秋 田 奇 々 怪 会

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO等不思議大好きの会です

      「奇 々 怪 会」 とは、どういう会なのか


昭和30年前後にイギリスのネス湖で恐竜ネッシーの存在が話題となり(湖面を泳ぐ姿が目撃され、写真に撮られたりした)、ヒマラヤで雪男の足跡が発見された等などが新聞やテレビで話題になりました。
こうした話題は昔から私達の興味を引く出来事だったようです。

いや、もっともっと旧くには・・・
秋田出身の国学者・平田篤胤は異界・幽冥の世界の有様をまとめて、1822年(文政5年)に『仙境異聞』を出版しています。
実は文政3年秋の末、篤胤45歳の頃、江戸で天狗小僧寅吉の出現が話題となっていたそうです。
寅吉は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたというのです。
篤胤は、天狗小僧から聞き出した異界・幽冥の世界の有様をまとめて、出版したのが『仙境異聞』であります。これが当時大きな話題となったと伝えられています。
ことほど左様に”不思議な話”は、いつの時代でも人の興味を引き付けるのだと思われます。

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO、UMA、ツチノコ・・・・・
身近では霊的な場所、遺跡、神社、お寺、巨木等なども私達の興味を引き付ける様です。


奇々怪会は、こうした事に興味を持つ人の集まりです。
新規の入会を希望する方は下記までご連絡ください。
メールアドレス arashigeru@yahoo.co.jp

イザベラ・バード奥地紀行13

2018年06月08日 | 本・雑誌から
小繋から大館までは羽州街道も平坦な道を進んで来る。大館も、イザベラが宿泊した頃は『半ば崩れかかった人家がみすぼらしくたてこんでいた。木の皮で葺いた屋根は石で押させてあった』
彼女が着いた時は大雨で足留めされた旅人でどこの宿屋も満員で、何軒も歩いた揚句に騒がしく煩い宿屋にやっと泊まる事ができた。
この宿屋で、秋田の方言、というより東北弁の発音について記述している。
「近ごろはどこへいっても”ハイ”という返事をヘーとか、チ、ナ、ネなどと発音する。
そしてこのことを、伊藤はとても軽蔑している。それは返事と言うよりは無意味な間投詞のように聞こえる。・・・・・ときにはその発音は高く鋭く、喉の音となり、溜息のような時もある。

7月29日。晴れ間を見つけて大館の宿屋を出る。この日は天気は良かったが、増水した川の減水を待たなければならないため、7マイル(10キロメートル程)しか進めず、白沢という村(現地名、大館市白沢)で泊まりとなる。
この日の天気は余程良かったと見えて、後ろに見える大館の町が美しく見え、山々の木々も一層美しく陽に輝き、絵のようだったと書いている。
白沢(しらさわ)では、外国人は今までに一度も宿泊したことが無いので、警察署の許可がなければ泊める事はできないと断られたが、伊藤の必死の説得で、何とか泊めてもらった。
予期せぬ長雨に、逗留を余儀無くされたバードは、やっとの晴れ間に急ぎ白沢を発つ。
宿を出たイザベラは、太陽に照らされた東北の自然の光景が余程気に入ったのでしょうか、大館を出発した時と同じように、目に映る景色を、まるで絵でも観ているようだと絶賛している。

イザベラはその後も、激しい雨の中を、時に は馬の背程まで増水した川を、死にものぐるいで渡ったり、川に流された道無き道を歩き、やっとの思いで碇ヶ関(いかりがせき)の宿屋に到着することなる。 この状態は旅行のレベルを遥かに凌いで、最早探検や宝探しの世界のような印象を受ける。
碇ヶ関は、『人口八百の村で、険しい山と平川の間の狭い岩棚となっている。まことにわびしくうらぶれたところで、(中略) しかし美しい環境にあり、私が今まで見たどの村とも様子がちがっていた』
イザベラは、原始的な宿屋ではあったが休むことができた。

増水した川や寸断された道のため、ここで4日間足留めされた。その間、イザベラのできる事と言えば、日に3度、川の様子を見に行ったり、時間潰しに宿の亭主や村長(原文では「kocho(戸長)」と話をした事である。
時に、眼病の村びとに薬を付けてあげたり、子供達を見ていた。彼らは、常に行儀正しかった。イザベラが菓子をあげる場合でも、必ず親の許しを得て、にっこりしてからイザベラの前で深く頭を下げ、自分で食べる前に他の子供達に菓子を渡す。

