さーて。
ずいぶんさぼっちゃいましたよ。
7月12日の下書きが残っていたので、ここから手始めに順不同でお送りします。
7月12日の日記
上野動物園のベビーパンダが天に召された。
5年もの歳月、馬と生活を共にして、動物の命の強さも、はかなさも、肌で感じてきた私。
シンシンベビー死亡のニュースに、飼育員さんたちの全身全霊のケアを想像して涙腺が緩みそうになったものの、床に就くまでの3時間ほどの時間あっさり気持ちの整理をつけて、安眠すること7時間。
翌朝珍しくTVをつけると、羽鳥君がシンシンベビーが天に召されたことを淡々と伝えるニュース。
その現地映像の中で、なりふり構わず号泣する女の子に心が大きく揺さぶられてしまい、いい年こいてもらい泣きをしてしまった。
その女の子は、せいぜい4~5歳。
お姉ちゃんがレポータのインタビューに応える隣で、カメラも姉のコメントもそっちのけでワンワン泣いている。
死を、それも見たことも触ったこともない赤ちゃんパンダの死を、理解するには幼すぎる。
その涙が、何を投影したものなのかを想像してしまって、その喪失感にシンクロしてしまったのである。
その年頃の子供が「死」に持ちうる概念は、2つしかない。
一つはペットの死の経験。
そしてもう一つは、肉親の死への理由のない恐怖。
映像に移るご両親は30代そこそこ、全然死にそうにないのだけれど
「もしいなくなってしまったらどうしよう。」という想像だけで、怖くて居ても立っても居られない。
子供は、そういうわけのわからん想像をしてしまうもの。
こんな私も子供のころ、母親がいなくなってしまう夢を見たり、当時病気がちだった父が病院のどこを探しても見つからない夢を見たりするたびに、泣いて目が覚め、こっそり両親の寝室まで行って生存を確かめた。タイミング悪く見つかってしまい、とてつもなく不謹慎な夢のような気がして口にすることができず、しどろもどろしたことも。
最近同級生のお父様がなくなったニュースを聞き、もう「理由のない恐怖」ではなく、現実として心の準備を始めなくてはならない年齢になっていることを感じるものの、どうしても受け入れられない。
あと100年ぐらい、元気で生きていてほしい。