グールドはモーツァルトに対して暴言を繰り返している。
「二流の作曲家」「短いほど良い」はては「死ぬのが遅すぎた」
その一方で、グールドはモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲を録音している。
これはどう見ても矛盾だ。本当に嫌いなら、演奏せずに無視していればよい。
実はグールドは本当はモーツァルトが好きなのに、へそ曲がりで何らかの理由であのような発言をしているのでは?、と私は勘ぐっていたのだが、モンサンジョンのこんな発言を見つけた。
”グールドは私に言うのです。「ブルーノ、ずっと思っていたことなんだが、モーツァルトに対するぼくの考え方は人々に誤解されているようだ。そろそろこの誤解を解くために何かやらなければいけないと思うんだが・・・」と。私も彼がモーツァルトを大変に愛していたことをしっていますから、それなら二人で対談を行って活字にしたらどうか、彼が守る側、私が攻める側となって、「グレン・グールドのモーツァルト論」を展開したらどうかと提案しました。”(「グレン・グールド大研究」中の「グレン・グールドの錬金術」より)
こうして活字になったのがティム・ペイジ編「グレン・グールド著作集」にある「モーツァルトとその周辺」ということである。
これを読めば上記の矛盾は解消するのか、と期待して読んでみたのだがダメでした。
せっかく冒頭でそのことを話題にしているのに、「ソナタをレコーディングする気になったのはなぜかを訊くのは後回しにして・・・」と話題がそれていってしまう。
そしてグールドはまたまた
「ト短調交響曲は8つの特別な小節だけ(終楽章の展開部始めらしい)しか値打ちがない・・・陳腐な時間が半時間も続く中で、ただの八小節」
とか悪態をついている。(私は全く逆に冒頭主題の出る前、ヴィオラの伴奏だけで心が震えるのだが。)
その後も、どうしてあのように演奏するか、例えば
和音を分散して弾くのは音の横のつながりを強調するため
とか
芝居がかったことが嫌いだから、sfはやらない
とか、どこかで過去に言っていたことの蒸し返しになってしまう。
なぜそのように演奏するのか、なぞ演奏家は語る必要はないのだ。
かのフルトヴェングラーは、ある人にそれを尋ねられて、
「だって、そう思うのだから」
と答えたそうだが、さすがフルトヴェングラー、本質を突いている。
その時代の演奏様式を時代考証するも良し、自筆譜にさかのぼって作曲家の意図を確認するも良し、はたまた音楽理論を駆使して楽曲の構造を明らかにするのもいいだろう。
しかし、最後の最後、演奏家は己の心の中で奏でる音に耳を澄ますしかないのではなかろうか?
そういうわけでこの対談はちょっと期待はずれだったが、攻める側のモンサンジョンが議論好きのフランス人らしくなかなか手厳しいのが面白い。
「そんなことよりもっとほかの美点をあのソナタに見つけていただきたいものですね。」
「こんなことを言ってはお気に障るかもしれませんが、そのような社会政治学的批評はひじょうに時代遅れのような感じがします。」
「あなたのこうした社会学風の不満はすべて、19世紀の学者たちのモーツァルト観とほとんど同じくらいこじつけのように思いますので。」
という具合で、さすがのグールドも「あなたにあっては、わたしも防戦一方ですね」と。
この対談のなかで、グールドがポロリと「たまたまわたしは、諸悪の根源は一般にお金でなくて競争にあると信じている」と言っているが、たまたまわたしもそう思っていたので、この点についてはグールドと意気投合できそうである。
そんなことを言うと、
「何を言っている。競争こそ物事を進歩発展させる原動力だ。そもそも生物はダーウィンが喝破したように生存競争、自然淘汰により進化してきたのではないか」
という人もあろう。
しかし、本当にそうだろうか?
