2015.3.29.いばらの冠
聖書 ヨハネ19:17~27
題 いばらの冠
暗唱聖句 1ヨハネ4:10
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
はじめに
先週はピラトの裁判を通して、私たち、人間の弱さを教えられました。しかし、その弱さを持っている人間のために、十字架の上で、とりなしの祈りをしてくださったイエス様の姿を通して、神の愛を見せていただきました。「主よ。彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないからです。」と祈られました。イエス様は私たちの罪と汚れの全てを担ってくださいました。その結果、私たちの罪は全部赦されて、神の国に入ることができるようになったのです。私たちに日本の国籍があるように、天国にも国籍を与えてくださいました。天国に国籍があると言うのはとても大切なことです。天国は本当にあるからです。今日は「イエス様の罪状書き」と「いばらの冠」と「命の冠」について、語ります。
1.イエスの罪状書き
イエス様はイスラエルの祭司長たちや律法学者、パリサイ人の指導者などによって、捕らえられ、ローマの総督であるピラトに引き渡され、裁判を受けました。ピラトはイエス様の中には罪はないとはっきり認めていました。そして釈放しようと努力しました。しかし、彼は、周りの群衆たちの興奮した姿を見て、恐れを抱きました。群衆は指導者たちに先導されて「バラバを赦せ、イエスを十字架につけろ」とさわぎたてたのです。その結果、強盗や殺人の罪で牢に入れられていたバラバが赦され、代わりにイエス様が十字架につけられることになりました。死刑囚には、罪状書きを書くのが当時の習慣でした。人々はその罪状書きを見て、「なるほど」と納得するのでした。
イエスの頭上には「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」という罪状書きがつけられました。ピラトは「さあ、あなたがたの王です。あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」と言って、イエス様を彼らに引き渡しました。彼らは、「カイザルのほかには王はいません。」と言いながら、イエスを受けとりました。そして、罪状書きを見てびっくりしました。なんと「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあったのです。ピラトにしてみたら、ユダヤ人たちへの皮肉(嫌味)でした。しかも、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語で書いてありました。これらの言葉は当時の全世界の共通語でした。ですから、全世界の人々がイエスの十字架の罪状書きを読んで理解したのです。(その季節には過ぎ越しの祭りのために全世界からエルサレムに集まってきていた。)ユダヤ人たちは、ピラトに言いました。「ユダヤ人の王と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と訴えました。しかし、ピラトは「わたしの書いたことは、そのままにしておけ。」と命令しました。これは、彼の支配力を示したものでした。ピラトは、もっともらしい罪状書きを作りました。表面上はローマに対する政治的反逆者に見えるように、ユダヤ人の王という罪状書きにしました。
しかし、彼は無意識のうちに、神の御計画、神のみこころを指示していたのです。彼は神の救いの永遠の計画の中で神の御心を実現する人間として用いられていました。イエス様は、神の国において、本当にユダヤ人の王であり、救い主だったのです。そのことを罪状書きを通して世界に知らせることになりました。
旧約聖書では、ペルシャの王キュロスが、バビロン帝国を滅ぼして、ユダヤ人たちをイスラエルに帰還させ、解放しました。これは歴史的事実です。クロス王は異邦人で、創造主を信じてはいませんでした。しかし、神の深い御旨の中で、用いられていたのです。
そのようにして、ピラトも神に用いられていたと言うことが言えるでしょう。この罪状書きは隠し絵のようなものです。隠し絵というのは一枚の絵の中に、良く見るともう一つの絵が隠されている絵のことです。イエスの罪状書きは、表向きは政治犯のような罪状書きですが、霊的には、事実、イエスはユダヤ人の王であり、救い主です。また、全世界の王であり、救い主です。十字架こそが救い主、イエス様の王であるしるしです。十字架こそがイエス様の栄光です。
2.いばらの冠
イエス様はユダヤ人の王、ナザレのイエスとしての罪状書きの中で、十字架の刑を受けられました。周りから、ののしられ、辱めを受け、痛めつけられ、黄金の冠の代わりにいばらの冠がかぶせられました。
ユダヤ地方にはいろいろないばらがあります。とげが10センチもあるような恐ろしい堅いとげもあります。また小さなとげがたくさんついているものもあります。その中に「キリストの木」と言われているいばらの木があります。これは結構背の高いこんもり茂った普通の木です。小さなとげがたくさんついていて、枝は柔らかく、いばらの冠も編みやすいいかなと思われる弾力性がありました。聖書植物園のガイドの説明によれば、古くから「キリストの木」と呼ばれていたそうです。ですから、これで、いばらの冠をあんで、イエス様の頭にのせたのではないかと説明してくださいました。
