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阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

神のみこころを理解するために

2019-03-26 20:03:04 | Weblog

2019.3.24、神のみこころを理解するために(その1)

聖書 コロサイ1:9~12

題  神のみこころを理解するために(その1)

暗唱聖句 ヨハネ3:3

「 イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」

 

はじめに

 祈りが聞かれる祈りになるためには、神のみこころと一致したものでなければなりません。それには2つのことを知ることです。パウロはその2つのことをよく知っていました。パウロは、神のみこころを理解することの重要性をよく知っていました。また、自分が世において行っていることを理解することの重要性とを知っていました。パウロはコロサイの教会のクリスチャンたちのことを聞いて、彼らをほめています。なぜなら、彼らの内には福音の良い実が結ばれていたからです。パウロは彼らの中にある愛に目を止めていました。コロサイのクリスチャンのことを聞いた日から、彼らのためにパウロは良い実を結ぶように祈っていたのでした。

 

1.献身的な意志

(コロサイ1:9~12)「1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

 1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

 1:11 また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、 1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」

 

愛は意志の活動です。イエス様も言われました。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」(ヨハネ14:21)イエス様を愛する人は、イエス様が言われた戒めを守ります。行いのない信仰は死んだ信仰です。行いのない愛も同じで、その愛は死んでいます。愛がないのと同じです。聖霊にある愛は自分の意志を捧げ切った献身です。神に対する愛を示すためには自分のことをすべて捨てて、神にゆだねるその信仰が必要です。知識は不要です。何もわからなくてよいので、すべてを捧げることです。

神には神の方法と順序があります。志す、知る、行うの3つです。「誰でも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものかどうか・・・・がわかります。(ヨハネ7:17)」

私たちは神に自分を明け渡す前に、まず、それは何か知りたいと思います。しかし、神は、まずあなた方の中に思いを与えてくださいます。(ピリピ2:13)「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」従う志があれば、何が来ようと問題ではありません。

神が非常に求めておられる宝は、献身的な意志を持った人物です。ダビデはそのような人物でした。

 

2.ダビデの選び(Ⅰサムエル16章)

イスラエルの一代目の王はサウルでした。しかし、彼は神の命令に忠実ではありませんでした。主はサウルをイスラエルの王にしたことを悔やまれました。預言者サムエルも同じでした。預言者サムエルは、新しい王に油を注ぐようにと神の命令を受けました。そして、ベツレヘムのエッサイの所に下ってきていました。

長男のエリアブが現れた時、サムエルは「この人だ。次の王に選ばれた人は。」と思いました。エリアブは背の高さや姿が良く、ハンサムだったからです。しかし、神は言われました。(Ⅰサムエル16:7)「しかし【主】はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。』」エッサイは7人の子たちをサムエルの前に進ませたが、主のみこころにはかないませんでした。サムエルはせっかくベツレヘムに来たのに、だれにも油を注ぐことができませんでした。彼らには主が選ぼうとしておられる大切なものが欠けていました。ところが、まだ若くて、兵士になるにはまだふさわしくないかのように見える少年のダビデが羊の野から呼ばれてサムエルの前にやってきました。即座に天からの強い声がありました。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」(Ⅰサムエル16:12)「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」(Ⅰサムエル16:13)

 

ダビデは他の兄弟と何が違ったのでしょうか。それは、神がダビデの心の中にあった何かを見られたのでした。ダビデはまだ少年で知識もありませんでした。しかし、彼は神を信じていました。そして、自分を造ってくださった神に自分のすべてをゆだねていたのです。パウロは、神の霊感を受けて、ダビデのことをこのように説明しています。

(使徒13:22)「それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』」

ダビデは主のみこころがわかり、それを実行することのできる人だったのです。

 

神ご自身が願っていることを妨げるものが一つだけあります。それは私たちの意志です。私たちが神のみこころを知りたいと願って求めるなら、神は惜しみなく与えてくださいます。

神のみこころを受け取れるようにしてくださいます。しかし、(1コリント2:14)「 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」