黒石(くろいし)では、綺麗でさっぱりした風通しのよい二階の部屋に泊まることが出来た。夜になって伊藤が面白いモノが見られると彼女を誘いに来たので、イザベラは着物を着て変装し伊藤と一緒にでかけた。黒石は街灯の無い町だったので変装が人々に知られることはなかった。
町へ出ると彼女の前を祭りの行列が進んできた。それは絵のように美しかったので1 時間も立ち尽くした。その祭りは大きな提灯がいくつも運ばれてきたが、魚、鳥、凧、太鼓などの絵が描かれた様子は、提灯というよりは大きな透かし絵のよう に見えた。そしてこの祭りは七夕祭、あるいは星夕祭と呼ばれていた。

彼女は温泉を訪問する。その温泉は下中野にあって、
『ここは、長方形の陥没の縁に沿って家が立っており、その底部に浴場がある』
彼女は、車夫の案内で共同浴場へと行く。入浴したわけではない。車夫が入口から浴場へと入っていったので、そのまま付いていったのである。入口は男女別々であったけれど中へ入ると混浴で、浴場は中に四ケ所あった。
『端の二つの浴場では、女や子供が大きな浴槽に入っていた。中央の浴場では、男女が共に入浴していたが、両側に分かれていた』
出口は入口の反対側で、さらに、入場してくる人々に押されて戻るわけにも行かず、浴場を見学し出口から出ていった。
入浴していた人々は、外国人の訪問をそれほど気に止めず、おおらかな人々の心に感動する。また、明治新政府は、混浴を禁止させていたがなかなか徹底しなかった。大衆浴場文化は日本の特色の一つであった。
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イザベラ・バード奥地紀行12

2018年06月05日 | 本・雑誌から
「阿武川(現 飯田川町虻川)というみすぼらしい村で一泊せざるを得なかった。屋根裏の部屋で、ノミが多かった。米飯は、とても汚くて食べる気がしなかった。宿のおかみさんはひどい皮膚病にかかっていた。このあたりではもはや壁土の家はなく、村々の家屋はみな木造であったが、阿武川は古ぼけて倒れそうな家ばかりで、家を棒で支え、斜になった梁は道路に突き出て、うっかりすると歩行者は頭を打つほどであった。
虻川を出て間もなく、左側に大きく広がる潟があるのにイザベラは気がつきます。長さ17マイル(約27キロメートル)、幅16マイル(約26キロメートル)もある潟で、真山と本山の二つの高い丘に守られていた。

彼女が通った農村は、どこでも貧しかった。
豊岡(現 山本町)では
「人たちの着ているものは、特にぼろぼろで汚かった」
切石(現 二ツ井町)では
「どの家も泥水の中に立っていて、みじめで汚らしく見えた」
小繋周辺では
「村々はみすぼらしく、たいていの家は板張りで、端は粗末に釘で打ち付け、両側は粗末に縄で縛ってあった。家には窓はなく、どの割れ目からも煙が出ていた」

豊岡の次は鶴形(つるがた)である。鶴形までの途中、見えるものといったら、霧に霞む低く続く丘陵や水の溢れた水田、泥沼となった道や村落だった。そんな中で檜山(ひやま)だけは違っていた。
『サムライの村である檜山は例外であった。そこは美しい傾斜地にあった。家は一軒建てで、美しい庭園があり、深い屋根の門がつき、庭先は石段になっていて草木が植えてあった。洗練されて静かな暮らしを楽しんでいるように見えた』
檜山に好印象をもったイザベラも、ここで出会った子供達にとっては、おぞましい存在となってしまった。学校帰りの子供達が、イザベラを見た途端、悲鳴を上げながら逃げ出した。そうした事件は、いままでに何度か経験したものの、ここでは少し違っていた。
逃げる一人を馬子が捕まえて聞き糺したところ、伊藤は猿回しでイザベラは巨大な猿だと思ったというのだ。

夕方になると雨も小止みになり、しだいに霧雨も晴れ、美しい絵のような地方が見えてきた。
切石から小繋(*米代川上流側の小繋村と思われる)までは2マイル半(約4キロメートル)の距離であったが、4時間程掛かってやっと無事に着くことができた。

