過去3回の記事では、ブルックナーの8番、4番、3番の初稿の評価を少しでも上げるべく努力した。(そもそも私の好きな8番初稿の評判があまりにパッとしないので、義憤を感じたのが本ブログを始めたキッカケでした。)
今回は9番。9番で言いたいことは、9番は絶対に全4楽章で演奏すべし、ということである。
仮にベートーヴェンの第9の第4楽章が未完だったらどうだろう?第1~3楽章だけでも、8番までの交響曲と比べ圧倒的な規模で傑作とされていたに違いない。しかし、第3楽章で演奏が終わったらたぶん全く物足りず、半分くらいしか聴いた気にならないであろう。それは、あの第4楽章を知っているからである。
今や私はブルックナー9番の第4楽章に目覚めてしまった。だから第3楽章で終わってしまうのは全くナンセンスである。まして、休憩後にテ・デウムを演奏する、なんていうのは馬鹿げている。仮にブルックナーが本当にそう洩らしていたとしても。テ・デウムと9番では音楽の世界が全く異なる。そんなマヌケなことをするくらいなら、なぜ第4楽章を演奏しないのか?
もっとも、かく言う私もそんな風に思うようになったのは6,7年前からで、それまでは第4楽章を完全に無視していた。第4楽章を初めて聴いたのはたぶん20年ぐらい前、インバル指揮フランクフルト放送交響楽団のCDである。なぜか5番とカップリングされていて、そこからして継子扱いされている雰囲気だった。全4楽章としての第9を演奏するのではなく、単に資料的価値から録音しました、というノリである。平野昭氏の解説にも「コーダから終結部にもうひとつのクライマックスをブルックナーが残していてくれたらという物足りなさ」とのコメントがあり、イマイチ感が漂う。実際に聴いてみると、8番フィナーレのような押しの強い音楽を期待していたら、出だしから何となく儚げ。全く非ブルックナー的な音響に聴こえた。その後もどことなく音楽が所在なげで、こちらの耳ができていないせいもあり形式的なところがさっぱりわからない。(こういうところがクラシックのクラシックたる所以で、2,3分の曲ならまだしも20分も続く曲だと形式面を認知しないと音楽として理解できなくなる。)ブルックナーがどこまで書き上げていたのかも全く知らず、”これはダメだ。きっとバラバラのスケッチを何とか学者がつなげ合わせた代物だろう”と勝手に判断して、一回聴いただけでオクラ入りしてしまった。
そんな状況が打破されたのは、偶然にもアーノンクールのCDを聴いたときである。このCDは第4楽章についてブルックナーが書き残した部分のみの演奏とアーノンクールの解説(ドイツ語と英語)を収録する、という面白いもので、アーノンクールが何を語っているかに興味をそそられたのである。衝撃だった。ブルックナーが書き残したものはバラバラの断片などではなく、連続して演奏できるだけのボリュームがあり、その部分だけでも圧倒的迫力だった。インバル盤で所在なげなところは案の定欠落箇所で、アーノンクールの演奏した部分はブルックナーらしい確信に満ち満ちており、まったく揺るぎが感じられない。欠落箇所もブルックナーは何らかの形で書いていたのに死後散逸したと考えられ、「あと数箇月ブルックナーの余命があれば間違いなく完成していただろう」というアーノンクールの言葉は説得力がある。インバルの演奏で非ブルックナー的に聴こえたのは、この曲が過去の作品をはるかに超えた斬新なものであるからだった。これを分からせてくれたアーノンクールには感謝せねばなるまい。
第9第4楽章こそブルックナーの全創作を締めくくる空前絶後の名曲、と確信したので、インバル以降の第4楽章付きCDを聴きあさる。以下は聴いたCDと使用した補筆完成版である。(録音年順)
1986年録音 インバル指揮フランクフルト放送交響楽団 サマーレ/マッツーカ版[1985] 改めて聴き直すと、この演奏でも十分第4楽章の凄さがわかる。やはり耳がないと聴こえない、ということだろう。平野昭氏の解説によると第4楽章は全707小節。内訳はブルックナーによるフルスコア180小節、一部オーケストレーション完成スコア260小節、ピアノ・スケッチだけ残された展開部のエピローグ34小節と再現部の終わり120小節、サマーレらによるコーダ113小節、ということである。
1988年録音 ロジェストヴェンスキー指揮ソ連文化省交響楽団 サマーレ/マッツーカ版[1986] 第4楽章だけ後から録音している。ブルックナーの交響曲全稿を録音する、という商業的判断を度外視したソ連らしい企画のたまもの。キチンと比較していないが、第4楽章はインバル盤とほとんど同じ。
1992年録音 アイヒホルン指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団 サマーレ/マッツーカ/フィリップス/コールス版[1992] 堂々たる「全4楽章としての第9交響曲」(このブログ記事のタイトルはジョン・A・フィリップによる本CD解説からもらった)サマーレ/マッツーカ版と比べ、大幅に完成度が高まった。所在なげな部分が少なくなり、”愛する神さまをほめたたえる”コーダもすばらしい。この版の出現によって第9を全4楽章として演奏する条件は整ったと言える。
