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日本歴史紀行

名城紀行 14 丸子(まりこ)城



丸子(まりこ)城跡

静岡市駿河区 丸子

1476年 文明8年、横地、勝間田 両氏を討ち破り、東遠州地方を征した今川義忠。

しかし、凱旋の帰路、横地、勝間田の残党に襲撃され、還らぬ人となりました。

突然の当主の死に、今川家中は幼少の嫡子、竜王丸を推す家臣と、一門の重鎮である当主の叔父、小鹿範満を推す家臣との後継者争いが勃発しました。


嫡子 竜王丸と母、北川殿は、家臣 長谷川正宣の小川城で保護され、兄(弟)の伊勢新九郎盛時(北条早雲)に事態の仲介を依頼します。


盛時は小鹿範満と会談して和解案を提示、竜王丸が元服するまでの間、当主代理として範満が今川の家政を取り仕切ることで合意します。


この結果、小鹿範満は今川家当主の居館、駿府館に入り、竜王丸と母、北川殿は盛時と長谷川正宣の計らいで平城である小川城から、山城の丸子城に移ります。


万一、範満が軍勢を差し向けても、山城で防御力のある丸子城にあれば安全との配慮でした。


嫡子、竜王丸を推す家臣、斎藤安元の守る丸子城は、標高 136 メートルの三角山(みかどやま)に築かれ、堀切、土塁、空堀をめぐらせた山城です。



堀切





土塁











本丸 三角山山頂


1487年 長享元年 、竜王丸が成人となり、元服を過ぎ、今川氏親を名乗るも、駿府館の小鹿範満は一向に当主代理の座に留まり続けることから、母、北川殿は、京で幕府 申次衆の職にある盛時に再度、助けを求めました。


盛時は備前の旧領を整理して再び駿河へ下向し、氏親を補佐すると共に石脇城に入って同志を集めます。

手筈を整えた盛時は11月9日、軍勢を起こして駿府館を襲撃して範満と弟の小鹿孫五郎を討ち取りました。


氏親は今川家当主の座に正式に座り、盛時はこの功績により、興国寺城と周辺の11郡を与えられました。





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