丸根砦供養祭
大高城兵糧入れが成功し、守将の鵜殿長照がお役目を元康君に引き継がれ、義元殿は包囲している丸根砦の攻略を元康君にお命じになられた。
義元殿は戦勝を信じて疑わず、上機嫌で宴の後に就寝についた。
兵糧入れ成功を知らせに義元殿に送った使者が丸根砦の攻略を命じられて元康君の元へ辿り着いたのは丑の刻(うしの刻、午前2時)だった。
義元殿の命を使者から受けた元康君は休息もままならず戦支度にとりかかった。
不満を口にする老臣が出たが、元康君は訊く様子を見せずに鎧兜を身につける。
義元殿は先鋒の三河松平衆の働きを信じて疑わないが、口上の使者と共に陣中へ鉄砲を数十丁持たせて寄越した。
〜寺部へ誘い出した軍勢が丸根に戻るのは、どれ位かの。〜
〜急いだとしても一刻はかかりましょう。〜
元康君は、老臣の不満を聴き流しながら、先に誘い出していた敵がこれから攻め落とそうとしている丸根砦に戻るであろう時間を算段し、石川数正と打ち合わせた。
寅の刻(午前3時)になろうとする中、元康君は丸根砦を包囲した。
元康君に誘い出され、寺部城救援に出た砦の兵に背後を突かれる恐れがある戦いである。
元康君は、守兵は包囲に備えて守りを固めるだろうと見たが、勇敢にも討って出てきた。
織田勢の勢いに数名が討たれたが、元康君は一旦軍勢を引いてみせ、砦を下った所で押し返して討ちとっていた。
繰り返しているうちに討ち死にを覚悟した守将の佐久間盛重らが名乗りを上げ攻め込むも、精強な三河衆の槍と鉄砲の餌食となった。
結果、寺部城へ誘い出された兵らは戻らなかった。
同時に今川の臣、朝比奈秦朝が攻めた鷲津駅も落ちた。
元康君は黙礼して佐久間の首を義元殿に届けさせた。
佐久間の首が義元殿の陣中に届く頃
永禄三年 五月十九日の夜が明けていた。