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日本歴史紀行

北海道偉人史 9 黒田清隆



黒田清隆 像


北海道札幌市中央区大通公園 10丁目


札幌大通公園に立つ黒田清隆像です。


黒田は、函館戦争で官軍として幕府軍と戦ったことが北海道との関わりのはじめでした。


黒田が官軍指揮官として、旧幕府軍を包囲すると、敵将の榎本武揚が肌身離さず携帯してきた海律全書を、これからの日本に無くてはならない本であると、戦火で灰にするには忍びないと、指揮官の黒田に託されたことが、榎本との交流の始まりでした。


幕府軍を指揮して最後まで抵抗した榎本を処刑するべきとという声が上がる中、黒田は剃髪までして榎本の助命を嘆願し、認められました。


時代が明治になり、黒田は北海道の開拓を担う開拓使次官、後に開拓長官として、開拓事業を指揮しました。 アメリカの農務長官、ホーレス・ケプロンら、いわゆる御雇い外国人らを招聘して北海道の農、産業から土木、さらに生活環境に至るまであらゆる技術や知恵を取り入れて開拓に生かしました。


後に黒田は東京に戻り、北海道開拓の中心人物から、第2代内閣総理大臣となります。


函館戦争で戦った幕府軍の榎本武揚を助命するために丸刈りになって嘆願する等、義理人情に熱い一面をみせ、黒田が亡くなった際に、葬儀委員長を務めたのは、出身地の薩摩藩関係者ではなく、黒田に助命され、新政府の外務、逓信大臣の要職を歴任した榎本武揚でした。





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コメント一覧

aoikitakaze4390031
@kikokikonoriko19888888 こんにちは。
既に大勢は決した戦争において、総裁であった榎本武揚を生かすも殺すも黒田清隆の考え方ひとつであったと思います。
実際、降伏前に榎本は自害しようとして止められ、止めた従者が刀を取り上げる際に指を失うことになっています。
黒田清隆の性格によるところが大きいであろう榎本の助命ですが、明治政府の外務卿に就任した榎本は、紛争の火種であったロシアとの樺太千島交換条約を成立させるという国益を成しました。
kikokikonoriko19888888
巨視眼を持った男たちが、、時代や、産まれた場所や
所属団体や、イデオロギーの違う部署に配属されているとき;敵味方でも、、信条が一致している男同士である場合には、理屈を超えて命乞いをしても、惜しんでも余りある人材が戦争で死んでいったと思います。
自分んが一番大切で、、、鏡が大好きで、異性を意識して
眼の下の皺が気になる、、、女どもと、、言われた時代が

政治的に、、つくられた時代であると、、
思わざるを得ない出来事だと痛感しながら、
男尊女卑の時代に育った私は
女系家族の女性が、政治に進出してくる時、
黒田さんのように、、、
榎本さんの命を救うべく、、、
尼さんになれるかどうか??、、、考え込んでしまった記事ですね。

このような二人の子供の根性を育てる母になるべきかもしれませんね。
間接的に、、国を救うのが,
女性の役かもしれませんね。
女性には真似のできない、、命の嘆願の仕方ですね。
言葉がありません、、、。

二人の男同士の、、認め逢う、、、
解りあえることが、
立場を超えていますよね。

あほ、、丸出しの書き込みになりましたが、、、女性には
理解に苦しむ、、プロセスですね。参考になりました。
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