1998年録音 ヴィルトナー指揮ノイエ・フィルハーモニー・ヴェストファーレン サマーレ/マッツーカ/フィリップス/コールス改訂版[1996] 曲そのものはアイヒホルン盤と大きな違いはないが、演奏が引き締まったおかげで、さらに感動的。
2006年録音 内藤彰指揮東京ニューシティ管弦楽団 キャラガン版[2006] 本CDにはキャラガン氏自身による第4楽章の解説がある。欠落箇所をどのように補ったかの説明と、その場所がどこであるか演奏時間のタイミング(例えば7:31-7:57など)で明示されている。本CDのためだけに詳しい解説を書いたということになるから、キャラガン氏の誠実な人柄がうかがえる。アーノンクールのCDを聴いた後、最初に入手したのが本CDだったため、楽曲理解がかなり深まった。自分にとって初の全4楽章の第9ということで大いに感激して本CDを聴き込んだ後にアイヒホルン盤を聴いたときはサマーレらの版に異和感を感じた。ところが、アイヒホルンやヴィルトナーに慣れるとキャラガン版に異和感を感じるようになり馴れというのはそんなものかも。キャラガン版はサマーレらの版に比べ管楽器に対旋律を歌わせるなどの補筆が多い。またコーダは全く異なる。第2楽章トリオは珍しい第2稿(最終稿は第3稿で第2稿はこのCD以外で聴いたことがない)。
2012年録音 ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー交響楽団 サマーレ/マッツーカ/フィリップス/コールス改訂版[2012] 全体的にちょこちょこ変わっているが、一番大きいのはコーダ。ヴィルトナー盤までは一旦静まった後、テ・デウム音形が弱音で出てきて末尾に向け大きく盛り上がったが、ラトル盤では圧縮され断末魔的クライマックスから一気に”神さまをほめたたえる賛歌”につながっている。全653小節。内訳はブルックナーのオリジナルから復元440小節、スケッチや草稿から復元117小節、サマーレらによる復元96小節。ラトルによると、編集者が作曲しなければならなかったのはたったの28小節、ということである。ラトルの言葉 there is much more Bruckner here than there is Mozart in the Requiem.には全く賛成。世界的指揮者と完全に意見が一致するとは私もけっこうイケてるのかも、と変にうれしくなったりする。 現時点でのベスト。
上記で触れたアイヒホルン盤のCD解説「全4楽章としての第9交響曲」に第4楽章の楽曲解説がある。このCDを買わない限り目にすることができないのはあまりにもったいないので、次回記事ではこの内容を紹介させていただくつもり。
今回は9番。9番で言いたいことは、9番は絶対に全4楽章で演奏すべし、ということである。
仮にベートーヴェンの第9の第4楽章が未完だったらどうだろう?第1~3楽章だけでも、8番までの交響曲と比べ圧倒的な規模で傑作とされていたに違いない。しかし、第3楽章で演奏が終わったらたぶん全く物足りず、半分くらいしか聴いた気にならないであろう。それは、あの第4楽章を知っているからである。
今や私はブルックナー9番の第4楽章に目覚めてしまった。だから第3楽章で終わってしまうのは全くナンセンスである。まして、休憩後にテ・デウムを演奏する、なんていうのは馬鹿げている。仮にブルックナーが本当にそう洩らしていたとしても。テ・デウムと9番では音楽の世界が全く異なる。そんなマヌケなことをするくらいなら、なぜ第4楽章を演奏しないのか?
もっとも、かく言う私もそんな風に思うようになったのは6,7年前からで、それまでは第4楽章を完全に無視していた。第4楽章を初めて聴いたのはたぶん20年ぐらい前、インバル指揮フランクフルト放送交響楽団のCDである。なぜか5番とカップリングされていて、そこからして継子扱いされている雰囲気だった。全4楽章としての第9を演奏するのではなく、単に資料的価値から録音しました、というノリである。平野昭氏の解説にも「コーダから終結部にもうひとつのクライマックスをブルックナーが残していてくれたらという物足りなさ」とのコメントがあり、イマイチ感が漂う。実際に聴いてみると、8番フィナーレのような押しの強い音楽を期待していたら、出だしから何となく儚げ。全く非ブルックナー的な音響に聴こえた。その後もどことなく音楽が所在なげで、こちらの耳ができていないせいもあり形式的なところがさっぱりわからない。(こういうところがクラシックのクラシックたる所以で、2,3分の曲ならまだしも20分も続く曲だと形式面を認知しないと音楽として理解できなくなる。)ブルックナーがどこまで書き上げていたのかも全く知らず、”これはダメだ。きっとバラバラのスケッチを何とか学者がつなげ合わせた代物だろう”と勝手に判断して、一回聴いただけでオクラ入りしてしまった。