*実はこの小繋に至る船旅は危険なものであって、”きみまち阪Wikipedia”には次の様に記録されている。
1878年(明治11年)、イギリス人の旅行家イザベラ・バードは、 役所から渡河を禁止されているにも関わらず、船頭を雇い増水する米代川を無理に小舟で遡ろうとした。バードは、屋形船が激流のため舵を取られ木の葉のよう にくるくる回り、自分が乗っている小舟に衝突しそうになったことを記している。結局、屋形船は樹木にぶつかり、船頭は樹木に綱を巻き付けたが、その綱に8 人がぶらさがると幹は折れ、8人は流れにのまれて見えなくなった。バードも一歩間違えば遭難しかねない状況であったが、「夕闇が迫ると霧雨も晴れて、絵の ように美しい姿をした地方が見えてきた」とも記している。その後、バードは小繋村に宿泊している。

小繋村の宿屋に着いた頃には日はとっぷりと暮れ、深い霧が出て、また大粒の雨が降り始めた。この晩の宿屋の部屋は、大名の座敷が現れたかのような立派な部屋で、彼女は大変に満足した。
7月30日。朝早く小繋を出たイザベラは、大雨の中を綴子(つづりこ)、川口、大館(おおだて)と強行に進み、大館で宿泊となる。
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イザベラ・バード奥地紀行11

2018年06月03日 | 本・雑誌から
【土崎みなと祭り見学】
「男も女も子どもも、今祭りをやっている港へみな急いでいる。
港は久保田の荷揚げ港で、このみすぼらしい町では神明(天照大神)という神の誕生日を祝って祭りをしている。
人が溢れて街路そのものは見えないほどだった。町中ぎっしり提燈が並んでいた。・・・・・・・・猿芝居や犬芝居の小屋があり、30分ごとに女が観客に首を切らせる小屋もあった・・・・・いろいろな姿に固めた砂糖、玩具、菓子類が、地面に敷いた畳の上に売り物として並べられている」

「警察の話では、港に2万2千人も他所から来ているという。
しかも祭りに浮かれている3万2千の人々に対し、25人の警官で充分であった。
私はそこを午後3時に去ったが、そのときまでに一人も酒に酔ってるものを見なかったし、またひとつも乱暴な態度や失礼な振舞いを見なかった。
私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。
どんなに人が混雑しているところでも、彼らは輪を作って、私が息をつける空間を残してくれた。」

「雑踏の中に大きな山車が二つあって、それを遠くから眺めた。9mの長さのある(原文ではフィート)重い梁を組み立てたもので、中味のしっかりした巨大な車輪が八個ついていた。・・・・上端には不揃いの高さの特殊な山が二つあり、全体は地面から15mあった。・・・・全体が山をかたどり、神々が悪魔を打ち殺すさまをあらわしていた。しかし私は、これほど粗末で野蛮なものを見たことがない」

どの山車の前部にも、幕の下で三十人の演技者が悪魔のもつような楽器を手にし、実に地獄的な騒音で、あたりの空気を震わせていた。・・・・・一つの台には、寺院の仁王に良く似た巨人が真鍮の鎧をつけて、薄気味悪い鬼を殺していた。・・・・・これらの山車は、外路上を引かれて行ったり来たりしていた。引く男は山車に200人で、3時間で1.6Kmしか進まなかった」
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「東北見聞録~謎と不思議と珍談と」第三十七話

2018年06月01日 | 本・雑誌から
東北見聞録~点在する奇岩・怪石

奇岩・怪石と言えば秋田県男鹿半島のゴジラ岩が人気。釣りポイントのすぐ近くに見られ、最近はガメラ岩も見つけたそうで、今後どんな怪獣岩が出現するのか楽しみだ。

さて、古来から石や岩への信仰の歴史は深く、神が降臨する御座所いわゆる「磐座(いわくら)」等がその代表格と言っても良い。東北では岩手県盛岡市の三ツ石神社の鬼の手形石と呼ばれる巨石、同じ岩手遠野市では巨大卓石のドルメン「続石」も見られる。この様にいわく付きの岩や石は探し出せばあちらこちらに存在する。今回は東北以外も含めた奇岩・怪石がテーマ。

