
岡崎城
愛知県岡崎市康生町岡崎公園
作左衛門、人煎り大釜を砕き壊す
これは、先日、【家康のつぶやき】カテゴリーで触れた逸話ですが、今一度…。
天正十年三月十一日、三方ヶ原の戦いをはじめ、家康を大いに苦しめた甲斐武田氏が織田信長の軍勢、滝川一益の手勢により追い詰められ、甲斐の天目山で滅亡しました。
それまでの功績を重くとらえ、
織田信長により家康は駿河一国を与えられました。
かつて少年時代を人質として過ごした駿府を、今度は新領主となり民情の視察を兼ねて巡回していました。
すると、安倍川で巨大な鉄釜を見つけました。
それは、(人煎り大釜)と呼ばれる恐ろしげな甲斐の処刑用の道具で、釜に入れた人間を煎り殺すという残酷な手法で、武田領内となった駿河において、法を犯した者を甲斐国の様に処罰するというもので、武田信玄が駿河へ侵攻した際に、持ち込んだものでした。
武田信玄の置き土産とみた家康は、後で浜松へ送る様に奉行に命じて帰りました。
翌日、武田の人煎り大釜を奉行が多くの人夫を集めて運ぼうとしたために、多くの見物人が群がり、騒ぎになっていました。
そこへ、安倍川の騒ぎを耳にした侍が馬で駆けつけました。
隻眼、指の何本かは欠損、脚も少々不自由であるものの、剛毅で三河中の名のある侍が一目置く岡崎三奉行の一人、本多作左衛門重次でした。
その大釜を何処へ送るのか問う作左衛門に、奉行は〜殿の命により浜松へ送るところですと答えました。
作左衛門は、殿の命でも構わん、この場で大釜を砕けと奉行に命じます。
奉行も苦慮し、人夫たちも何もしようともせずにいるので、作左衛門は人夫の一人が手にしていた鉄槌を奪い取ると、力いっぱい振り下ろします。やがて人夫たちも加わって砕きにかかり、信玄の煎り大釜は粉々になってしまいました。
仕事を奪われた格好の奉行は家康に報告します。
家康は、わしの命をなんだと心得てるのだと激怒し、作左衛門を浜松城へ召し出す様に命じました。
居並ぶ家老たちも、鬼作左と聞こえた武辺者も、殿の逆鱗に触れたと思いました。
奉行は恐る恐る作左衛門から殿への口上を言い出します。
〜浜松へ帰り、大殿へ申せ。領内で大釜で煎り殺す罪人ができる様では、大殿が天下国家を治める事など、とても片腹痛し。そう嘆いて作左衛門が砕き壊したと〜
翌日になり、作左衛門が登城し、大広間に現れました。
作左衛門は悪びれず、押し黙ったまま。
家康は先に口を開きました。
〜わしが悪かった〜
〜作左衛門、その方が煎り大釜を砕き壊した折の顛末、わしへの口上、奉行から受けた。
わしの大変な思い違いであった。申す通り、
あのような物を用いる様では、天下国家の政道(まつりごと)など、とても出来ぬ。かたじけなく思うぞ…〜
家康は作左衛門を許すどころか、居並ぶ家老たちの前で謝罪して見せました。
主君といえど、政道が人の道に反れているとすれば、間髪入れず諫言、正すのが作左衛門でした。
大政所と鬼作左
天正14年(1586年)、
小牧長久手の戦いは、家康が局地戦で勝利したものの、協力してやってた織田信雄が豊臣秀吉と勝手に講和を結んでしまったため、家康は戦いの大義を失ったことから三河本国へ帰りました。
家康を臣従させたい秀吉は、官位の上昇や妹の朝日姫を家康に輿入れさせるといった策を用いるも家康は動かず。
秀吉はついに実母大政所を、家康に嫁いだ朝日
姫の病気見舞いという名目で三河岡崎へと送くり込みました。
これで家康もついに折れ、秀吉の待つ大坂へ発ちました。
大政所の滞在する岡崎城の屋敷の側に、薪が山のように積まれ、その後も次々と運ばれていることに、大政所を世話する女房衆たちが不審に思い、薪を積んでいる者に薪が積まれている理由を聞き出すと、〜上洛した家康に万一のことあらば、積み上げた薪に火をつけ、大政所も女房衆もろとも屋敷ごと焼き殺そうという作左衛門の策でした。
この本多様というのがまた、鬼作左と呼ばれる極めて気の短い方で、〜殿のお帰りが遅い、遅すぎる!〜と、今にも火を付けそうな方です。
と聞かされたものだから、女房衆も大政所も肝を冷やしたことでしょう。
大政所は秀吉へ書状を記し、〜本多作左衛門という男が企み、こう言う有り様となっております。
家康殿を一刻も早く帰国させてください〜と知らせ、その甲斐あり、程なく家康は帰国となり、大政所も帰京しました。
鬼作左、病床の家康に諫言
天正13年のこと、家康は廱(よう)という腫れ物ができました。患部が赤く膿を膿んで腫れて硬くなり、発熱と痛みを伴ない、みるみる重篤となってしまいました。
近習に蛤(はまぐり)の貝殻を使って膿を押し出させたものの、症状は悪化するばかりでした。
激痛と高熱のあまり意識が朦朧とし、家康自身もすっかり弱気となり、これまでだと思ったほどでした。
そこで作左衛門は、
〜某も以前同じ病にかかりましたが、長閑という明国の医者によってすっかり治りました。長閑を呼び寄せましょう。〜
と申すも、聞き入れない家康についに激怒し、
〜大殿はわしを見棄てなされるか、ならば、お暇を下さいませ。わしは相次ぐ合戦により、片目を射られ、指を落とされ、脚も不自由でござる。大殿に万一のことあらば、他家はこんなわし等を召し抱えなど致さぬでしょう。それに、
生き恥を晒してる三河の乞食武者〜本多作左衛門はあれよ!と指差されるのは何より恥辱、先に腹を斬り、冥土で大殿をお待ち申し上げる。〜と言って退出しようとする作左衛門を小姓に止めさせ、医者に診てもらうことを約束し、やがて治療の末に快復しました。
5に続きます。