葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

パソコン大好き爺さんの日誌。mail:akebonobashi@jcom.home.ne.jp

中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第251号証小林利男氏

2023年08月20日 | 化学兵器問題

同僚の戸口好太郎氏の会社は、小野寺利孝弁護士が顧問弁護士でした。遺棄毒ガス弁護団の団長だったので、同僚の戸口好太郎氏と中国敦化市沙河沿の毒ガス弾遺棄現場調査に同行し、さらに裁判所で証言をしました。

小林利男氏は、証言後に記者会見に臨みました。

このイラストは関東軍第16野戦兵器廠の元隊員有志が私費出版した部隊史「追想」にある地図を小林利男氏が補足したものです。

甲第251号証小林利男氏

陳 述 書 
はじめに 
私の生年月日は大正9 年H 月24 日です。生まれは、千葉県で、戸籍は千葉県香取郡東庄町です。 
軍隊入隊する前 
 私は、高等小学校卒業後、漢文の専門学校に1年半行き、その後、昭和13年から日本光学(現在のニコン)に勤務しました。会社では学歴によって格差があり、陸軍工科学校を卒業すれば学歴として認められると聞き、また、いずれ、徴兵検査があるので、昭和14年12 月1日陸軍科学校に入学しました。21期生です。 
陸軍工科学校について 
 陸軍工科学校は陸軍の技術幹部を養成する学校です。陸軍工科学校は、後に陸軍兵器学校になりました。火エ(弾薬)、技エ(光学兵器・土木器材)、銃工(小銃・機関銃等の小火器)、鍛工(重砲等の重火器)、機工(自動車・戦車)、電工(無線・有線)に分かれ夫々専門の教育を受け卒業後は全国の部隊に配属されて兵器の整備と技術兵の教育を担当します。私は技工科で昭和16 年5 月24 日1年半の繰上げ卒業をしました。 
中国へ 
 私は、昭和16 年5 月24 日付けで陸軍兵器学校を卒業し、同日付で関東軍野戦兵器廠付を命じられました。官職名は陸軍技術伍長です。 
 昭和16年5月28日下関を出帆し5月30日新京の関東軍野戦兵器廠に到着しました。 
同年6月1日関東軍野戦兵器廠喰ホ演支廠付を命ぜられ到着しました。 
 同年7月末日牡丹江省緩陽県河東にある関東軍野戦兵器廠河東支廠付になりました。 
 関東軍特別大演習の発令により同年8月牡丹江省緩陽県河東で関東軍第16 野戦兵器廠が新設され、これに編入されました。第16野戦兵器廠(通称2633部隊)は、当初、大きく分けて、修理部と補給部だけだったのですが、途中から、業務隊(修理部・補給部)・警備隊・勤務隊・支廠・出張所等から編成されました。私は業務隊修理部に所属しました。
 同年第16野戦兵器廠は一部を河東支廠として残し、本廠は鶏寧県鶏寧に移駐しました。 昭和17年6月陸軍技術軍曹になりました。 
 昭和19年6月陸軍技術曹長になりました。 
戦況が変化して昭和20年頃から関東軍は本土防衛のための移駐や東部満州への移動等、あわただしい動きがありました。 
 昭和20年1月再度、私は、岡大尉とともに牡丹江省緩陽県河東の第16野戦兵器廠河東支廠付で残務整理をしました。昭和20年5月頃鶏寧にある第16野戦兵器廠は東部国境担当の第5軍の東安兵器廠と交代して吉林省大橋に移駐し、敦化周辺の新設兵団の兵器補給業務を担当しました。 
 同年6月、私は、吉林省敦化県大橋本部に到着し、その後、7月沙河沿の隊に配属されました。 
関東軍第16 野戦兵器廠の構成 
 第16野戦兵器廠は部隊本部、業務隊(修理部、補給部)、警備隊・勤務中隊と支廠・出張所で構成されていました。指揮官は部隊長の友田中佐で、部隊本部には企画班長の岡大尉、庶務班長に東中尉がいました。 
岡大尉は、昭和20年1月ころ、河東支廠長になり、6月頃には敦化の新設部隊に転属したと思います。 
 修理部の工場班には、中川中尉(6月に転属)、倉中尉(6月に転属)、松本中尉(6月に大溝支廠長に転属)、がいました。光学工場は私、電機工場高橋曹長、火砲・銃器工場野上曹長、木工・鞍工場は戸口軍曹、機械工場は予備役軍曹がそれぞれ工場長でした。各工場には技術兵と軍属が各10名くらいいました。修理部の移動修理班は第1から第3までありました。補給部には火砲・銃器班、機材班、弾薬班があり、弾薬班には寺島曹長、加藤軍曹等がいました。各隊とも隊長は中尉で、幹部に少尉か見習士官、准尉1~2名、下士官数名と兵力50名~100名で編成されていました。 
