ピアニストの熊本マリさんは生身のグールドに会ったことがあるそうだ。
小学館バッハ全集第12巻にある彼女の文章「私のバッハ物語」によるコトの次第は以下のとおり。
(1)彼女は当時中学生で家族とともにスペインに住み、ピアニストになることを夢見ていた。
(2)友人から招かれて冬休みにトロントに滞在。
(トロントはその年記録的な寒さで”なんと寒かったことか!”と書かれているが、真冬に行くとこじゃないよね。)
(3)「野村光一・ピアニスト」という本で読んだグールドという変人ピアニストがトロントにいることを思い出す。楽器店でグールドの住所を聞き出し、”モーツァルトの協奏曲をレッスンしてくれ”と手紙を書く。
(4)待てども暮らせども返事は来ない。滞在期限が迫るなかグールドのアパートへ第1回奇襲攻撃。ターゲットは調べた住所で間違いないことを確認。
(5)第2回奇襲攻撃。グールドは不在だったが、管理人のオバさんがグールドの部屋に入れてくれた。すると昼夜逆転生活のグールドが寝ていた、ということはなく真っ暗な玄関に大きな黒いゴミ袋3つあっただけ。
(どこからどうみても住居不法侵入だがこのオバさんは何考えていたのだろう?)
(6)ここで奇跡。下に降りていくとグールドがいた!帽子に大きな茶色いめがねをかけ(ゴルトベルクの再録音時にかけていたものだろうか?)、マフラーをしていた。「手紙を書いた者です。」と言うと、グールドは神経質そうに「ああ、手紙は読みました。今夜、私のアシスタントに、あなたの所に電話させます。」とだけ言って去った。
(7)その夜、R・ロバーツ氏から伝えられたグールドのメッセージ
「僕は、他人の演奏を聴いて、才能を評価する資格はありません。あなたがいちばん自分の可能性を理解しているのです。自分を信じ、自分の才能を伸ばすのがあなたの仕事です。」
(8)これを受けてグールドのトッカータと平均律のレコードを買った。初めてグールドの音楽を聴いてひっくりするとともにグールドの言葉の意味を理解。自分の道を歩むことを決意し、10数年後にはゴルトベルク変奏曲の録音を果たす。(不思議なことにマリさんはグールドがどんな演奏をするのか全然知らずにレッスンを申し込んだらしい。なんせ中学生だから名のあるピアニストなら誰でも良かったのかもしれないが、よりによってグールドとは・・・)
このようにグールドとの出会いはほんの一瞬だったが、その時の言葉が彼女を大いに勇気づけたということなので、最高のレッスンだったかもしれない。
陽光のマドリードから真冬のトロントに向かった価値は十分にあった。
(おまけ)
バッハ全集第12巻の付録にペーター・シュライアーのインタビューがあった。その中でペーター・シュライアー曰く
”私はモーツァルトにはそれほど悲しくなりません。でもシューベルトは悲しくなる。あれは、もうほんとうに落ち込む音楽です。”
やっぱりねー。ペーター・シュライアーは声楽家だから特に晩年のリートについてそう感じるのだろう。私は詩心とドイツ語力の欠如からいまだにリートは聴けていないが、最後のピアノ・ソナタや弦楽五重奏は本当に悲しくなる。
(追記)
熊本マリさんのグールド訪問記は「文藝別冊 グレン・グールド」にもあった。こちらによると訪問したのはグールド最晩年の1980年冬。当時16歳だった、というから中学生よりちょっと大きい。
グールドはかつぐ方だったから、耽読していた漱石の草枕のヒロインNamiに似た名前をもつ日本の少女Mariの突然の訪問に何か因縁めいたものを感じたかもしれない。
(追々記)
グールド訪問について語るマリさんの動画がありました。
もうひとつグールドとの出会いについて小原孝氏との対談動画もありました。
グールドと言葉を交わせたのは、やはり奇跡のようです。
さらに今年(2022)年はグールド生誕90年ということで、「グレン・グールドを思い出しながら」のサブタイトルを持つ演奏家が開催されます。

よし、今日はわたくしもグールドを聴こう。
