小川城跡
静岡県焼津市西小川5丁目
1476年 文明8年、後継者争いが激化して家中を二分にした今川家。
先代 今川義忠の嫡子 竜王丸こそ、今川家を継ぐべきと考えた小川城の長谷川正宣は、対立する小鹿範満が縁者にあたる関東管領の扇谷上杉正憲の家宰、太田道灌を呼び寄せて威嚇、竜王丸と母 北川殿の身を案じ、小川城に匿います。
北川殿は、京で幕府に仕える父の下で働く伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)に窮状を訴えました。
盛時は、8代将軍 足利義政に、竜王丸を今川氏の次期当主として認める御内書を認めてもらいます。
足利一門に連なる今川家の内紛は、関東に封じた堀越公方の動きを駿河で留めておきたい幕府に役の無いことと認識した義政は御内書を盛時に託し、盛時は義政のお墨付きを携えて駿河に下向します。
駿河に到着した盛時は、数百騎の軍勢で威嚇し、太田道灌を背後に擁する小鹿範満と対面、将軍 足利義政 直筆の御内書を披露した上で、竜王丸の元服まで小鹿範満を当主代理とする妥協案を示します。
小鹿範満は盛時の案に同意し、今川家中を二分した後継者争いは一旦 収束しました。
竜王丸と北川殿は、引き続き母子を推す家臣により保護されることとなります。
長谷川正宣の長谷川家は、この地で法永長者(法永は正宣の出家名)として知られ、子孫は今川氏の没落後に徳川家に仕えます。
林叟院(りんそういん)
静岡県 焼津市坂本1400
東名高速道路 日本坂パーキングエリアからも望める焼津市の高草山。
いまでは、気軽にウォーキングできる山として利用者も多い高草山山麓に、今川氏の後継者争いで重要な役割りを果たした家臣 長谷川正宣が創建した林叟院があります。
林叟院は、当初は、この地の長者 長谷川正宣が自身の営む小川湊近く会下島(えげのしま)に1471年 文明3年に、遠州高尾山の曹洞宗 石雲院で、石雲七哲と称される名僧 繁哲(はんてつ)を招いて創建しました。
神仏に深く帰依する長者、長谷川正宣の寄進もあり、繁栄する林叟院ですが、1497年 明応6年、一人の異叟(異相)の修験僧が現れ、繁哲に~近く天変地異が起こる。と告げました。
繁哲は修験僧と移転に相応しい土地を探しますが、自然と高草山の山麓に足が向きました。
~この地こそ相応しい。私の言葉を信じるならば、寺をこの山麓に移しなさい。さすれば、護法の山神となって護りましょう。~と告げました。
そう修験僧が告げると、修験僧の姿は消え、杉の木の根元に石が残るのみでした。
境内の杉
山神血脈石の石碑
繁哲は出来事を長谷川正宣に相談しました。
正宣は、直ちに移転すべきと応じます。
修験僧の移転を示した場所は、正宣の実家一族~加納家が治めた坂本の地でした。
寺の伽藍はその年の内に整備され、正宣も繁哲もとりあえず安堵します。
翌年 明応7年 8月25日、東海道沖を震源とする大地震が発生します。明応大地震です。
震度に換算すると6強、地震のエネルギーを示すマグニチュードは8.6とされ、阪神淡路大震災に匹敵する大地震となりました。
この地震で関東から紀伊地方まで津波が襲来し、淡水湖だった浜名湖が太平洋と繋がり湖面域が拡大するという甚大な被害を及ぼしました。
津波により、会下島の林雙院跡地は跡形もなくなり、修験僧の予言が真実となりましたが、坂本に移転した林雙院は被害を免れました。
宝篋印塔
鐘楼
繁哲の教えを乞う僧が後をたたず、末寺を260に増やす名僧の林叟院は、かつて後継者争いの折り、長谷川正宣に保護された今川家当主の氏親も歴代当主で唯一曹洞宗に帰依するなど隆盛を見せ、
寺の行く末を安堵した繁哲は弟子が建立した静居寺
に移り、1513年 永正9年に静かにその生涯を閉じました。齢75歳でありました。
長谷川正宣(法永長者)の墓 右側 左側は正室墓
長谷川正宣は1516年 永正13年に 87年という長寿を全うし、長年 寄進を惜しまなかった林叟院で眠ります。
長谷川家は孫の代に今川氏の没落を契機に徳川家康に仕え、三方原の戦いで縁者を多く失うも、家康 最大の負け戦を支えた譜代家臣として扱われ、江戸時代は旗本として続き、10代将軍 徳川家治の時代、長谷川家を継いだ平蔵宣以(へいぞうのぶため)は火付盗賊改方の役で活躍、時代劇~鬼平犯科帖~のモデルとなりました。