一人人海戦術

世界の3%くらいの人に納得してもらえばいいかなと考える、オメガ・ブロガーを目指してみようか。

祈りというより呪いか? その2

2006-08-28 21:49:57 | 宗教と思想
 日本の民間人に対して核攻撃を2度も行ったことで悪名高いアメリカのプロテスタントによる祈りの効果は、どうやら心臓のバイパス手術には役にはたたないという壮大な研究結果が発表されたという記事を以前ご紹介した。プロテスタント以外の信仰を持つ全ての方々にはさぞや明るい話題だと思ったのだが、不思議なことに日本の仏教徒のtenjin95様とカトリックの信者のjyakuzuregawa様からご批判と思われるコメントをいただいた。せっかくだから、疑問をぶつけられた点に関して項目に分けて整理してきちんと回答しようと考えた。私のブログ更新間隔では、下手をするとこの話題だけで今年は持つのではないかというくらいややこしい話題である。言うまでも無く引用の中身以外は私の勝手な個人的な見解であり、おかしなことを言っても全て私の責任であることを断っておく(その必要があるのなら)。ちなみに、過去の偉人の見解を誰かが引っ張ってきても、引っ張る者の個人的な見解で歪められた過去の偉人の個人的な見解に過ぎないと思う。
 悲しいことに私の所属する大学では、この、ややマニアックな雑誌とは契約を結んでいないので論文本体を確認することが出来ない。要約文から得られた知識しかヒントが無いのが残念だ。心臓外科関係でここを見ている方がいることは期待できないほど私のブログは零細なので、ahoshidai様にでも応援を要請するべきだろうか。忙しいと言われるだけだろうな。


それでも実験の背景を推理してみよう。

どういう環境で実験を行なったのか?
 主に実験が行なわれたメイヨークリニックとは、日本では考えられないとんでもない規模の超超巨大病院である。メイヨーと聞くと中国語の没有(m e i y o u、ないという意味)を思い浮かべてしまいたくなるほど、こんな化け物があるのか信じられない規模である。そこを訪ねた沖縄の医師のレポートをご紹介する。

~引用開始~

メイヨークリニックはミネソタ、フロリダ、アリゾナの各州にあって、一般臨床、臨床研究、研修医・学生の教育などにおいては世界有数の病院である。

 私が見学したロチェエスターメイヨー(ミネソタ州)のキャンパスには、外来・管理部門を中心としたビル、入院・手術のための二つの病院、図書・資料関係のビルなどが四十八棟もあって、職員数一万六千人、入院ベット数二千床、一日の外来患者数五千人、手術室数八十六室、年間手術件数四万四千件、CT(コンピュータ断層撮影)機器十台など、規模の大きさにびっくりさせられた。

 メイヨークリニックにはいくつかの特徴がある。
 ①科学の粋を集めた技術があらゆる面に、一般臨床においては高度医療機器がほとんどの診療分野に導入されてい。また宇宙衛星利用してのテレビジョンカメラによる電送システムによって、三地区の施設が相互に診断、教育に関する情報を交換できるようになっている(手術や講義が三施設で同時に見学できる)

 ②社会の二ーズにこたえるべく、一般診療のみならず、研修医・学生の教育、検診事業、老人ホームなど、福祉の分野をも積極的に推進している。

 ③患者記録-現在、メイヨーには三百五十万人の患者の一千万回の来院記録と二千五百万人の診療結果が保存されているという(米国五十州、世界百五十カ国から受診した患者のデータが記録されている)。この膨大なデータは疫学の強力な武器となり、パーキンソン症、脳卒中、白血病など数多くの病気のり患率の決定に貢献してきたとのこと。

 ④医療界のあらゆる分野における権威あるスタッフがそろっていて、世界中の医療関係者が見学・研修に来ている。

 ⑤医療と福祉が町経済の中心となっていて、他地域からの人々の来所が多いために飛行場ができたというぐらいである。

~引用終了~

 もはや病院というより町である。これだけの規模を誇っているところだからこその今回の実験の力技が可能だったのだと改めて納得した。膨大な疫学データを集積した世界の一大基地の一つであり、もちろん付属の教会もある。患者の家族のための宿泊施設等が充実しているのもありがたい。

スポンサーは誰か?
 この研究は、宗教の進歩に貢献した人に送られ、宗教界のノーベル賞とも言われるらしい(この件でそういうものの存在を私は初めて知った)、テンプルトン賞でも知られるジョン・テンプルトン財団の支援で行なわれた。株屋さんがこんなことにお金を注ぎ込むということはよっぽど酷いことしてきたのかとも勘ぐりたくもなるが、お金の使い方としては悪くはないことだと思う。この研究は何が何でも宗教のプラスの効果を見つけ出したいというスポンサーの明確な意図で始められているのは明らかだ。しかしながら、データを捏造したくなる誘惑に打ち勝ち、計り知れないプレッシャーの中でプラスの効果なしという結論をはっきりと出した研究者たちは信心深さはともかく、その正直さは賞賛されるべきである。
 240万ドル(2億8千万円)が費やされたといっても実はそれほど巨額でもない。1800人の患者に対してなので、患者一人当たり1333ドルかかったことになる。患者一人に対して約70人の修道士が祈るので、患者一人に対して祈る修道士一人当たり19ドルもかかっていないことになる。さらに2週間祈るので、患者一人に対して祈る修道士一人当たりの日当は費用の全部が全部祈祷の代金であるわけが無いから1.36ドル(158円)より少ないはず。これはお安い。次から次へと祈ったり、給料は病院から別に貰っているのだろうが、基本的にはボランティアの精神で彼らは祈っていたのだろう。