コロサイの人々は、御霊の内にある彼らの愛によって、神のみこころの啓示を可能なものにしていました。神のみこころについての知識は、人間の意志が御霊の愛の中で、すべてを明け渡す時に実現します。

パウロはこのようなことがコロサイの人々の上に現れるように祈っていたのです。

 

3.みこころをもっと知ることができるように。ニコデモの話

神のみこころは、実際的には「霊的な知恵と理解力によって(コロサイ1:9)」理解されます。この理解力は、神をもっと良くわかるようにしてくださる「知恵と啓示の御霊(エペソ1:17)」とだいたい同じものです。私たちが神のみこころについての知識で満たされるのは、ただ、霊の働きによるのです。

この霊の知識も積み重ねが必要です。知識というものは学ぶことから生まれてきます。すでに知っていることを土台にして、次のことを教えます。中学校の数学を学ぶには小学校の算数の知識が必要です。同じように、神に関する事柄も同じです。最初の土台のない人は、次のことはわかりません。聖霊によって生まれ変わりの体験していない人は、霊的な知識の土台がありません。そのような人には聖霊の言葉は意味がないのです。

神のみこころを知るための教師は聖霊です。そして聖霊が教えてくださる順序は、一般的な勉強の順序ととても良く似ています。違うのは取り扱う分野が違うだけです。聖書は霊の分野を扱っています。「御霊に教えられた言葉」であり、「御霊の言葉をもって御霊のことを解く」(Ⅰコリント2:13)ということだけです。ですから、霊的な面での経験が必要です。霊的な目のないところでは、物事を霊的に見ることはないからです。

 

イエス様はニコデモに言われました。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)ニコデモはこの時、まだ霊的な新生体験を経験していませんでした。ですから、霊的なことはわかりませんでした。ニコデモは律法の教師で、多くのことを知っていましたが、新生体験がなかったので、霊的なことは全く分からなかったのです。

コロサイのクリスチャンたちには、すでに土台が据えられていました。イエス・キリストを信じて、新しく生まれ変わった人たちの群れでした。霊的な面での歩みと知識がすでにそこにあったのです。そこに聖霊の満たしがあれば完全でした。パウロは「神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」と願っています。

 

4.私たちはどうしたら良いのか

 今日にある私たちも全く同じです。神のみこころは、私たちがご自身のみこころをよく知り、その知識で満たされることです。御心を知るための知識で満たされるためには、祈って、願わなければなりません。祈って初めて私たちは聖霊が教えてくださることを、受け取ることになります。

(コロサイ1:10)「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」

知識があれば、安全に歩むことができます。人生の歩みと知識には共通点があります。もし、この道のもっと先の方は道幅が狭くなって危ないとします。それが前もってわかっていたら、スピードを落として運転します。イエス様も、知り得た霊的な知識によって、その知識に応答する歩みをされました。

 

①    「神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」

②    主にかなった歩みをしますように。

私たちが神のみこころの知識に満たされるのは、クリスチャンとして、ふさわしい歩みをするためです。

キリストにふさわしく歩むということは、神を喜ばせることです。イエス様も神様のみこころを行われました。「わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです。(ヨハネ8:29)」

 

私たちに必要なことは、神のみこころを知ることを願って、祈ることです。そしてみこころがわかったら、そのみこころにかなった主に喜ばれる歩みをすることです。私たちは神に造られた良い作品ですから、神の栄光を表すために生きることができます。

まず、主に心を明け渡して、御心を知ることができるようにお祈りしましょう。自分の行いも主に点検していただきましょう。悔い改めに導かれたら、悔い改めましょう。誰でも、間違いを犯すことがあります。しかし、間違いに気が付いたら、すぐに、悔い改めて、方向転換をすることです。主の十字架の血潮を仰ぎ、主の赦しを受け取りましょう。聖霊の愛の中にある生活をしていたら、神は次のみこころを教えてくださいます。一歩一歩、主のみこころを理解して、成長していきましょう。


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