昭和20年8月当時について 
 昭和20年7月、私は吉林省敦化県沙河沿に転属しました。沙河沿地区の兵力は約60名で、2つの隊に編成されていました。幕舎は2 つあり、第1幕舎に鈴木准尉、関准尉、私、高岡曹長、戸口軍曹、伊藤軍曹等で主として修理部の兵員でいわ隊を構成していました。本来の修理部の仕事は兵器の修理業務ですが、沙河沿では弾薬集積作業をしました。 
私もいわ隊に所属しました。隊長は岸中尉でしたが、沙河沿にはいませんでした。多分、大橋本部に残ったのだと思います。第2幕舎は加藤軍曹他、主として補給部の兵員で構成されていました。補給部の本来の仕事は倉庫で兵器・弾薬の補給業務でしたが、沙河沿では弾薬集積業務をしていました。隊長は多分神田中尉でした。多分というのは顔や姿は覚えているのですが、別の隊の隊長であまり面識がなかったので名前を失念してしまったからです。私の同期寺島曹長の上司であった人です。神田中尉は、岸中尉がいなかったので、沙河沿地区の全体の指揮をとりました。 
 神田中尉、見習士官、網谷准尉は中隊本部の天幕にいました。
 約60名の兵力と凡そ100 名の中国人(当時は「満人」といいました)で、満州各地から送られてくる弾薬の集積作業をしました。具体的には貨物列車で運ばれてくる弾薬を次々と中国人を使っておろし、集積する作業でした。 
弾薬の集積の手順 
 弾薬は驚くほどたくさんありました。みな、貨車で運ぱれてきました。 
これを兵士を含め大勢の中国人が肩に担いで運び野積みにしました。弾薬は土塁で囲んで格納するのが原則ですが、人力も時間も足りませんでした。野積みの場所は大橋駅から奥地の飛行場に到る中間の草原に30メートル位の間隔で積んでいきました。 
地図による当時の記憶の喚起 
 平成16年6月29日から7 月2 日にかけて弁護団とともに現地に行く機会がありましたが、その前に、当時の敦化近辺の別紙地図1から3を見せてもらい当時の記憶を喚起しました。別紙地図1から3は、その昭和8年頃の敦化近辺の地図です。地図1は吉林省全図、地図2 は敦化近辺の地図、地図3は地図2の拡大図で沙河沿付近も示しています。 
 ー番拡大した地図3をもとに私の記憶を説明します。 
 まず、全体の説明ですが、地図左部分に敦化があり、そこから右に平行してやや下ったところに第16野戦兵器廠の本部があった大橋がありました。その上方が弾薬の集積地であった沙河沿のA地区です。私達の宿舎は、A地区のすぐ側にありました。地図は昭和8年製なので、私たちが弾薬運搬に使った大橋からの引込み線は載っていません。当時は、A地区の奥にある飛行場に通じる引込み線がありました。引込み線は、地図上の道路に並行して作られた線路であったと思います。 
 つぎに、当時のことを説明します。地図上のA 区域は毒ガス弾を含む弾薬の集積地があった場所です。弾薬の集積地は臨時停車場から左に広がる草原一帯であったとおもいます。地図上のC区域は、A区域の左下方のあった中国人たちの小さな集落です。また、9月初旬、敦化飛行場に移動する際に私は古参兵1名を連れて、この集落の屯長(村長)と交渉して、マーチョ(馬車)10数台を用意させた思い出がありました。 
 B区域は、すぐ下に川があったのでこの区域が武装解除後約1ケ月駐留していた場所と思います。貨物廠と沙河沿飛行場の現地は確認していませんがA 区域の奥にあったと思います。というのは、終戦命令後に現地住民が私たちの目の前を沢山の物資を担いで運び去るのを目撃した思い出があったかです。荷物は貨物廠から運び出した以外考えられません。われわれは、終戦命令後だったために傍観するほかありませんでした。 
現地調査の結果 
