見出そうとしているところだった」(Dave Marsh, Two Hearts《Routledge, 2004》 p.411, 拙訳)。
何も言うことなんてない
朝 家に帰り
結局同じような気分で布団に入る
ただただ疲れているだけ
自分自身にうんざりするだけなんだよ
ベイビー 少しばかり手を貸してくれないか
火は起こせないんだよ
火は起こせないんだよ 火花なしでは
俺は雇われの身
たとえ暗闇の中で踊っているだけだとしても
メッセージは次第にクリアになってくる
ラジオがかかる中 俺は気忙しく動きまわる
鏡で自分の姿を見る
服も髪型も顔も変えてしまいたい
どこにも行きつけない
こんなごみ溜めみたいな場所に住んでいたら
でもどこかで何かが起きていることは
ベイビー 分かっているんだ
座っているうちにどんどん歳だけとって
その辺のジョークのネタになる
この世界を肩から揺すり落としてやる
ベイビー 笑い者にしたっていい
この町の通りに留まっていたら
ずたずたになるだけだ
ハングリーでいなけりゃと人は言うけれど
俺は今夜もう餓死寸前というくらい
何か行動を起こしたくてたまらない
この本を書き上げようとぼんやり座っているのにはもううんざり
誰かに愛で応えてほしい
ベイビー ちらと目を向けてくれるだけでもいいから
火は起こせないんだよ
破れた心を嘆いているだけじゃ
俺は雇われの身
俺たちはただ暗闇で踊っているだけだとしても
火は起こせないんだ
自分のちっぽけな世界が崩れることを心配していては
俺は雇われの身
俺たちはただ暗闇で踊っているだけだとしても
ENGLISH
ひとつきほど間が空いてしまって、もうそんな時期でもありませんが、みなさんあけましておめでとうございます。私はとりわけ迷信深い訳ではないと思うのだけれど、1年の最初のなにか、というものには少しこだわってしまうようです。何となく、それに方向性を決められるような気がして意識して最初の1つを選んでしまうような気がする。本でも映画でも、そして音楽でも。この年末年始は、あまり自分の思い通りにはできなかったけれど、その分こちらでその験かつぎ(?)をしようと思います。それで選んだのが、ブルース・スプリングスティーンの"Dancing in the Dark"です。比較的に分かりやすい、共感しやすいフレーズが多いことに加えて、キャッチーでもあるので、この曲はブルースを好きになりたてだった高校生の頃からずっと好きでした。『Born in the U.S.A.』(1984)に収められたスタジオバージョンも好きだったし、ブライアン・デ・パルマが撮った有名なビデオも好きでした。ブルースのダンスは見たことのないようなもので、うまいのか下手なのかよく分からなかったけれど、とてもキュートだと思った。そして、『Live in Barcelona』(2003)で聴かれた最近のより性急な感じのする演奏も大好きで、ずっといつかコンサートで耳にして、ブルース風のダンスをするのが夢でもありました。そして何よりも好きなのは、デイヴ・マーシュの『グローリー・デイズ』(CBS・ソニー出版、1987年)の中の、この曲が出来上がっていく様子を書いた部分でした。本当に1984年のある静かな明け方にホテルのベッドルームでギターを抱えて曲をひとりで作っているブルースの姿を目にしたような気持ちになるくらい印象的な箇所だったし、たぶん『グローリー・デイズ』の中でも最も好きな逸話のひとつです。『Born in the U.S.A.』がかなり形になりつつあった時に、ブルースは友人であり、マネージャーであり、プロデューサーだったジョン・ランダウに「ブルースのファンであり、『Nebraska』(1982)にもついてきてくれた人が、たとえ謎めいた曲であっても、『ああ、これがブルースだよ。こういうのをやろうとしていたのか、今、やっとわかった』って言えるような歌」としての「シングル」が必要だと迫られ、「俺はもう70曲も書いたんだ。また別のが欲しいんだったら、自分で書けよ」と怒ったという話は有名です。私が心を奪われたのはその続きの部分。
「しかし、その晩おそくなって、ホテルのスイート・ルームで一人になった時、ブルースはいつの間にか例の論争を再現していた。いまだに一番大事にしていた明け方近くの時間に、ベッドの端に腰かけて、彼はアコースティック・ギターをもち簡単なリフをつまびき始めた。
出だしの一節はすでに考えてあったのだ。
「朝起きると……」と歌い、そこでやめた。
いや、俺は朝に起きないもんな、と思った。じゃあ、俺なら何をしているだろう?
