またまたまた金子建志「交響曲の名曲・1」関連ネタ。(この本一冊でいったい何本のブログ記事を書かせてもらっているだろう?しかし本書は絶版となって久しいらしく、私がいくらブログを書いても金子氏の印税収入にビタ一文貢献できそうにないのはたいへん残念である。)
今回はシューベルト交響曲第7番ホ長調D.729について。
え?シューベルトの7番は「未完成」D.759じゃないの?という向きもあろうが、このD.729こそ第7番である!
まず楽器編成。トロンボーン3本に加えてホルンも4本とシューベルトの交響曲中最大。
またホ長調という交響曲ではたいへん珍しい調を使っている。他にはあのブルックナーの第7番がホ長調。シューベルトとブルックナー、この二人が地下水道でつながっているのは間違いなく、両者の7番がともにホ長調というのはおさまりが良い。(ホ長調の交響曲は他にハイドンに一曲あるらしいが、何せ100何曲中の1曲ですから、重みが違う。)
そして何よりシューベルト自身が1300小節からなる総譜を書き、最後には堂々"Fine"と大書した。
何と、そんな曲があったのか!と思われるだろうが、私も金子さんの本で初めて知ったのである。
知られていないのはわけがあり、1300小節中900小節が一行書き、すなわち1つの楽器のパートしか書いていないからである。
こんな状態なのに"Fine"とか書いているのがシューベルトらしいが、シューベルトの頭の中では楽音が鳴り響き、確かに完成していたに違いない。
その心意気をかって、本曲を少しでも世間に知らしむべく第7番とするのはシューベルトを愛する者には当然の責務と考えるが、わざわざ番号を外した連中は何を考えているのか!
イカン、こんなことでエキサイトしてはいけない。とにかく、この曲は「大交響曲」への道としてD.708Aと同様たいへん重要だ。
まず曲の冒頭に驚かされる。木管の旋律の下で、あてもなくさすらう人の足音が弦のピチカートで聴こえる。それが突然のfで中断される。
”ああ、このfこそ最後のピアノソナタの雷鳴の源流に違いない”と思った。
序奏を通じて、さすらい人の歩みと中断が繰り返される。
こんな交響曲の出だしは聴いたことがない!
D.708A,D.729,D.759「未完成」,D.944「グレイト」の冒頭を並べると、似たようなのが一つもない。それぞれがすべての交響曲の中でもユニークと言えるもので、いかにシューベルトが工夫を凝らしていたか、またその創造力に驚かされる。
ところが喜多尾道冬「シューベルト」でこんな文章を見つけた。
‘序奏をどうするか迷いに迷い、D.708Aではそれを省いたものの、D.729ではふたたび復活させ、D.759では8小節でお茶を濁したかと思うと、D.936Aではまた省略するという風に、考えを二転三転させる”
ベートーヴェンだって序奏をつけたり外したりしているのに、なぜシューベルトだと「迷いに迷い」ということになるのか?
おまけに超名曲「未完成」D.759の非常に意味深い冒頭に対して「お茶を濁した」とは何事か!
おっと、またエキサイトしてしまった。シューベルト好きはこんなことでエキサイトしてはいけない。
シューベルトを心から愛していると思われる喜多尾氏ですらこんな風に書いてしまうところに、「シューベルト=夢想家のボヘミアン=天才的メロディメーカーだが構成力イマイチ」のような偏見がいかに根強いかを痛感する。
序奏以降も全楽章にわたってシューベルトらしい広々とした世界が展開する。補筆の試みとか演奏を通じてもっとこの曲が知られてほしい。
今回はシューベルト交響曲第7番ホ長調D.729について。
え?シューベルトの7番は「未完成」D.759じゃないの?という向きもあろうが、このD.729こそ第7番である!
まず楽器編成。トロンボーン3本に加えてホルンも4本とシューベルトの交響曲中最大。
またホ長調という交響曲ではたいへん珍しい調を使っている。他にはあのブルックナーの第7番がホ長調。シューベルトとブルックナー、この二人が地下水道でつながっているのは間違いなく、両者の7番がともにホ長調というのはおさまりが良い。(ホ長調の交響曲は他にハイドンに一曲あるらしいが、何せ100何曲中の1曲ですから、重みが違う。)
そして何よりシューベルト自身が1300小節からなる総譜を書き、最後には堂々"Fine"と大書した。
何と、そんな曲があったのか!と思われるだろうが、私も金子さんの本で初めて知ったのである。
知られていないのはわけがあり、1300小節中900小節が一行書き、すなわち1つの楽器のパートしか書いていないからである。
こんな状態なのに"Fine"とか書いているのがシューベルトらしいが、シューベルトの頭の中では楽音が鳴り響き、確かに完成していたに違いない。
その心意気をかって、本曲を少しでも世間に知らしむべく第7番とするのはシューベルトを愛する者には当然の責務と考えるが、わざわざ番号を外した連中は何を考えているのか!
イカン、こんなことでエキサイトしてはいけない。とにかく、この曲は「大交響曲」への道としてD.708Aと同様たいへん重要だ。
まず曲の冒頭に驚かされる。木管の旋律の下で、あてもなくさすらう人の足音が弦のピチカートで聴こえる。それが突然のfで中断される。
”ああ、このfこそ最後のピアノソナタの雷鳴の源流に違いない”と思った。
序奏を通じて、さすらい人の歩みと中断が繰り返される。
こんな交響曲の出だしは聴いたことがない!
D.708A,D.729,D.759「未完成」,D.944「グレイト」の冒頭を並べると、似たようなのが一つもない。それぞれがすべての交響曲の中でもユニークと言えるもので、いかにシューベルトが工夫を凝らしていたか、またその創造力に驚かされる。
ところが喜多尾道冬「シューベルト」でこんな文章を見つけた。
‘序奏をどうするか迷いに迷い、D.708Aではそれを省いたものの、D.729ではふたたび復活させ、D.759では8小節でお茶を濁したかと思うと、D.936Aではまた省略するという風に、考えを二転三転させる”
ベートーヴェンだって序奏をつけたり外したりしているのに、なぜシューベルトだと「迷いに迷い」ということになるのか?
おまけに超名曲「未完成」D.759の非常に意味深い冒頭に対して「お茶を濁した」とは何事か!
おっと、またエキサイトしてしまった。シューベルト好きはこんなことでエキサイトしてはいけない。
シューベルトを心から愛していると思われる喜多尾氏ですらこんな風に書いてしまうところに、「シューベルト=夢想家のボヘミアン=天才的メロディメーカーだが構成力イマイチ」のような偏見がいかに根強いかを痛感する。
序奏以降も全楽章にわたってシューベルトらしい広々とした世界が展開する。補筆の試みとか演奏を通じてもっとこの曲が知られてほしい。
そして、初めまして。
ミーゼスと申します。
たいへん興味深く記事を読ませていただきました。私もシューベルトは大好きな作曲家でして、特にフルトヴェングラーのグレートには度肝を抜かれたことを思い出します。
ブルックナー8番の初稿の記事も拝読して、ようやく初稿の意味が解けそうな気がしてきました。
本年もご活躍を期待しております。