
平 清盛 公像
京都市下京区七条御所ノ内本町 若一神社
平清盛の足跡
保元の乱 2 開戦
天皇の皇位継承を巡る対立は、崇徳上皇を嫌う鳥羽上皇の四男にあたる雅仁親王が後白河天皇として即位し、院政の望みを絶たれた崇徳上皇と皇位継承問題で周囲と対立した藤原頼長が組む形となります。
1156年 保元元年7月2日、鳥羽上皇が54歳で崩御します。
鳥羽上皇は、崇徳の遺骸との対面を許さぬと遺言で言い残し、憤激した崇徳上皇は葬儀に欠席し、武力抗争の準備に入ります。
鳥羽上皇の死から3日後。
崇徳上皇が藤原頼長と国家転覆の謀(はかりごと)を巡らしているという風聞が京都市中に広まる中、
後白河天皇は、源 義朝らを使って藤原頼長の御殿を没収して先制します。
崇徳上皇方は、源氏の剛弓の武士 源 為朝、源 義朝の父、源 為義らを、平氏からは清盛の叔父、平 忠正らを引き入れ、戦いに備えます。
7月11日未明。
関白 藤原忠通により、崇徳上皇らの討伐命令が後白河天皇方の平清盛、源義朝らに下されます。
清盛は三百騎あまりを率いて二条大路から、一方の源義朝は二百騎あまりを率いて大炊御門大路から進軍して崇徳上皇らが白河殿を襲撃、殿舎に火をかける等をして優勢に戦いをすすめ、明け方には態勢が決しました。
この戦いで藤原頼長は流れ矢に当たり死亡、崇徳上皇は讃岐国に配流となり終束しました。
戦後、清盛は播磨守に任じられ、念願だった海外貿易の機会を得ることになります。
天皇家と藤原摂関家、二つの家の内部対立によ
り起こった保元の乱は、
平清盛ら、武士の力を世に示した戦乱でした。