一人人海戦術

世界の3%くらいの人に納得してもらえばいいかなと考える、オメガ・ブロガーを目指してみようか。

○○分子と細胞

2006-08-21 00:32:55 | 言葉の正しい使い方
 よく、左もしくは右の政治色の強い話題の中で不満分子、分裂分子、反乱分子、反日分子...といった○○分子という言葉が使われる。だが、ちょっと待って欲しい。分子にしては大きすぎるんじゃないか。科学用語を勝手に変な風に使うとは言語道断。成敗。言葉は正しく使うのだ。

 ネタとしてはこれで終わりなのだが、何故、分子レベルの大きさでもないものに「分子」という言葉を使うようになったのだろうかと気になった。言わずもがなここで言う「分子」とは一人の人間のことである。似たように一人の人間を称するのに、昔は社会主義系の文脈で「細胞」と呼んでいたのがあったようだ。それは社会全体を一つの生物に例えてのお話であったはずだ。日本労働党規約とかを引いてくれば、

~引用開始~
第十一条
 (1) 党の基礎組織は細胞である。工場、鉱山、経営、農漁村、居住地、学校などで三名以上の党員がいるところでは細胞をつくる。
 大工場、大経営の細胞は、細胞を基礎に総細胞制をとることができる。
 (2) 政治局が必要と認めたところでは、一定の地域あるいは都道府県を越えて細胞をつくることができる。
 (3) 細胞細胞長を選出し、闘争全般について指導する。
~引用終了~

 ここの部分に限らずあちこち細胞でもないものに「細胞」が出てくる。とりあえず、科学用語を(中略)成敗。何故、細胞レベルの大きさでもないものに「細胞」という言葉を使うようになったのだろうかと気になった。上の例では人間の小集団のことを言っているようだが、人間は生き物だから「分子」と言われるよりはいくらかましか。そういえば、人間の集まりのことを「組織」とか言うが、生物学用語の「組織」とどっちが先なんだろうか。後から「組織」を名乗った方を成敗せねばならんのだろうか...
 さて言葉の迷宮に入って一人不条理劇を始めても仕方が無いので、本質的な問題である、何故人間を人間と呼ばずに「分子」だの「細胞」だのと呼ぶのかということを考えよう。生物の体では細胞は分化し数々の組織を形成し、その集まりは器官と呼ばれ、個体の生存に必要な作業をこなしている。そういう点では社会を生物に例えるのは大嘘ではない。無理に好意的に捉えれば、社会を生物の体のように効率よく運営したいという気持ちの現われかもしれない。しかし、階層構造を取っているとか相互に関連し合っているとか依存しあっているとかいう点までの話であって、例え話には当然適用できる限界があり、そこを一歩でも踏み出すと嘘になる。

 ここでの嘘と適用限界は容易に指摘できる。
1. 細胞は人間のように個々の権利を主張したりするかと言えばしない、というか出来ない。勝手なことをするのは癌細胞だ。
2. 細胞は平等かというと、姿かたち、能力、機能、どれをとっても、人間同士の違いとは比べ物にならないほど異なっていて、全く平等ではない。
3. 細胞は分化の過程や個体の生存の都合で要らない部分は死を迎える。人間は、君要らないからね、と本当に殺される社会も実在するものの、表向きはそういうことはやってはいけないことであるという何らかの同意がどんな社会にもある。

 人間とか個人とか言えば済みそうなものを「細胞」呼ばわりしたくてしょうがなくなる人物たちの狙いは何だろうかと考えれば、例え話の適用限界を超えて話を進めたいからではないだろうかという疑念が容易に浮かぶだろう。つまり、「細胞」という言葉を使いたい場合、言外に人間に対して細胞の有り様を押し付けたいという欲求が込められている可能性があるのではないか。何故なら、実際問題として、上層部の決定通りに権利を主張せずに働き、上層部の人間との待遇の違いにも不満を漏らさず、上層部の都合で喜んで死を迎える、そんな人間をどこの集団の上層部も求めてはいるはずだから。自分自身は上層部でいたい人が、議論の段階から欲望むき出しの言葉を使っていたせいか、社会主義が全体主義に変貌したのは仕方の無いことかもしれない。
 「分子」に至っては、もはや生命の単位でもなく、いつでも取替えの効く社会の部品としてしか人間の存在を見ていないのは明らかだろう。権利を主張するどころか単なる物体に過ぎない人間をどういう目に合わそうとも「分子」なので何の問題でもない。「分裂分子」で検索すれば中華人民共和国のサイトが無数に引っかかる。例えば、

民族分裂分子是新疆“严打”重要目标
~部分翻訳引用開始~
□ 民族分裂分子は新疆“厳は壊れる”重要な目標です □
民族分裂分子は新疆の最も突出した暴力団で、危害の最も大きいもの罪を犯す団の群れです、同様に新疆“厳は壊れる”修理中の重要な目標です。
~馬鹿馬鹿しいので引用終了~

 「民族分裂分子」と言っても新疆は明らかに別な民族なんだから、新疆が独立しても民族分裂ではない。だが、彼らにとって人間はもう頭数にしか過ぎないので、自分たちが奇妙なことを言っていることにさえ気がつかないレベルに彼らはなっているのだろう。
 このように「細胞」であれ、「分子」であれ、人間の思想信条、人格、それどころか生命さえも真っ向から矮小化し否定するのには、大変便利な言葉である。ついでに科学的な雰囲気を醸し出し、言葉の適用限界を超えている点で非論理的なのに論理的な雰囲気を作り上げるのだから、ふざけるのもいい加減にしろと言うべきである。人間という存在をこのような他の言葉に置き換える人が現れたら充分に警戒することをお勧めする。
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