(マルコ15:16~18)
「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。15:17 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 15:18 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。15:19 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。 15:20 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。」
イエス様は頭にいばらの冠をかぶせられ、鞭打たれ、血を流し、ほとんど歩けないぐらい弱っておられました。そこで、通りがかりのクレネ人シモンという人に十字架を担がせたのです。
イエス様をののしったり、あざけったり、からかったりする兵士たちの行動は続きました。なんという意地悪な行為でしょうか。いじめです。イエス様はいじめに会って、殺されたのです。ですから、イエスはいじめられている人の心がわかります。
兵士たちは死刑囚の痛みには関心がありません。イエス様の下着をくじ引きしようといってくじ引きをしている姿、それはなんとも冷たい無関心な態度です。しかし、これも預言の成就でした。兵士たちは無意識の中で、神の御計画を実行していたのです。
この十字架に至る多くの拷問については語ることさえ、恐ろしいと思えることばかりです。
3.母マリヤ
そのような中で、イエス様の愛の深さ、思いやりを感じさせる温かい場面があります。それは母マリヤに対するイエス様の態度です。
(ヨハネ19:25~27)「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
イエス様を生んで育ててくれた産みの母のことを、イエス様は片時も忘れてはおられませんでした。イエス様には他に兄弟もたくさんいましたが、彼らはまだ救われていませんでした。ですから、イエス様は12弟子の中から、十字架まで従ってきた愛する弟子に母マリヤを託されました。愛する弟子とはヨハネのことです。どんなにほっとされたことでしょう。ヨハネはその日からマリヤを自分の家に引き取りました。
またここで、母マリヤについて少し触れます。十字架のそばに立ち続け、息子の事を見守っていた母マリヤの心はどうだったことでしょう。マリヤはイエスが「神の御一人子」だと知っていたこの世でただ一人でした。彼女は妊娠した時の事を思い出していたことでしょう。天使がきて、「マリヤ、男の子を生みます。」と言われた時、「どうしてそんなことがありましょう。まだ、男の人を知らないのに。」と言いました。すると天使が「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1:35)と言われたことなどを思い出していました。(ルカ2:34~35)
「 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。』」
イエス様の誕生には不思議なことがいっぱいでした。これらのことを思いながら、イエス様の十字架のそばに立っておられたのです。この時、マリヤの心は剣でぶち抜かれ、彼女もまた、心で血を流していました。十字架の刑を共に味わっていたのです。そしてただひたすら、信仰を持って、祈っていました。早く神の使命を終えて、天に御国に帰れるようにと願ったことでしょう。マリヤの胸の痛みを想う時、わたしの心も痛みます。マリヤは祈りながら、この時を待ち、備えていたことと思います。しかし、その時が来たとき、それはあまりにも激しく辛いものでした。
イエス様はこの十字架に先だって、このようなことを話しておられました。
(ヨハネ16:20~22)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
16:21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
16:22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」復活のことを示しておられたのです。復活の喜びを味わうと、十字架の激しい苦しみは忘れてしまう、そしてその喜びは消えないし、誰も盗むことさえもできないのです。
4.いのちの冠
イエス様はいばらの冠をかぶせられ、あざさけられ、神に見捨てられ、息を引き取られました。母マリヤをヨハネに託した後、全てが完了したのです。(ヨハネ19:30)「 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」この「完了した」と言う意味は「神の対する人間の全ての罪の負債は私が払い終えました。」という意味です。この宣言のおかげで、私たちはいばらの冠ではなく、いのちの冠をいただくことができるようになりました。いばらの冠は罪ゆえに私たち人間の頭の上にかぶせられるものでした。しかし、イエス様がかぶってくださいました。それゆえ、もはや、私たちがいばらの冠をかぶることはありません。私たちにはいのちの冠が約束されているのです。永遠の命の冠、それは天国の恵みの冠です。希望の冠です。
(ヤコブ1:12)「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」