独白

全くの独白

車と私の自転車と歩行者

2016-11-16 15:34:41 | 日記
今日は久し振りの好天気に成ったので、自転車で山の方へ行って来た。標高500米程の所でも紅葉が始まっており良い気分で車も殆ど通らない林道を上っていると大きな石が落ちており、その左は狭く右が広い。車の音が後ろでしたので「真の悪い奴め」と思いながら石の左を通ってやった。ところが相手はそこでは抜かず石を通り過ぎてから抜いたのは、ま、良いがクラクションを鳴らして行ったのである。ムッとして「少しは頭を使え。後ろにいるのが解ったから態々狭い方を通ってやったのが解らないのか」と思った。態々山に来るのは、運動の為でも佳景を堪能する為でもあるが、下界の騒音を逃れる為でもある。無粋な音を必要でもないのに立てて貰いたくないのである。
だが落ち着いて考えてみると向こうは「譲ってくれて有難う」という心算で鳴らして行ったのかも知れない。両方向に解釈できる時は好意的に解釈するに如くはない。その方が穏やかに日々を過ごす事ができるというものである。

先日もこんな事があった。抑々春と秋は遠足シーズンであり、自転車では走りにくい事がある。この日も二、三組に遭った。そこは広い芝生の端に1、2米の幅の舗装路がある。自転車で草の上は走りにくいので路上を走っていると連中も路上を歩いて来る。「芝生の方が気持ちにも膝にも良かろう」と思ったが、殆どの先生は児童に注意を促しもしないので、たまにいる下を向いて歩く子とぶつかりそうになる。暫く我慢していたが遂に先生に文句を言ってしまった。すると素直に「すみません」と云うので反射的に「いいえ」と返した。この時も落ち着いて考えてみると、道を歩くときは前を見るべし等と云う事は、もっと小さい時に家でしつけるべきである。学校の先生の責められるべき筋合いのものではなく、私の注文には無理があった。激しい言い方をしなくて良かったと思った。

腹の立つのは止められないが、そこで攻撃する前に一呼吸して考えてみるというのは此の世を渡って行く際に肝に銘じて置くべき事の一つである。