「夜起きると……」とやさしく歌い、考えた。
さて、どういう気分だろう?
「……言うことなんか何もない/朝、家に帰っても気分は同じ/まったく、くたくただ。くたくたで、自分自身に飽き飽きしている」
それから二年たった後でも、そのストーリーの話をするブルースは、次に起こったことにいまだに感心しているようだった。
「まるで、ハートが直接口から出てしゃべっているようだったよ。脳味噌もいちいち通らないでね。サビが俺からただほとばしり出たんだ」(185頁、岡山徹訳)。
故郷にいた10代の頃、このままではどこにも行けない、でもどこかに行かなくては、という気持ちを抱えていた自分を助けてくれるような古い曲は、こんなにも親密に感じられる所から生まれてきたのだ、と思うととても心を動かされたし、勇気づけられもしたし、愛おしく感じた。『Wrecking Ball』ツアーでは、"Tenth Avenue Freeze Out"と共にアンコールの最後の2曲として不動の位置を確立していたのもとても嬉しく思っていました。おかげで私もダンシングシューズを履いて、ブルースのように踊ることができた。
でも、それならどうして今の今までこの曲を取り上げなかったのか。それは、"This gun's for hire"の訳し方が分からなかったからです。きっといろんな人にとって思い入れのある曲だと思ったから(でも、私が特に思い浮かべるのは、以前コメントをくださった方のことです。夕方の時間にひとりで部屋の床に腰を下ろして、ラジオに耳を傾けていた彼が、この曲で初めてブルースに出会い、耳を奪われた様子は、先に引用した『グローリー・デイズ』の文章と同じくらい心に残っています)、いい加減な訳をしてはいけないという思いもあったし、自信もなかったから、違うと言われることが恐かった。そう言われた時に自分の思いを言えるほど、私はこの曲に近づけていないという畏れみたいなものもあったかもしれない。
でも、私は自分の良くないところとして、できないことをやらないということがあることをずっと感じていました。確実にできること(と言ってもそれも本当に確実な訳ではなくて、確実だと思っているだけだけれど)しかやろうとしない。いろいろ言い訳をして、まだ時期ではないとか、誰かに悪いとか、そういうことを言って、結局逃げてしまう。だけど、このままでは絶対に駄目だ。腰を上げることなく、歳だけこのままどんどんとって、絶対に火なんて点けられない。たとえ違うと言われても、完全でなくても、やりたいこと、やろうと思ったこと、そしてやらなければならないことをやらないと、自分自身にうんざりするだけで終わってしまう。だから、新年の験かつぎにこの曲を選んだのです。ブルースがこの曲を書いた背景ともどこか通じるところがあるような気がしました。本当に大切なことは、簡単には出てこないものかもしれない。自分の心を抉るようにして、少しは苦しまないと形にはできない、たぶん。この1年の間、自分がそういう挑戦を避けずに受けていけるようでありたかった。
そして結局、"This gun's for hire"とはどういう意味なのか?少しインターネットで検索するだけで随分、いろんなことをいろんな人が言っているし、正しい解釈がある訳でもなさそうです。ブルースはあまり、歌詞の意味を特定するようなことは言わないだろうし。"gun for hire"の元々の意味は、「雇われの殺し屋」というもので、ブルースが好きだと言われているフィルム・ノワールの作品にも『This Gun for Hire(拳銃貸します)』(1942)という雇われの殺し屋の話があるようです。
また、割りとよく言われる解釈の1つには、「gun」と言えば…、ということでセクシュアルな見方をするものがあります。私はこのセクシュアルな解釈は、間違いだとは思わないけれど、そこまで限定的に考えたくないとも思っています。
