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《ちひろvol.6》黒柳徹子・飯沢匡著「いわさきちひろ」より「いわさきちひろ夫妻が住んでいた大連市松山町東洋拓殖会社社宅」

2023年09月15日 | 日本と中国

黒柳徹子・飯沢匡著「いわさきちひろ」から、いわさきちひろ夫妻が住んでいた大連市松山町東洋拓殖会社社宅での生活を記述していますので、一部を抜粋します。

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第四章 処女妻
時代の悲劇――最初の結婚 
「ちひろ」が結婚を応諾したので、これで人並みに娘を嫁入らせることができると両親は喜んだ。 
 二十一歳というのは決して遅くはない。当時としては娘がいわゆる 「出遅れる」と、あまり条件のよい結婚はできなかった。二度目とか、いささか欠陥のある――たとえば、うるさい舅がいるとか、そういうマイナスが、つきまとったものである。 
 二十一歳なら花嫁として理想的な年ごろで、相手は私大だとはいえ、前途洋々の満州という新天地の東洋拓殖会社の社員というのだから、中流家庭の娘の嫁入り口としては、文句のつけようがなかった。
 父より社会的には交際範囲の広い母親文江は、長女「ちひろ」の結婚式は盛大にと行いたかった。そこで式や披露宴も、人から後ろ指をさされぬように、大いに張り込んで、かなり派手に行うことに取り決めていた。本来なら男の生地でとり行うものであるが、養子婿のことで万事岩崎家中心にそれは進行していったのである。 
 式場は今の権田原の神宮外苑の入口に近いところにある明治記念館で行われた。この式場も両親の職業にぴったりの選定で、あの記念館は宮廷の式典の際、仮に作った御殿の取りこわしで造った記念館であった。木曾の御料林の良質の檜材で作られた仮屋で、あの奈良の旧国鉄経営の奈良ホテルも、大正天皇の御大典の悠紀殿主基殿の余材で作ったものである。もうそれだけで、当時の人は何か宮廷と深い縁ができた気がしたものだった。 
 母親として文江は東横デパート(現在の東急)呉服部へ行って、そこで最高級の黒の式服をあつらえ、岩崎家の紋を入れ、当時としては珍しい色直しには濃いオレンジ色の総模様の瑠据襟を注文した。 
(略)
 それはきまじめなX青年が結婚した以上、いつかは 「ちひろ」が真の意味で自分の妻になるものと信じて、その日の来るのを、ひたすら辛抱強く待っていたというべきであろう。 
 妹の世史子さんの言によれば、「ちひろ」は夫が自殺するまで処女を守ったのであった。だから、「ちひろ」 は結婚したといっても純潔のままでいたのである。 
 X青年は世間体もあったし、自分の理想とした恋女房を妻として迎えた喜びに、夜の喜び、夫婦の肉体的結合ということを急がないで、表面は幸福な一組としての体面を保つことに成功していた。 
 大連の勤務先には、夫が一足先に旅立ち、「ちひろ」は、少し遅れて出かけることになる。 
 戦前の大連は私も旅行したことがあるが、いわゆる満鉄の開発したところであり、広軌の鉄道が走っており、日本が領有する以前はロシアが中国から割譲して開発した植民地であったから、市街もそこの住宅もすべて大陸式というか、ョーロッパ式で、大連旅行は、ちょとした欧州旅行といえた。街頭の風景も馬車が走っていたり、なんとなく欧州の街頭を思わせた。 
 三度も世界を漫遊したことのある父親正勝の影響で外国ことに欧州文明に深い憧れを持っていた「ちひろ」は、X青年が自分の夫であること以外は大いに満足していたにちがいない。しかし毎日のように我が家に 「ちひろ」は手紙を書き、家庭の寂寥を訴え続けた。 
「ちひろ」の両親は、「ちひろ」 の不平を聞いて、自分たちの考えていた娘心とは、我が娘はだいぶ隔たりがあることに気がつき、「この結婚は二年保てばいい」と嘆くところまでになっていた。 
 心配した両親は、妹の世史子を夏休みを利用して大連まで慰めに行かせた。二人の姉妹は夫とは別間に二人で布団を敷いて、積もる話に身を入れていた。夫は妻の妹を大歓迎して、星が浦(湘南海岸といった保養地)とか、ほうぼうに案内したが、二人の姉妹はそれを当然のことと考えていた。当時としては賛沢なことであった。 
 私が同情を禁じえないX青年は、ついに性の悩みを遊里で解消したらしい。元来がウブなX青年は、そんな遊びに不慣れであったせいか、十代の青年のように性病にかかってしまったのである。X青年の困惑は、私には十分に同情できるのであるが、たぶん羞恥心から手遅れになっていたのであろう。その間、東京に帰ってきたという岩崎家の人々は、X青年が、そんな悩みを持っているとはつゆ知らなかった。 
 二人の妹たちも姉と夫の間が、そんな険悪なものとは気がつかなかった。すべては、ありきたりのお定まりの新婚の夫婦の蜜月と考えていたのであろう。 
 大連の会社の社宅での「ちひろ」は、後の「いわさきちひろ」 に成長する片鱗も見せなかった。ここでスケッチ・ブックを毎日手から離さずに、片端から大連の街頭風景を描いたのなら、ちひろの画嚢は大きくなっていただろうが、そのころは 「ちひろ」 は、まだ自分の画才が世を動かすようなものに拡大するとは自覚していなかった。すでに二十歳を過ぎていたし、時間も十二分にあったのに、ピアノを弾いたり、三尺帯を締めた少女のような格好をして、塀の上に腰をおろして、景色を眺めているようなお嬢さんにすぎなかった。 
 要するに、開花する前の才能というものは、常にそんなものである。後に天才になった人の姿を周囲の人に聞くと 「平凡な子でした」という答えが返ってくるものである。 
 そんな平々凡々 じつはX青年にとっては地獄の責苦の日々だったのだが、「ちひろ」は自分がいかに、X青年に対して残酷きわまりない仕打ちをしているか、全く無自覚のうちに過ごしているうち、ある日、運命の日が突如としてやって来た。外出して玄関の戸を開けると、目の前に、ぶらりと夫が鴨居からぶら下がって死んでいたのである。 
「ちひろ」は、そのまま近所の知合いの奥さんの家に大声で泣きながら駆け込んだ。 
 あとは電報一つで父親の正勝が大連に乗り込んで、いっさい始末した。 
 すべては秘密のうちに執行された。 ことの起こったのが大連というのは秘密を守るには適当であった。 
 だから、このあたりの詳細は私にはわからない。当時、東洋拓殖会社の同じ社宅にいらした人などは、このショッキングな出来事について知っていらっしゃるかもしれないが、私は別に知りたいとも思わない。ただ遺言によってX青年の墓は岩崎家の中にあることだけを記しておこう。誰が悪いというのではない。やはり時代がこんな悲劇を作り出したのであった。(以下略) 

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平山知子著「若きちひろへの旅」で訪ねる中国東北部「若きちひろの旅」《vol.2》

《ちひろvol.3》大連市遼寧師範大学芸術学院美術系美術館で「いわさきちひろ展」を開催

《ちひろvol.4》「大連鉄道工場のアジア号」

《ちひろvol.5》いわさきちひろ夫妻の旧居「大連市松山町東洋拓殖会社社宅」

(続く)

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