少なくとも自然については、ダーウィン的な生存競争の場とみるよりは、驚くほど多様な生物が肩を寄せ合って共生している、と見るほうがよほど現実に合っていると思われる。
物質循環に目を向ければ、光合成を行う植物、その植物の死がいを分解しまた窒素固定など植物の栄養吸収を助ける微細物や菌類が主役である。
彼らは一致団結して生物が住める環境を地球にもたらしており、人間なぞその上に乗っかって生きているだけだ。
にも拘わらず、くだらない競争にうつつを抜かし、彼らが苦労して作った環境を地球の至る所で破壊しているのは、まことに嘆かわしい・・・
話が音楽と全然関係ないところへ行ってしまった。これもグールドが普通の音楽家の枠を超えた存在だから、と人のせいにして本稿おわり。
「二流の作曲家」「短いほど良い」はては「死ぬのが遅すぎた」
その一方で、グールドはモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲を録音している。
これはどう見ても矛盾だ。本当に嫌いなら、演奏せずに無視していればよい。
実はグールドは本当はモーツァルトが好きなのに、へそ曲がりで何らかの理由であのような発言をしているのでは?、と私は勘ぐっていたのだが、モンサンジョンのこんな発言を見つけた。
”グールドは私に言うのです。「ブルーノ、ずっと思っていたことなんだが、モーツァルトに対するぼくの考え方は人々に誤解されているようだ。そろそろこの誤解を解くために何かやらなければいけないと思うんだが・・・」と。私も彼がモーツァルトを大変に愛していたことをしっていますから、それなら二人で対談を行って活字にしたらどうか、彼が守る側、私が攻める側となって、「グレン・グールドのモーツァルト論」を展開したらどうかと提案しました。”(「グレン・グールド大研究」中の「グレン・グールドの錬金術」より)
こうして活字になったのがティム・ペイジ編「グレン・グールド著作集」にある「モーツァルトとその周辺」ということである。
これを読めば上記の矛盾は解消するのか、と期待して読んでみたのだがダメでした。
せっかく冒頭でそのことを話題にしているのに、「ソナタをレコーディングする気になったのはなぜかを訊くのは後回しにして・・・」と話題がそれていってしまう。
そしてグールドはまたまた
「ト短調交響曲は8つの特別な小節だけ(終楽章の展開部始めらしい)しか値打ちがない・・・陳腐な時間が半時間も続く中で、ただの八小節」
とか悪態をついている。(私は全く逆に冒頭主題の出る前、ヴィオラの伴奏だけで心が震えるのだが。)
その後も、どうしてあのように演奏するか、例えば
和音を分散して弾くのは音の横のつながりを強調するため
とか
芝居がかったことが嫌いだから、sfはやらない
とか、どこかで過去に言っていたことの蒸し返しになってしまう。
なぜそのように演奏するのか、なぞ演奏家は語る必要はないのだ。
かのフルトヴェングラーは、ある人にそれを尋ねられて、
「だって、そう思うのだから」
と答えたそうだが、さすがフルトヴェングラー、本質を突いている。
その時代の演奏様式を時代考証するも良し、自筆譜にさかのぼって作曲家の意図を確認するも良し、はたまた音楽理論を駆使して楽曲の構造を明らかにするのもいいだろう。
しかし、最後の最後、演奏家は己の心の中で奏でる音に耳を澄ますしかないのではなかろうか?
そういうわけでこの対談はちょっと期待はずれだったが、攻める側のモンサンジョンが議論好きのフランス人らしくなかなか手厳しいのが面白い。
「そんなことよりもっとほかの美点をあのソナタに見つけていただきたいものですね。」
「こんなことを言ってはお気に障るかもしれませんが、そのような社会政治学的批評はひじょうに時代遅れのような感じがします。」
「あなたのこうした社会学風の不満はすべて、19世紀の学者たちのモーツァルト観とほとんど同じくらいこじつけのように思いますので。」
という具合で、さすがのグールドも「あなたにあっては、わたしも防戦一方ですね」と。
この対談のなかで、グールドがポロリと「たまたまわたしは、諸悪の根源は一般にお金でなくて競争にあると信じている」と言っているが、たまたまわたしもそう思っていたので、この点についてはグールドと意気投合できそうである。
そんなことを言うと、
「何を言っている。競争こそ物事を進歩発展させる原動力だ。そもそも生物はダーウィンが喝破したように生存競争、自然淘汰により進化してきたのではないか」
という人もあろう。
しかし、本当にそうだろうか?
少なくとも自然については、ダーウィン的な生存競争の場とみるよりは、驚くほど多様な生物が肩を寄せ合って共生している、と見るほうがよほど現実に合っていると思われる。
物質循環に目を向ければ、光合成を行う植物、その植物の死がいを分解しまた窒素固定など植物の栄養吸収を助ける微細物や菌類が主役である。
彼らは一致団結して生物が住める環境を地球にもたらしており、人間なぞその上に乗っかって生きているだけだ。
にも拘わらず、くだらない競争にうつつを抜かし、彼らが苦労して作った環境を地球の至る所で破壊しているのは、まことに嘆かわしい・・・
話が音楽と全然関係ないところへ行ってしまった。これもグールドが普通の音楽家の枠を超えた存在だから、と人のせいにして本稿おわり。
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