今回使った「雇われの身」という訳は、もしかすると私がいちばん最初に高校生の頃に出会ったもので、長い間それは違うだろう、と思っていたものと同じかもしれません。でも、「雇われの殺し屋」という元の意味から少しずつ解釈をしていくと、それは、指示されたことをやらないと稼げない人、つまり自分の自由な意思で行動することのできない人のことなんじゃないかなと今は思っています。性的な意味で解釈する場合にもこうすると、欲望に突き動かされて、自由な理性的な行動や考えを阻まれているというようなふうにも考えられる気がします。自分で書きながら、ちょっと無理があるような気もするけれど。でも、どんな理由であれ、自分の自由がきかない、暗闇で踊っているだけだとしても、何かに捉われているような思いがあることを言っているのかなと思うのです。
他の解釈には、「シングル」を書け!とジョン・ランダウにせっつかれたりしたブルースのプレッシャーというか、レコード会社の「雇われ」のような思いを言っているのでは、というものもあります。デイヴ・マーシュも「"Dancing in the Dark"はランドーとの激しいやりとりを再現している」(186頁、岡山訳)とも書いているので、少しそういう見方をしているのかもしれない。
最後はデイヴ・マーシュの素敵な引用で今日の記事をお終いにします。
「これは、大切にする価値のあるプロテストソングだったのだ。倦怠に対抗するためのマーチングソングであり、孤独に対する鬨の声であり、孤独な者が支払うべき代償の決算だった。加えて、再び通りに飛び出すことが待ちきれない者の身体的衝動のうめきでもあった。『どこかで何かが起きていることは/ベイビー 分かるんだ』と彼は歌いもう1度言う『何か行動を起こしたくてたまらない』と。彼は自分の(或いは誰もが)手に負えるだけのものを、今にも見出そうとしているところだった」(Dave Marsh, Two Hearts《Routledge, 2004》 p.411, 拙訳)。
一年の初めにこの曲を取り上げてくださりとてもうれしいです。僕は昨年ブルース達のライブをワシントンDCへ行って観てきました。僕はライブを楽しむのには失敗したけれど、ライブの前夜に泊っているホテルの窓から会場を観ながらウォークマンで聴いて踊った「DANCING IN THE DARK」は本物でした。今まで30年近くのブルース達とのつきあいの頂点、最高のモーメントでした。
僕はこの曲を発売当時部屋でボリュームを上げて一人聴いて踊っていました。すると歌詞のようにふーっと何かをつかんだような気がして、自分が変わったような気がして自分の顔を鏡で見る。すると今までと変わらない酷い顔のままでいる自分を見ていました。この曲の歌詞には僕の気持ちを代弁しているような、僕の歌だという気持ちを持っていました。
歌詞の”This gun's for hire"は僕の思いとしては「俺はfor sale,for rentよりも更に価値の低い借り物でも何でもいい」それでいいから誰か俺と付き合ってくれ。とプライドも何も無い。とにかくどこかに行きたい。誰かとかかわりたい。何でもいいからこのどうにもならない生活から出たい。そんなどうにもならない最低の願いに僕は感じていました。
アルバム「NEBRASKA」の曲「atlantic city」でわずかな望みを賭けてバスに乗る時よりも更に状況は悪い、何も見えずに手足をバタバタしているだけのようなあがきに感じます。
僕もその頃に比べれば遥かにましな生活をしている。でもそれは最低の思いを経験してブルースの曲を聴きながら何とか耐えられたからだと僕は今思っています。この曲は本当に僕の曲だと思います。
こんにちは。「僕の曲だ」と仰るくらい、この曲を大切に思われているkantenbouさんにそう言って頂けると私もとても嬉しいです。そして、kantenbouさんがホテルの窓から夜に"Dancing in the Dark"を聴きながら踊ったというお話、ブログに書かれていた時にも本当に素敵だと思いましたが、改めて胸がいっぱいになりました。なにか大きな出来事以上に、そうした思いがけないところで出会う思いがけない一瞬があるから、何とかやっていけるという部分が人生の中では実は大きいのかもしれないな、と思います。そして、kantenbouさんのワシントンDCでのその瞬間につながったのは、きっと29年前にこの曲を聴きながらもがいて、苦しんで、でもそれを切り抜けて来られたからなのだなと思いました。