どこで祈祷したのか?
 メイヨークリニック(ミネソタ州、ロチェスター)の付属礼拝堂の牧師長マレック(Dean Marek)も共同研究者として名を連ねていることから、病院に付属している礼拝堂で祈祷を行なったと推測される。病室で祈ったら、患者に自分が祈られていると悟られないのは無理だろう。また、70人も入れないだろう。

祈祷する側の宗派は何か?
 アメリカ合衆国で実験が行なわれているため、宗派はかなりの高確率でプロテスタントであろうが、メイヨークリニック(ミネソタ州、ロチェスター)の地図を見たところ、St. John’s Catholic Churchもあるため、カトリックの信者にも対応できた可能性も否定できない。ヒスパニック系の患者もいるだろうからありえなくも無い。

患者の宗派は何か?
 アメリカ合衆国で実験が行なわれているため、宗派はかなりの高確率でプロテスタントであろうが、心臓バイパス手術を受けられる程度のそこそこ富裕層の人間だとするとユダヤ教徒も混ざる可能性があるので、患者ひとりひとりがどのような宗教を信じているのか、恐らく調べただろう。異教徒に無理やりプロテスタントまたはカトリックの祈りを捧げたと後で分かったら、訴訟天国のアメリカなら裁判沙汰だろう。富裕層の患者ならなおのことだ。そのため、純粋にプロテスタントとカトリックのみに絞ったことが期待される。祈られていることを全く知らない患者になら異教徒を混ぜてもいいと思われるかもしれないが、最終的には必ずこれこれこういう実験に参加していただきましたと後から告げて侘びを入れるのが、この手の実験の礼儀というものなので、異教徒の患者は除外されたというのが一般的な見方ではなかろうか。

どういう祈祷を行なったのか?
 祈祷そのものの様式等については、恐らく心臓外科医のための雑誌なので本論文中に事細かに書いてあることは期待できない。牧師長マレックらを信頼する以外にはどうしようもない。しかし、病院の異常な規模から推察するところ、彼らは病院付属で勤務し、死を待つばかりの患者に(もしかすると毎日)直接向かい合って精神的苦痛を少しでも和らげるために尽力してきたことが期待されるので、祈祷がどんなものかよくは分からないが、正直いって日本で暮らす各宗教者から何らかのクレームが付けられる程度のような不手際等があったとは考えがたい。牧師長マレックが信心深さ等の患者側の原因に実験結果を結び付けようとしないところも自分たちの祈祷には自信があるからなのだろう。これは戯けた実験と侮辱されるものではなく、真剣な実験である。祈祷が有効であると示されたら、人類にとっても恐らくプロテスタントの牧師にとっても大きな福音であることは言うまでも無い。

どういう実験を組み立てるべきか?
 彼らは「祈祷なし」、「祈祷あり、祈祷を受けていることを知らない」、「祈祷あり、祈祷を受けていることを知る」の三グループに分けて実験を行なったが、普通はもう一つのグループを入れる。それは「祈祷なし、祈祷を受けていると吹き込まれる」のグループだ。これが「祈祷あり、祈祷を受けていることを知る」と有意な差が見られない場合、祈祷の効果無しと判定され、有意な差が見られたら場合、祈祷の効果あり(プラスかマイナスかはともかく)と判定される。これによって祈られていることを知った上での祈祷の効果を正しく評価できるはずだ。当初は予想していなかったはずの祈られていることを言葉で知ったマイナス面の中に、求めている効果が(特に人と人とのつながりという点で)隠されてしまった可能性を見逃したところは実験の不備があったといえる。修道士が70人もいれば、恐らく患者を騙すのは忍びないと誰かが反対したのだろう。普通はやるのだが全スタッフにこれを納得させるのは難しい。牧師長マレックが悔やんでいるのは恐らくこの点かもしれない。だとしたら牧師にしておくのはもったいないくらいだ。
 一般的に心理学系の実験をする場合、実験台の人には実験の正確な目的を説明することはない。嘘の説明をすることさえある(普通、実験が終わってから謝る)。それは実験台の人が良い結果を出そうとして身構えてしまうのを避けるためである。この場合は特に、患者が身構えてアドレナリンを分泌し始めたらマイナスの効果は顕著に現れるだろう。また、祈られていない患者と祈られていたが祈られていることを知らない患者を完璧に同じ条件にするのは実は結構難しい。以前二重盲検法の話をしたように、患者の周りのスタッフも誰が祈られていて、誰が祈られていないか全く知らないのがベストであるが、完全に全員何も知らないと実験が成り立たないので、なかなかそうは行かないものだ。祈られていたが祈られていることを知らなかった患者が、ほんのわずかでもスタッフの異変(祈祷を受けている患者を期待の眼差しで見てしまうとか)に無意識のレベルででも気がついてしまったら、患者のアドレナリンの分泌が増えて悪影響が現れるかもしれない。こういう悪影響は祈りの段取りが悪かったから起こるのではなくて、祈りの段取りを「する」から起こる現象である。本実験でも有意ではないが単に祈祷しただけで微妙に悪影響が起こっている。「祈りというより呪いか?」というタイトルをつけたのはそこからである。有意な差ではないので戯言である。
 そういった理由から、スタッフのチームワークは重要であり、実験にかかった3年間も秘密を守り通せる精神力と結束力が要求される。実験手法の厳密化にこだわるあまり不満を持ったスタッフから患者側へ情報が漏れて実験が瓦解するよりも、実験手法へのスタッフの意思統一の方が優先された可能性がある。普通、実験規模が大きいとデータの信頼性が増すものだが、大きすぎるのも考え物である。