①能登の奇岩・奇祭
まずは北陸の石川県能登町の怪石を紹介しよう。
能登半島の東側国道249号を走るとやがて能登町に到着する。ここに60メートル程の高さの「石仏山(いしぼとけやま)」がある。毎年3月1~2日にかけて「山の神」と「田の神」を祀る祭礼が行われる。この山に巨大な立石があると言うので、現地を訪ね山に登った。
古くから女人禁制の山で、中腹には大きな注連縄(しめなわ)が張られていて、俗世界と神聖地域の境界が示されていた。注連縄をくぐってややも進むと・・・驚嘆である。目の前に高さ3メートル程の巨大な石棒状の立石が屹立している。それも剣の様な鋭さを持った石棒だ。

秋田県鹿角市の大湯環状列石に見られる立石の5~6倍もある。その胴にはしっかりと注連縄が巻かれていて、信仰の厚さを感じさせた。祭礼はこの巨石の前で行われるそうだが、実はここはほんのスタート地点で、その奥の山斜面には組み合わせた様な巨石群、更に巨大な石棒状の石がズラリ。女人禁制のいわれが良く分かる気がした。あいにくの雨で斜面が滑りやすく、山頂部までは到達できなかったが、怪石が群をなしている状況は確認出来た。巨石が運ばれたのか、もともと存在した物を利用したのかは定かで無いが、山岳信仰は修験道との結びつきが深いので、年代的にも相当古い歴史を持つと感じた。

②奈良明日香村周辺の巨石
筆者が感激した巨石の多くは奈良県明日香村周辺にある。紙面に限りがあるので羅列に止めるが、歴史に登場する代表的な巨石は石舞台古墳だ。更に「鬼の俎板(まないた)」「鬼の雪隠(せっちん)」「亀石」「岩船石」などが点在する。そして写真の岩は「酒船石」で、松本清張も歴史探求に没頭した謎の巨石だ。同志社大学の故小川光陽教授は古代の生贄用の台座で、刻まれた溝から血が流れ落ちると自説を展開した。近畿地方に出向いた際には是非自らの眼で確認して欲しい。


③田沢湖を見下ろす鏡石
田沢湖こそ「奇岩・怪石」が集中する面白スポットなのだ。湖の辺り赤鳥居の御座石神社の背面には高鉢山がそびえ、その中腹に伝説の辰子姫が髪を結ったと言われる「鏡石」がある。かつては神社の裏手から急斜面伝いに登るしか手段は無かったが、今では立派な散策道が設置されている。それでも急斜面の登りはかなりキツイ。100メートルほど登ると「かなえる岩」の案内板、そして「鏡石まで後100メートル」とある。息が切れる思いでようやく鏡石の眺望台へ到達。鏡石を右手に臨むが、少々見えにくい。かつて斜面伝いに登った時は正に間近で、圧倒的迫力の巨石を見た。さてさて、その鏡石の鏡石たる所以は、巨石の中心部にポンとはめた様な正に鏡の様な丸い石が在る事からだ。人口説を唱える方も居る様だが、火山の麓ゆえの自然形成と筆者は思う。熱い火山弾の違う岩質が冷却時に分離して偶然に鏡の様な丸い形になったのでは無いだろうか。いずれにせよ信仰の深さは今も連綿と続いている様で、眺望台の手すりには多くの賽銭が積み重ねられていた。古来より修験の場として深い信仰を重ねて来た歴史の重みを感じる。




③キツネ岩に坂上田村麻呂の試し切り岩?
国道から田沢湖を目指すと途中で川沿いの山居地区で「キツネ岩」を見る事が出来る。これも火山地帯ならではの自然が生んだ偶然の産物と思うが、山の斜面に見事な形の白いキツネが見られる。質の異なった成分が、こうした偶然を生んだとすると「鏡石」のケースに近いのかも知れない。古くから「稲荷岩」として地元の信仰が続いている。そして太陽光線の当たり具合によっては、キツネから遠吠えする狼に見えると言われる。取材時、幸運な事にキツネと狼の両方を見る事が出来た。
次は十丈の滝に向かう途中の平牧野地区にある「坂上田村麻呂の試し切りの石」。4メートル程の巨石中央部が見事にスッパリと切られた様に割れている。蝦夷と7日間争った田村麻呂が大刀で切ったとの言い伝えが残る怪石だ。代表的な怪石・奇岩を紹介したが、この他にも石神地区の巨大な龍の形をした「青龍大権現」など、田沢湖周辺の自然の驚異を是非ご覧いただきたい。

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