クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

全4楽章としてのブルックナー 交響曲第9番 ニ短調(2)

2015-05-21 09:44:34 | ブルックナー
ブルックナーは9番を初めから全4楽章として構想し作曲していた。残された第4楽章は未完とはいえあの8番のフィナーレをも凌駕する驚くべき傑作である。ブルックナーが最後の交響曲に込めた思いを感じ取るには、是非とも第4楽章まで聴かなくてはいけない。ところが、別にデータをみたわけではないが、9番の演奏および録音は第3楽章でおしまい、という方が圧倒的に多いのが現状ではないだろうか?ラトル/BPOのようなメジャーどころが第4楽章を取り上げても、あまり流れは変わっていないように思える。これは非常に残念である。
このような状況なので、第4楽章の楽曲解説はWeb等で見かけたことがない。そこで、少しでも第4楽章を世に知らしめるため、アイヒホルン盤のジョン・A・フィリップス(いわゆるSMPC版の編集者の一人)による解説と内藤盤のキャラガンによる解説を自由に引用して紹介したい。(著作権上問題があるかもしれないが、そういう趣旨なので、お二人には大目にみてほしい。)

第4楽章は第1楽章と同様に変形されたソナタ形式。例によって第1主題再現が著しく拡張されていてぼやかされている。
冒頭は以下のように謎めいたティンパニのトレモロの上に旋律の断片がチラリチラリと出てくる。



この冒頭からして他のブルックナーの交響曲のどれにも似ておらず、斬新である。(最初に聴いたときはそれが災いして理解する気が失せたぐらいだ。)死が間近に迫る人生の終盤で、それまでとは全く違うものを生み出す創作力には畏敬の念を抱かざるをえない。
ここの響きはひんやりと薄暗い聖堂の空気を感じさせる。もちろん派手なバロックではなく、青っぽい石で作られた装飾の少ないゴシックの聖堂。ゴシック的な神への賛美として頂点を極めた5番の世界をもこのフィナーレは包含する意欲が感じられる。
やおらフォルテになり4音からなる動機が出てくる。この4音はいわゆる十字架音形ではないだろうか?暗い聖堂に突然光が差しこみ、十字架がギラリと光る光景を思わず連想してしまう。無論、ブルックナーはそんなチャチな情景を描写しているのではないが。
これが発展していき「あたかもヘラクレスを思わせるような巨大な嵩を持った主要主題」がニ短調で出る。



ベートーヴェンの第9第1楽章を源流とする下降音形はブルックナーのいくつもの曲で登場するが、本主題が最も巨大。最初の音が限界まで引き伸ばされていること、途中で上がったりせず降りるだけ、さらにそれが全く同じ形で音高を上げながら繰り返されること、で巨大さが生み出されているのだろう。
これが静まると第2主題がホ短調で出てくる。



ここは第1楽章から一貫して流れている9番独特の雰囲気を感じる。彼岸の響きとでも呼ぶべきか、この世ならぬ気配である。
非常に美しいのに何とも荒涼としていて、ひとかけらの甘さもない。

この主題に次の優美な対旋律が付いて、ちょっと雰囲気が和らぐ。



冒頭動機が転回形で現われ徐々にクレッシェンドし緊迫感が高まる。ついに頂点で、38小節に及ぶホ長調の壮大なコラールが弦の3連符を伴って全金管により奏される。



これは「たぶんブルックナーが書いたもののなかで最も印象的なコラール」である。

このあと展開部に入る直前に次の印象的な4音動機がフルートで出てくる。



これこそ《テ・デウム》動機であるが、最初にインバルでこの曲を聴いたときは《テ・デウム》を知らなかったのでわからなかった。こういうところが、聴く耳を持っていないとダメなところで、ブルックナーは聴く人が《テ・デウム》を知っているという前提でこの動機をここで出してきていると思う。この4音で《テ・デウム》の音楽世界全体が第9に入ってくる。和歌の本歌取りみたいなもので、聴こえてくる音楽が聴こえていない部分まで含み多層化するのである。

ここから展開部となるのであるが、展開部は大きなクライマックスを築くことはなく、わりとあっさりとしている。フーガで始まる再現部が強烈なので、再現部までの移行部分のような印象も受けるが、もしかしら展開部にある2つのボーゲン(1つのボーゲンが4ページ分で1ページ4小節となっているから16小節分となる)の欠落によるのかもしれない。欠落部分は前後の関係から推定して補っているのであろうが、あくまで復元作業なので、意表を突くような展開は作曲者本人しかできないのは致し方ない。