"This gun's for hire"のkantenbouさんの解釈を聞かせて頂けたのもとてもありがたいです。もっと早くにちゃんと記事を書いて、いろんな人から解釈を聞かせてもらえば良かった、とも思いますが、でもこれより早かったら、kantenbouさんのワシントンでの体験も書いていただけなかっただろうし、やっぱり良いタイミングだったかな、と思っています。ありがとうございます。
面白い解釈ですね。この曲はセクシュアルな面も含めて繋がりを求めている歌というか、暗闇の中に光を捜し求めているような歌だと思い込んでいました。僕はこれまでそういう意識でしか聴いたことがなかったように思います。だからasburyさんの解釈はとても新鮮で驚きでした。ブルースだって「まるで、ハートが直接口から出てしゃべっているようだった」と言っているくらいだし、正しい解釈なんてないのだと思います。でも、ひょっとするとこの曲には、繋がりたいという想いと、繋がりを断ち切りたいという想い、そういう相反する想いが同時に込められているのかもしれないないですね。そんな風に僕には思えてきました。たとえはっきりと意識していなかったとしても、そういうアンビバレントに引き裂かれたような想いがブルースにあって、その気持ちがそのまま曲になったのだとしたら、この曲があれほど激しく僕の心を揺さぶったのもなんだか納得がいくような気がするのです。興味深い解釈をありがとうございます。
不思議な話かもしれないですが、このところ折にふれてお元気かな…と気になっていたので、砂漠に水を撒く男さんからコメントを頂けて本当に嬉しいです。この記事を書いたのにもそんな思いもあったかもしれないですが、特にこの記事にコメントを頂けて、なんだか救われた思いというか、長い間、何ともできなかったことを、1つ乗り越えられたような気がしました。
繋がりたいという想いと、繋がりを断ち切りたいという、相反する想い、アンビバレントに引き裂かれたような想い、という部分には本当に心を揺さぶられました。今まででいちばん、「暗闇で踊る」というイメージがはっきりと浮かび上がる表現のように思われました。この曲はやっぱりどうしても、私にとっては砂漠に水を撒く男さんと切り離すことのできない曲です。こちらこそ、忘れ難いコメントを本当にどうもありがとうございました。
大人になってこの曲を改めて聞くと、沁みるものがあります。
素敵な和訳とブログ、ありがとうございます。
実は私は、Asburyさんの解釈よりも、この曲はもう少し暗くて不穏なのではないかと思っています。ミュージック・ヴィデオはチャーミングですが、曲自体はどこか優しげなアレンジながらも、基本的に暗い。
歌詞での1人称の「俺」は、自分の現状に強い不満を抱えている。
おそらくは満足のいく仕事に就けていない労働者、あるいは失業者やニートかもしれない。クラブや夜の性的な快楽に身を費やしてる、もう決して若くはない男かもしれない。いずれにせよ、自分の生き方に希望を見いだせなくなっている。
しかし、不満を燻らせてはいながら、それを爆発させることもできない。
そうするには疲れすぎてしまっている。だから、「火花」を起こしてくれる誰かを待ち続けている。
「This gun is for hire」という言葉は、むろん敢えて様々な解釈を残すためにそのような歌詞にしているのでしょうが、「火花」に反応するものとして、それに対応する言葉なんだろうと思います。ただ、「Gun」というのは、この曲ではやや唐突で、物騒な単語です。
具体的ではなくあくまで心象的な表現なのでしょうが、自分を拳銃に見立てて、暴発しそうだ。あるいは、きっかけさえあれば人殺しでもしたいくらいだ(誰だっていい)。けれど、そのような「火花」も、おそらく来ない。だから、やり場のない不満や怒りとして燻っている。だから、「暗闇に踊り続ける」しかない。
あくまで個人的にではありますが、この曲を聴くと、暗い部屋で、孤独な男が、ベッドでしばし疲れた頭と身体を休める際に、拳銃を用いた自殺と、他人の殺人の間で、夢想を行き来している姿が浮かびます。私も疲れきった男として、そうした心情は痛いほど分かります。
スプリングスティーンは長年、鬱病を抱えていたようですが、この曲やアルバムの多くの曲には、彼自身や、彼の描くアメリカの悩みがよく表現されていると思います。