結果について考えよう。

得られた結果
A)祈祷を受けていることを知らない、祈祷を受けたグループ
 合併症(不整脈)発生率52%(604人中315人)
B)祈祷を受けていることを知らない、祈祷を受けなかったグループ
 合併症発生率51%(597人中304人)
 Bに対するAの相対危険度1.02、95%信頼区間0.92-1.15

C)祈祷を受けていることを知っている、祈祷を受けたグループ
 合併症発生率59%(601人中352人)
 Aに対するCの相対危険度1.14、95%信頼区間1.02-1.28

主な容態と30日生存率は三グループでほとんど同じだった。

結果の見方
 Bに対するAの相対危険度の95%信頼区間(確率95%でこの数値を示すであろうという範囲)は0.92-1.15であり、何の影響も与えない、すなわち1を含んでいるのでBに対するAの危険は有意ではないと言える。一方、Aに対するCの相対危険度の95%信頼区間1.02-1.28は1を超えているため、確率95%でAに対してCは危険であると言える。
 もっとマニアックに数値を見ていくと、信頼区間から、患者の容態がきれいな正規分布になっていなかったことが分かる。Bに対するAなら相対危険度(1.02-0.10)~(1.02+0.13)、Aに対するCなら相対危険度(1.14-0.12)~(1.14+0.14)となっている。通常の正規分布ならば相対危険度1.02±0.11というふうに良い方にも悪い方にも同じ標準偏差が使えるはずである。四捨五入の結果そうなったかとも思ったが、小数点下二桁の差が1よりも大きいので四捨五入のせいではない。ここで言えることは悪い方へ患者の容態のばらつきが大きくなっていたということだ。しかし、Aに対するCの相対危険度の危険の少ない方への誤差(-0.12)もBに対するAの相対危険度の危険の少ない方への誤差(-0.10)よりも大きいので、祈祷を受けていることを知らされたときに良い効果を受けた人間も少しはいたのではないかとも思ったが、そのときの最小の相対危険度は1.02である。つまり祈祷を受けていることを知らないグループよりほんのわずか危険という程度でプラスの効果に転じた訳ではないのだ。ようするに祈祷を受けていると知ってもほとんど動じない人もいたという程度である。
 また、Bに対するAなら相対危険度は(Aの合併症発生率)/(Bの合併症発生率)に等しいが、Aに対するCの相対危険度は(Cの合併症発生率)/(Aの合併症発生率)=58.5/52.1=1.12に何故か等しくならない。これは初歩的ミスをしているのではなく、患者が合併症を起こした起こさなかったという数を見ているだけではなくて、患者の容態の指標があって悪くなる患者は結構悪くなったという要素も加味されているのだと考えられる。本論文を読まないと何ともいえない。
 B「祈祷なし」グループとA「祈祷あり、祈祷を受けていることを知らない」グループには有意な差が見られないことから、祈祷を受けていることを知らなければ祈祷の効果は無いというのが結論である。さらに、A「祈祷あり、祈祷を受けていることを知らない」グループと比べてC「祈祷あり、祈祷を受けていることを知る」グループに有意な悪影響が出たことから、祈祷を受けていることを知った場合は祈祷の効果かどうかは分からないが悪影響が出るというのも結論である。また先に述べたように、悪影響が出た患者にはいくらか大きく悪影響が出る者もいたというのも数値から予想される。

患者の信心深さの影響
 キリスト教の信仰を持っている方を傷つけまいとして私がおかしなことをことを言っていた。ごめんなさい。この実験では患者の信心深さは何の影響も与えていなかった。各患者グループには、わざと偏らせようとしない限り、全体の人数が多いので、ほぼ同じくらいの割合でいろいろな信心深さを持った患者が混ざっていたと考えられる。そのため、患者の信心深さの影響は本実験では相殺されると考えるべきだ。

載せきれなかったので次に続く
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