「軋むようなトランペットのファンファーレ」に続き、曲は再現部になる。まず第1主題が豪壮な3声のフーガで登場。再現というにはあまりに雰囲気が提示部とは異なるので新たな展開が始まったとも感じるが、再現部ということである。
次に、長いオスティナート・パッセージにのり音楽の緊張が高まっていく。このあたりの推進力、たたみかける力強さにはいつ聴いてもア然とさせられる。高齢と病による衰えなぞ微塵も感じさせない。
《テ・デウム》第3曲Aeterna facや第6交響曲フィナーレを引用(実は解説を読まないとわからなかった)しながら緊張が高まり、遂にホルンが導入する次の新しい主題で頂点に達する。



ホルンの響きが虚空に消え去った後の何とも言えない静寂。たしか、アーノンクール盤の解説で、あまりの音楽の大胆さにここでホルン奏者が”信じられない”と呟いた、とあったと記憶するが、9盤は実に先鋭的な音楽である。先鋭的という点では4盤や8盤の初稿と同じ路線であるが、一分のスキも感じさせない。音楽が揺るぎなく進行し、どこに行くのかわからなくなるようなところがない。長い音楽人生でブルックナーははるかな高みに到達した。

この静寂ののち、第2主題群の再現が静かに始まる。
再現は提示部よりも拡張され、より神秘的である。単旋律聖歌風の不思議な感じのする主題も登場する。



この主題は第3交響曲第1楽章に遡るということである。第3主題のこのあたりであろうか?



実は第9を聴いているときは第3は全然連想しなかったのだが、第3を頭で鳴らしているときに”あ、このフレーズどこかで聴いたことある”と思いついて、よくよく考えたら第9のこの部分だった。
ブルックナーは第9に取り掛かるまえに第3を改訂していたから、同じハ短調ということもあり、自作からいろいろインスピレーションを得たに違いない。
特に第3の第1楽章は茫洋とした広がりが第9を予告しているように思える。

この後また音楽が高まって、あの壮大なコラール主題が《テ・デウム》動機を伴って再現される。ここに至って、いよいよもろもろの要素が融合される最後の頂点が近づいてきた、と感じさせる。

再現部の後半からは通しのスコアが残っていないらしく、SMPC版とキャラガン版とでは著しく異なる。ここではSMPC版について記述する。
第1主題のフーガによる再現部分で初めて登場したホルン主題が再び現れる。この主題と第1楽章の第1主題は動機的に類似している。そこで、このホルン主題の後に、ブルックナーは8番のフィナーレ同様第1楽章の主題を再帰させようとしていた、とフィリップス氏は推察している。この主題再帰の後、全休止。いよいよコーダとなる。

コーダは以下のように始まる。これは、ブルックナーがかなり筆を進めたある草稿に残されていたもの、ということである。



Max Auerのブルックナー伝によると、9番のフィナーレではこの交響曲の諸主題が「8番のフィナーレと同様、積み重ねられていた」ということである。積み重ねられた主題とは、第1楽章第1主題、第4楽章フーか主題、コラール主題、《テ・デウム》5度主題、である。SMPC版では第1楽章主要主題、第2楽章スケルツォ主題、第3楽章主要主題、第4楽章フーガ主題に《テ・デウム》動機の変形も重ねられる。



このように4つの主題が重ねられ、「最後の審判」を思わせる激烈なクライマックスに到達する。この大混乱を《テ・デウム》動機と組み合わされたコラールが収束し、このまま平和への道が期待されるが、またも断末魔が訪れる。
この後が最後の最後の終結部となる。

医者のリヒャルト・ヘラーの回想によると、ブルックナーは終結部について「第2楽章の…アレルヤをフィナーレに力強く持ってくるのだ。そうすればこの交響曲は、愛する神さまをほめたたえる賛歌で終わることになる」と語ったという。これは非常に貴重な証言である。が、この回想ではどの曲の第2楽章かは示されていないらしい。ブルックナーはピアノで弾いて聴かせた、ということだからどの曲かなぞ聴けばわかるので言わなかったのか、記録者が書き漏らしたのか。9番の事を語っているのだから、この曲の第2楽章ととるのが自然だが、あの地獄的なスケルツォにアレルヤを思わせるものはない。ワーグナー追悼の7番第2楽章にもない。そうすると、唯一該当しそうなのは8番の第2楽章トリオの以下の箇所となる。



この天国への階段を登るような上昇音形はまさに「愛する神さまをほめたたえる賛歌」にふさわしい。最後のトランペットの4音の動機も「アレルヤ!」と歌っているようである。



アイヒホルン盤やヴィルトナー盤では最後の断末魔の後いったん全休止。静寂の中から最弱音で《テ・デウム》動機が現れて浄化された終結部となり、これはこれで好きだった。
ラトル盤では圧縮されて全休止がなくなり、断末魔から手の平を返したように一気に賛歌の世界へ入る。この、サッと世界が切り替わるところは非常に印象的で、こっちに聴きなれると以前のは仰々しく感じる。

