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「東京新聞社説」鶴彬獄死の末にある戦 開戦の日に考える

2020年12月11日 | 幸徳秋水・鶴彬

尾藤一泉編「鶴彬の川柳と叫び」【注】尾藤一泉さんは、鶴彬を「反戦川柳作家」と言って欲しくはないと言われています。

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東京新聞12月8日社説欄

 鶴彬獄死の末にある戦 開戦の日に考える開戦の日に考える(文字起こし)

  鶴彬(つるあきら)という川柳作家をご存じでしょうか。日本が戦争へと突き進む中、貧困と反戦を詠み、治安維持法違反で逮捕、勾留中に病死しました。苛烈な言論統制の末にあったのは……。七十九年前のきょう破滅的な戦争が始まります。
   鶴彬(本名喜多一二(かつじ))は一九〇九(明治四十二)年一月、石川県高松町(現在のかほく市)に生まれました。尋常小学校や高等小学校在校中から地元新聞の子ども欄に投稿した短歌俳句が掲載されるなど、才能は早くから知られていたようです。
貧困、社会矛盾を川柳に
   喜多の作品が初めて新聞の川柳欄に載ったのは高等小学校を卒業した翌二四年の十五歳当時、進学の夢がかなわず、伯父が営む機屋で働いていたときでした。
  <静な夜口笛の消え去る淋しさ> (二四年「北国柳壇」)
   「蛇が来る」などと忌み嫌わた夜の口笛を吹いても、何の反応もない寂しさ。少年期の感傷的な心象風景が素直に表現された作風がこのころの特徴でしょう。
   翌年には柳壇誌に作品が掲載され、川柳作家として本格デビューを果たします。その後、多くの川柳誌に作品を寄せるようになりました。このころはまだ柳名「喜多児(かつじ)」や本名での投稿です。
   十七歳の時、不景気で伯父の機屋が倒産。大阪に出て町工場で働き始めた喜多を待ち受けていたのは厳しい社会の現実でした。喜多の目は社会の矛盾に向けられるようになります。
  <聖者入る深山にありき「所有権」>(二八年「氷原」)
   このころ都市部では労働運動、農村では小作争議が頻発、政府は厳しく取り締まります。持てる者と持たざる者、富める者と貧しい者との分断と対立です。 修検者が入る聖なる山にも俗世の所有権が及ぶ矛盾。そこに目を向けない宗教勢力への批判でもありました。 
  反軍、反戦を旺盛に詠む
   十九歳のとき大阪から帰郷した喜多は、生産手段をもたない労働者や貧農、市民の地位向上を目指す無産運動に身を投じ、特別高等警察(特高)に治安維持法違反容疑で検束されます。その後、故郷を離れて上京、柳名を「鶴彬」に改めたのも、特高の監視から逃れるためでもありました。
   兵役年齢に達した二十I歳の三〇年、金沢の陸軍歩兵第七連隊に入営しますが、軍隊生活が合うわけはありません。連隊内に非合法版物を持ち込んだ「赤化事件」で軍法会議にかけられ、大阪で刑期二年の収監生活を送ります。
   刑期を終え、除隊したのは三三年、二十四歳のときです。このときすでに日本は、破滅的な戦争への道を突き進んでいました。三一年には満州事変、三二年には海軍青年将校らが犬養毅首相を射殺した五一五事件、三三年には日本は国際連盟を脱退します。
    この年、自由主義的刑法学説をとなえていた滝川幸辰京都帝大教授に対する思想弾圧「滝川事件」が起こり、学問や言論、表現の自由への弾圧も苛烈さを増します。
  しかし、鶴がひるむことはありませんでした。軍隊や戦争を批判し、社会の矛盾を鋭く突く川柳を作り続けます。
  <万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た>
  <手と足をもいだ丸太にしてかへし>
  <胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき>
   召集令状一枚で男たちは戦場へ赴き、わが家に生還しても、ある者は手足を失い、妻の胎内に新しいわが子生命の胎動を知るころに遺骨となって戻る男もいる。鶴が川柳に映しだした戦争の実態です。いずれも三七年十一月「川柳人」掲載作品です。
   特高はこうした表現を危険思想とみなし、同年1月、治安維持法違反容疑で鶴を摘発し、東京中野区の野方署に勾留しました。
  思想犯に対する度重なる拷問と劣悪な環境。鶴は留置中に赤痢に罹り、東京新宿にあった豊多摩病院で三八年九月に亡くなりました。二十九歳の若さでした。
  川柳に続き、新興俳句も弾圧され、表現の自由は死に絶えます。
  戦争へと続く言論弾圧
  お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、この社説の見出し「鶴彬獄死の末にある戦」も五七五の川柳としてみました。
   学問や言論、表現に対する弾圧は、戦争への道につながる、といぅのが歴史の教訓です。
   安倍前政権以降、日本学術会議の会員人事への政府の介入や、政府に批判的な報道や表現への圧力が続きます。今年は戦後七十五年ですが、戦後でなく、むしろ戦前ではないかと思わせる動きです。
   戦後制定された憲法の平和主義は、国内外に多大な犠牲を強いた戦争の反省に基づくものです。戦争の惨禍を二度と繰り返さない。その決意の重みを、いつにも増して感じる開戦の日です。

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尾藤一泉さんをはじめ東京の川柳愛好家が、東京にも顕彰碑を建立しよう、場所は旧豊多摩病院の近辺が良いだろう、と治安維持法犠牲者国家賠償請求同盟(国賠同盟)新宿支部が中心となって「鶴彬顕彰会」が顕彰碑建立の運動を始めました。

鶴彬の顕彰碑建立運動「旧豊多摩病院近辺の公園に建立を」

2010年管理人が金沢市に転居したときに城北病院で受診しました。元民医連会長で院長の莇昭三先生が鶴彬の出身地石川県に顕彰碑をつくろうと運動し、金沢市卯辰山公園内に顕彰碑を建立できたと聞かされました。

(了)

 

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