そんな状況が打破されたのは、偶然にもアーノンクールのCDを聴いたときである。このCDは第4楽章についてブルックナーが書き残した部分のみの演奏とアーノンクールの解説(ドイツ語と英語)を収録する、という面白いもので、アーノンクールが何を語っているかに興味をそそられたのである。衝撃だった。ブルックナーが書き残したものはバラバラの断片などではなく、連続して演奏できるだけのボリュームがあり、その部分だけでも圧倒的迫力だった。インバル盤で所在なげなところは案の定欠落箇所で、アーノンクールの演奏した部分はブルックナーらしい確信に満ち満ちており、まったく揺るぎが感じられない。欠落箇所もブルックナーは何らかの形で書いていたのに死後散逸したと考えられ、「あと数箇月ブルックナーの余命があれば間違いなく完成していただろう」というアーノンクールの言葉は説得力がある。インバルの演奏で非ブルックナー的に聴こえたのは、この曲が過去の作品をはるかに超えた斬新なものであるからだった。これを分からせてくれたアーノンクールには感謝せねばなるまい。
第9第4楽章こそブルックナーの全創作を締めくくる空前絶後の名曲、と確信したので、インバル以降の第4楽章付きCDを聴きあさる。以下は聴いたCDと使用した補筆完成版である。(録音年順)
1986年録音 インバル指揮フランクフルト放送交響楽団 サマーレ/マッツーカ版[1985] 改めて聴き直すと、この演奏でも十分第4楽章の凄さがわかる。やはり耳がないと聴こえない、ということだろう。平野昭氏の解説によると第4楽章は全707小節。内訳はブルックナーによるフルスコア180小節、一部オーケストレーション完成スコア260小節、ピアノ・スケッチだけ残された展開部のエピローグ34小節と再現部の終わり120小節、サマーレらによるコーダ113小節、ということである。
1988年録音 ロジェストヴェンスキー指揮ソ連文化省交響楽団 サマーレ/マッツーカ版[1986] 第4楽章だけ後から録音している。ブルックナーの交響曲全稿を録音する、という商業的判断を度外視したソ連らしい企画のたまもの。キチンと比較していないが、第4楽章はインバル盤とほとんど同じ。
1992年録音 アイヒホルン指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団 サマーレ/マッツーカ/フィリップス/コールス版[1992] 堂々たる「全4楽章としての第9交響曲」(このブログ記事のタイトルはジョン・A・フィリップによる本CD解説からもらった)サマーレ/マッツーカ版と比べ、大幅に完成度が高まった。所在なげな部分が少なくなり、”愛する神さまをほめたたえる”コーダもすばらしい。この版の出現によって第9を全4楽章として演奏する条件は整ったと言える。
1998年録音 ヴィルトナー指揮ノイエ・フィルハーモニー・ヴェストファーレン サマーレ/マッツーカ/フィリップス/コールス改訂版[1996] 曲そのものはアイヒホルン盤と大きな違いはないが、演奏が引き締まったおかげで、さらに感動的。
2006年録音 内藤彰指揮東京ニューシティ管弦楽団 キャラガン版[2006] 本CDにはキャラガン氏自身による第4楽章の解説がある。欠落箇所をどのように補ったかの説明と、その場所がどこであるか演奏時間のタイミング(例えば7:31-7:57など)で明示されている。本CDのためだけに詳しい解説を書いたということになるから、キャラガン氏の誠実な人柄がうかがえる。アーノンクールのCDを聴いた後、最初に入手したのが本CDだったため、楽曲理解がかなり深まった。自分にとって初の全4楽章の第9ということで大いに感激して本CDを聴き込んだ後にアイヒホルン盤を聴いたときはサマーレらの版に異和感を感じた。ところが、アイヒホルンやヴィルトナーに慣れるとキャラガン版に異和感を感じるようになり馴れというのはそんなものかも。キャラガン版はサマーレらの版に比べ管楽器に対旋律を歌わせるなどの補筆が多い。またコーダは全く異なる。第2楽章トリオは珍しい第2稿(最終稿は第3稿で第2稿はこのCD以外で聴いたことがない)。
2012年録音 ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー交響楽団 サマーレ/マッツーカ/フィリップス/コールス改訂版[2012] 全体的にちょこちょこ変わっているが、一番大きいのはコーダ。ヴィルトナー盤までは一旦静まった後、テ・デウム音形が弱音で出てきて末尾に向け大きく盛り上がったが、ラトル盤では圧縮され断末魔的クライマックスから一気に”神さまをほめたたえる賛歌”につながっている。全653小節。内訳はブルックナーのオリジナルから復元440小節、スケッチや草稿から復元117小節、サマーレらによる復元96小節。ラトルによると、編集者が作曲しなければならなかったのはたったの28小節、ということである。ラトルの言葉 there is much more Bruckner here than there is Mozart in the Requiem.には全く賛成。世界的指揮者と完全に意見が一致するとは私もけっこうイケてるのかも、と変にうれしくなったりする。 現時点でのベスト。
上記で触れたアイヒホルン盤のCD解説「全4楽章としての第9交響曲」に第4楽章の楽曲解説がある。このCDを買わない限り目にすることができないのはあまりにもったいないので、次回記事ではこの内容を紹介させていただくつもり。
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