かくしてこの交響曲はまばゆい光と幸福感に包まれて終わる。この「愛する神さまをほめたたえる賛歌」こそブルックナーの最終結論ではないだろか。

(後記)「第2楽章のアレルヤ」について
ブルックナーが終結部について語った「第2楽章のアレルヤ」は9番第2楽章スケルツォ主題のここではないか(下図の赤枠)とのご指摘を複数の方からいただいた。

この上昇音型のF音を半音上げると、ニ長調のドミソドミソドになり、第7番冒頭主題に連なる「天国への階段」が出現する!
実に鋭い着眼で、その考えで第4楽章を復元したのがLetocart版。
こういった版を用いた演奏が増えていってほしい。

(2021/5/31追記)
東京ニューシティ管弦楽団が、来る8月21日シャルラー版第4楽章を演奏することを知った。
シャルラー版とはこれであろうか。

Symphony No. 9 in D Minor, WAB 143: IV. Finale. Misterioso, nicht schnell (Live)

Provided to YouTube by NAXOS of America

Symphony No. 9 in D Minor, WA...

youtube#video

 


ブルックナーが総譜化したとされる部分にもかなり音をつけ加えていて、SMPC版に慣れた耳には違和感を感じるが、何よりチャレンジ。
死により中断された瞬間まで心血を注いでいた音楽というだけで、感動的である。



8 コメント

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Unknown (アケルナル)
2017-08-10 22:31:37
はじめまして。
ブルックナー第9番のフィナーレを検索していて、ここにたどり着きました。この曲は絶対フィナーレまで演奏すべきという方が私以外にもいて嬉しい限りです。演奏を含めたベストは私もラトルと思いますが、版だけに関していうと、Letocart版が気に入っています。この補筆版ではヘラー氏の伝えるところの「アレルヤ」は9番のスケルツォから採用していますが、まるでブルックナー自身が作曲したように神秘的です。Amazon(ASIN:B003VJ59VM)でダウンロードできます。ただし、演奏(Nicolas Couton指揮)はいまいちなのですが・・・。(You Tubeでも聴けます)
なお、8番は私も初稿が好きで、ケント・ナガノの録音を愛聴しています。
コメントありがとうございます。 (Unknown)
2017-08-11 10:46:32
Letocart版の存在は初めて知りました。終結部を評伝の言葉どおり素直に9番の2楽章から持ってきたのは素晴らしいと思います。よくよく考えると、最後の最後で8番の世界に立ち返ってしまうのは間違っているかも。9番は8番を超克した彼岸の世界ですから。
Unknown (さすらい人)
2018-07-09 14:57:57
必要あって9番の勉強をしていたところ、こちらにたどり着きました。
この交響曲は3楽章まででも完結しうるという意見に少なからず違和感があったこと、探求心のある指揮者が録音や実演で試みたフラグメントあるいは補筆版の演奏を聴くたびにフィナーレを聴かずしてこの交響曲は語れないという確信に至りました。同じ考えの方がいらっしゃることに心強く思った次第です。
ご賛同ありがとうございます。 (Unknown)
2018-07-10 10:42:48
第9の演奏は全4楽章で、が当たり前になってほしいです。
第2楽章のアレルヤ (きいろいとり)
2019-01-14 12:19:41
はじめまして。
ラトルのSMPC2012版にすっかり魅了されてしまったものです。
ところで、最後のアレルヤですが、9番第2楽章スケルツオの主題の最後の部分の上昇音階をニ長調に転調すると、ドミソドミソドになるので、これが本当のアレルヤではないかと密かに考えています。SMPCのミソドレミもうまくまとまってはいますが、8番の第2楽章から引用というのにはやはり無理があると感じています。
Unknown (管理人)
2019-01-14 14:24:11
コメントありがとうございます。
アレルヤについては以前アケルナル氏からもコメントいただき、Letocart版がまさにご指摘の第2楽章の上昇音階を用いています。Letocart版を使った演奏も増えてほしいです。
Unknown (とわ)
2021-07-31 17:28:06
はじめまして
残念ながらなかなか全4楽章は難しいかと
なにより設計図がバラバラなりまたコ―ダがアレンジの各版で創造なのがいたい
その点同じ未完成でもマ―ラ―10は残された設計図がほぼありなによりアルマが認めたクック版がある
Unknown (ROYCE)
2021-08-01 07:18:40
第4楽章はブルックナーの草稿がかなり残っているし、復元をした研究者たちはブルックナーが晩年に作った曲で使われた作曲手法を参照していて、いい加減に補筆したわけではありません。どの版も傾聴に値すると思います。演奏できるかたちにまとめた彼らの長年の労苦を、マーラーの未完成作品の復元例を引き合いに出して誹謗する人がいるとは驚きました。

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