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五稜郭
本日、6月20日は土方歳三の命日です。
【 よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも
魂は東の君やまもらむ 】
この歌を遺した正確な時期は定かではありませんが、まるで箱館で散ることを予期する様な辞世の句を土方は遺しました。
戊辰戦争の終末戦である箱館戦争で、旧幕府軍幹部で戦死したのは土方歳三のみでした。
土方は最後の戦いに赴くにいたり、従者の市村鉄之助に遺髪と写真を託して送り出しました。
池田屋事件で新撰組は京都中にその武勇を広め、この時の活躍により、徳川の幕臣として召し抱えられることとなります。
ところが、時勢は徳川に味方することは無く、
薩摩、長州、それに幕府を亡きものにしようと企む一部の公家衆、坂本龍馬に代表される脱藩志士らの暗躍は徐々に、確実に倒幕へと進みました。
もはや、徳川幕府のみでの政権運営は不可能と悟った15代将軍 徳川慶喜は大政奉還を奏上して武家政権を朝廷に返上し、徳川家の生き残りを画策しますが、倒幕派あらゆる謀略をもって徳川を揺さぶり、ついに京都市中の南で武力行使に発展、鳥羽伏見の戦いが勃発します。
鳥羽・伏見の戦いでは、負傷した近藤勇に代わり土方が新撰組を率いて戦うも、偽の錦旗を翻した薩長軍に幕府軍は動揺し、これに寝返りの淀、津の藩が加わることにより形勢は一気に逆転して幕府軍は敗れました。
大政奉還・王政復古など、時代が大きく変化するなかで、幾多の戦いをへて、流山で新政府軍に出頭した近藤勇は板橋て処刑された後は、大鳥圭介率いる旧幕府軍と合流、江戸を脱出して、宇都宮、会津と転戦します。
さらに幕府海軍総裁の榎本武揚率いる旧幕府海軍に合流し、蝦夷地へ向かいます。
箱館の北西、鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は、五稜郭を占領して、松前、江差に進軍し、蝦夷共和国を樹立します。
新政府軍の反撃に備えて宮古湾海戦に参加するが、かろうじて生還します。
この新政府軍の鋼鉄の軍艦の奪取を狙った作戦といい、山中の二股口では徹底抗戦といい、まるで死地を模索する様な戦いを繰り返します。
ついに新政府軍の箱館総攻撃が始まり、土方は函館山に近くで孤立した弁天台場の兵士を助けるために出陣、1869年6月20日、明治2年5月11日、一本木関門で馬上で指揮していたが、その乱戦のなかで腹部を銃弾が貫いて戦死しました。
榎本、大鳥らが降伏し、身を新政府軍に委ねたのに対し、土方のみは幹部の中で最後まで新政府に対して武力で挑み倒れました。
土方の首と遺体は戦乱の中で行方知れず、従者が人知れず五稜郭の片隅に埋葬したともいわれますが、未だに解明されていません。
この年の秋には明治新政府により開拓使が設置され、蝦夷地も北海道と命名され、北海道開拓が始まりました。