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日本歴史紀行

歴史紀行 59 源 義経 元服池 鏡神社


源義経元服池碑

源義経元服池碑
滋賀県蒲生郡竜王町鏡




鏡神社
滋賀県蒲生郡竜王町鏡 鏡神社



承安(じょうあん)4年3月3日(1174年)、
鏡ノ宿で夜盗の襲撃を退けた遮那王は、その夜のうちに元服に臨みます。

鞍馬寺に預けられた稚児が行方知れずと京で騒ぎになり、平家の者が探索に明日にも現れるとの報を耳にしました。


遮那王は白木屋の近くで烏帽子屋の五郎大夫の店を訪ね、源氏の左折れの烏帽子を注文いたします。





源氏の左折とは、烏帽子の頂を左方に折り返して作る作法のことで、源氏は左折を用い、平家は右折のものを用いておりました。

しかし今は平家の世で、源氏の左折の烏帽子は御法度で五郎大夫もさすがに難儀を示します。

五郎太夫は渋り、躊躇(とまどい)ますが、若き稚児のたっての願いと、幼い人が用いるものなれば平家よりのお咎めもあるまいと、ようやく引き受けることとし、仕上げた左折り烏帽子を渡します。

烏帽子の代金に遮那王は、今は金子を持ち合わせぬ故、母より預かる由緒正しき宝刀であると烏帽子屋に与え、白木屋に戻ります。

烏帽子屋五郎大夫は、誠に見事な刀を賜ったと喜びますが、その妻は宝刀を見て涙を流しました。

その預かりし宝刀は、古年刀(こねんとう)で源氏重代の刀剣でした。

実は五郎大夫の妻は、野間の内海にて奸計により果てた源義朝の家臣、鎌田正清の妹 あこやの前でした(母は義朝の乳母として仕えた)。

平治の乱に敗れた義経の父 義朝は、平治元年の暮れ、鎌田正清と共に京から尾張は野間へ落ち延び、鎌田正清の娘の舅、長田父子の裏切りで殺害されました。

夫が受け取った刀は、義朝の愛妾、常盤御前の三番目に出生した牛若(義朝の九男)の護り刀(まもりがたな)として左馬頭(さまのかみ)となった源義朝)が授けたものでした。

あこやの前は、(武家にて男子出生すれば必ず守刀として刀を授ける習慣がありました)その使いを自分がしたのですから確かに見覚えがありました。

「源氏繁栄の世であらば、あの牛若が身をやつして流浪することもなきものを、何とおいたわしいことでしょうか。」と涙なから夫に打ち明けるのでした。

その事を聞いた烏帽子屋五郎太夫折は、驚嘆落涙し刀を妻、あこやの前に渡し、妻は喜び早速牛若の宿を訪ね、「この宝刀をぜひ御受納ありて、いつの日か心願成就を」と、護り刀を返し主従の名乗りを挙げるのでした。

遮那王も、なんとも不思議な縁があると喜びました。


あこやの前が帰った後、牛若は、鏡池の石清水を用いて前髪を落としました。

しかし烏帽子親も無く、(古来より二人の烏帽子親が必要)遮那王は考え、源氏の祖先は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、新羅明神(しらぎみょうじん)の前で元服をしたと聞くとし
、義経の四代前の八幡太郎義家は、京都の石清水八幡宮の神前で元服し、その弟の新羅三郎義光は、新羅大明神の神前で元服式をあげたと言われます。

ならば、遮那王もそれにならい鞍馬の毘沙門天と、氏神の八幡神を烏帽子親にしようと思い、太刀を毘沙門天、脇差を八幡神に見立て、自ら元服式を行います。




義経烏帽子掛松





義経元服池




その時牛若丸16歳、鳥帽子名を左馬頭義朝が九番目の子、源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)とし、天日槍(あめのひぼこ)新羅大明神を祀る鏡神社へ参拝し源氏の再興と武運長久を祈願したと伝えられています。


鏡神社鳥居

八幡神社


鏡神社本殿











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