森さんは元来失言の名人である。私は面識も何も無いが、同じ石川県の人であり、地方紙にしか載らない話もあり、噂話も聞いたりする処から、失言同様軽率な失策も多いような印象を持っている。そこに愛嬌もありあの手の人の常として、ガキ大将的な魅力も大いにあるのであろう。そういう人が有能な実力者として長日月を閲するうちに陥りがちな事の一つに公私混同がある。
今度の事も、文脈からは、暗い悪意が感じられない。極めて私的な友や家族との居間での会話でなら冗談で済まされたものを、公の場でしてしまったのがまずかった。公人の発言に現われたものだから攻撃されるのであり、個人の脳裡にだけあるものを非難する事は出来まい。それだけの差で、こんなに囂々たる非難を浴びなければならないのか、との思いが、あの謝罪会見には現われていた。
併し多分非難は森さんを通して実は、私や非難している当人を含めたすべての人間の内面の在りように向けられているからこそ、こんなに激しているのである。
IOCは、掌を返す前に一旦謝罪会見を受け入れた。一夫多妻の国がある。女性は自転車にも自由には乗れない国がある。アバヤ、ニカブ、ブルカと、覚えられないほどのもので容姿を隠す事を強いられている女性たちが居る。マララさんに至っては意見を表明しただけで危く死に掛けてしまった。
特に日本人の目を惹くのはムスリムであるが、男尊女卑は、ムスリム特有ではない。キリスト教下にも、仏教下にもある。この上なく宗教に寛容な我が国にある位であるから、ユダヤ教下にもある事であろう。無論宗教と無関係にも在る。
通常人間が間投詞などを除いて、ものを言う時には、意思に基づいて居る。併し思わず漏らしてしまう言葉の基は、少なくとも意識下の意思では無い。下意識の意思である。下意識の基礎となる事物のうち、後天性のものは体験とその繰り返しであろう。先天的なものは、遺伝情報である。根深いのは遺伝情報である。体験が草の根なら、遺伝情報は木の根である。人格を得てからの体験は、選択の対象であり得る。時間的にも高の知れた体験から得た下意識など、比較的容易に変え得るという事である。遺伝情報は、そうは行かない。気が遠くなるような長日月を経て形成されて居る上に、根を掘り返して細工できるような代物ではない。男尊女卑の遺伝情報は、いつごろ吾人の脳裡に巣くったのであろうか。
思うに少なくとも生物というものは、向上性を有すると思われる事を顧みると、未だ吾人の脳髄の、獣並みに薄弱であった頃であろう。頼るほどの脳髄が無ければ、幅を利かすのは腕力沙汰である。腕力に勝れたオスが尊ばれ、メスは卑しまれて居たのであろう。
最先進国米国の、黒人への差別に就いても、正式な奴隷制度の敷かれて居たのは、200余年の間に過ぎない。その間に脳裡に染み着いてしまった、不条理な差別意識さえ、これだけ甚大な犠牲と、激しい抗議活動に因っても、拭い果たされずに在る。
更にはその黒人の母なる大地アフリカでも、婦女子への虐待は横行している。
又、維新から150年足らずの我が国でも、政治家や官僚のシンタリティの基の遺伝情報には、国の資財は決して、国民から寄託された血税などではなく、己が私財同然の上、さも紙切れや空き缶のように扱うべしとの、条項があるかのように見える。
アベノマスクや、新型コロナワクチンと注射器に関わる勘定の仕方からは、そうとしか見えない。
意識でも資財でも、本来自身に属する筈の事物の、実態が儘ならぬものであるとき、その程度の大きい程、苛立ちは募るものである。
而してその苛立ちを解消して、本来の姿を取り戻す迄、如何に困難でも吾人は諦める事が無い。好むと好まざるとに拘らず人間は、そのようものに出来上がってしまって居るのであるから、恐らくはこれも又遺伝情報に因って。