小学館バッハ全集第12巻にある彼女の文章「私のバッハ物語」によるコトの次第は以下のとおり。
(1)彼女は当時中学生で家族とともにスペインに住み、ピアニストになることを夢見ていた。
(2)友人から招かれて冬休みにトロントに滞在。
(トロントはその年記録的な寒さで”なんと寒かったことか!”と書かれているが、真冬に行くとこじゃないよね。)
(3)「野村光一・ピアニスト」という本で読んだグールドという変人ピアニストがトロントにいることを思い出す。楽器店でグールドの住所を聞き出し、”モーツァルトの協奏曲をレッスンしてくれ”と手紙を書く。
(4)待てども暮らせども返事は来ない。滞在期限が迫るなかグールドのアパートへ第1回奇襲攻撃。ターゲットは調べた住所で間違いないことを確認。
(5)第2回奇襲攻撃。グールドは不在だったが、管理人のオバさんがグールドの部屋に入れてくれた。すると昼夜逆転生活のグールドが寝ていた、ということはなく真っ暗な玄関に大きな黒いゴミ袋3つあっただけ。
(どこからどうみても住居不法侵入だがこのオバさんは何考えていたのだろう?)
(6)ここで奇跡。下に降りていくとグールドがいた!帽子に大きな茶色いめがねをかけ(ゴルトベルクの再録音時にかけていたものだろうか?)、マフラーをしていた。「手紙を書いた者です。」と言うと、グールドは神経質そうに「ああ、手紙は読みました。今夜、私のアシスタントに、あなたの所に電話させます。」とだけ言って去った。
(7)その夜、R・ロバーツ氏から伝えられたグールドのメッセージ
「僕は、他人の演奏を聴いて、才能を評価する資格はありません。あなたがいちばん自分の可能性を理解しているのです。自分を信じ、自分の才能を伸ばすのがあなたの仕事です。」
(8)これを受けてグールドのトッカータと平均律のレコードを買った。初めてグールドの音楽を聴いてひっくりするとともにグールドの言葉の意味を理解。自分の道を歩むことを決意し、10数年後にはゴルトベルク変奏曲の録音を果たす。(不思議なことにマリさんはグールドがどんな演奏をするのか全然知らずにレッスンを申し込んだらしい。なんせ中学生だから名のあるピアニストなら誰でも良かったのかもしれないが、よりによってグールドとは・・・)
このようにグールドとの出会いはほんの一瞬だったが、その時の言葉が彼女を大いに勇気づけたということなので、最高のレッスンだったかもしれない。
陽光のマドリードから真冬のトロントに向かった価値は十分にあった。
(おまけ)
バッハ全集第12巻の付録にペーター・シュライアーのインタビューがあった。その中でペーター・シュライアー曰く
”私はモーツァルトにはそれほど悲しくなりません。でもシューベルトは悲しくなる。あれは、もうほんとうに落ち込む音楽です。”
やっぱりねー。ペーター・シュライアーは声楽家だから特に晩年のリートについてそう感じるのだろう。私は詩心とドイツ語力の欠如からいまだにリートは聴けていないが、最後のピアノ・ソナタや弦楽五重奏は本当に悲しくなる。
(追記)
熊本マリさんのグールド訪問記は「文藝別冊 グレン・グールド」にもあった。こちらによると訪問したのはグールド最晩年の1980年冬。当時16歳だった、というから中学生よりちょっと大きい。
グールドはかつぐ方だったから、耽読していた漱石の草枕のヒロインNamiに似た名前をもつ日本の少女Mariの突然の訪問に何か因縁めいたものを感じたかもしれない。
(追々記)
グールド訪問について語るマリさんの動画がありました。
もうひとつグールドとの出会いについて小原孝氏との対談動画もありました。
グールドと言葉を交わせたのは、やはり奇跡のようです。
さらに今年(2022)年はグールド生誕90年ということで、「グレン・グールドを思い出しながら」のサブタイトルを持つ演奏家が開催されます。

よし、今日はわたくしもグールドを聴こう。
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