 前述したとおり、平成16年6月から7月にかけて、弁護団とともに沙河沿に行きました。当時の様子を覚えている現地の人の説明を聞きながら当時の記憶を喚起しました。現地の人の説明で当時の引込み線が道路になったことが知らされました。私の記憶では、大橋の位置と沙河沿の飛行場があると思っていた位置の中間くらいの位置に弾薬の集積地をつくりました。その集積地の近くに中国人部落がありました。この部落が戦前からあったことも確認しました。また、前方の山の形も記憶があり、こうした点から地図3のA地区付近がやはり弾薬集積地であると考えました。さらに、幸いなことに、敦化調査の時、当時貨車を運転して実際に弾薬を運んだ人(陳延生さん)と会うことができ、陳さんの弾薬集積場所の記憶と私の記憶が大体一致したので、ほぼ間違いないと思います。 
 C区域の中国人部落で、私は敦化の武装解除地集合の際にマーチョを借りましたので、そのことを覚えている人に会いたかったのですが、残念ながら会えませんでした。 
 地図上のB区域は、調査の時間が無くてよく確認できませんでした。 
というのは、B区域の近くにあったはず川の位置がわからなかったからです。 
毒ガス弾について 
 私は工科学校時代から日本軍が毒ガス弾を保有しているという噂は承知していました。教官の高木二郎大尉は習志野学校で教育を受けたガス弾の専門家でした。国際法上、使ってはいけないことも知っていました。毒ガスの教育を受け演習に参加したこともあります。しかし、実際に毒ガス弾を見たのは沙河沿が初めてでした。しかも大量にありました。こんなに持っていたのかと驚いたことを覚えています。 
 毒ガス弾の格納箱には赤、黄の標識がありました。赤は赤筒と呼ばれて催涙性、クシャミ性の気体性ガス弾です。黄は黄剤と呼ばれている糜爛性のイペリット・ルイサイト等の液体ガス弾です。ガス弾は、格納箱に入っているので、私はガス弾そのものを見たわけではありません。しかし、赤・黄の標識がありましたし、ガス弾が液体の場合、運搬するときにポカポと幽かな音がしました。 
戦争が終わった時の状況 
 私たち沙河沿の部隊は8月15日に終戦になったことを知りませんでした。18日頃、ソ連機が関東軍は既に降伏しているという内容のチラシを撤いていきました。部隊本部からは何の連絡もありません。また、降伏は全く考えてもいませんでした。しかし夜になると周辺の山々から信号弾が上がっていました。周辺の中国人の離反が感じられました。居留民の人から日本は負けたのですかと問われたこともあります。牡丹江は陥落し官地支廠も危ないとの噂もながれてきました。今から考えると、戦争が終わったことを知らなかったのはわれわれだけで、周囲の居留民・中国人・朝鮮人は皆知っていたように思います。しかし、私は軍人ですから外部でどう言おうとも、命令がない限り戦争が終わったことを認めるわけにはいきませんでした。 
 ソ連軍の進撃は急で明日にでも、沙河沿地区も戦闘に巻き込まれると感じられました。沙河沿の部隊は決死隊を編成しました。加藤軍曹が決死隊長でした。隊全体の戦闘態勢も整え、その晩は皆で、豚を殺して、ありったけの酒を飲んで寝ました。 
翌朝(20日か21 日)全員集合の命令があり、出撃命令が下されると思ったところ、隊長から広島・長崎に新型爆弾が投下され、日本政府は終戦を受け容れたと訓示がありました。 その後、ソ連軍の武装解除があるから軍関係の書類等は全部焼却するように指令がありました。このとき私たちは「軍隊手帳」も焼却しました。しかしソ連兵は沙河沿には来ませんでした。 
毒ガス弾の処置命令 
 私は、終戦の知らせを聞いたときガス弾をどうするか、早く処理しなければならないと考えました。というのは、毒ガス弾の所持は、国際法違反で、部隊長は責任を間われ、国の責任になると考えたからです。また、このまま放置すれば、付近の住民に大きな被害があると考えたからです。しかし、膨大なガス弾の具体的な処理方法は、なかなか思い浮かびません。部隊本部からの、一刻も早い指示を待ちましたが本部からも、隊長からも何の指示もなく、全く無為の日を過ごしました。終戦を知らされてから数日後、(多分8月末)昼ごろ、隊長に見習士官、網谷准尉と私が呼び出され、いま大橋の部隊本部から毒ガス弾をすぐ処理せよとの緊急命令があったと伝えられました。命令の内容はなるべく深い穴を掘って全部埋めよと云うことでした。命令を受けた場所は中隊本部の幕舎でした。直ちに、下士官以下を召集して網谷准尉と見習士官から今夜中に全部ガス弾を埋めると伝えて、スコップ・バケツ等の機材を集めさせました。私は弾薬班の下士官とガス弾の場所と埋める場所を確認しました。 
毒ガス弾の遺棄作業 
 遺棄作業は、夜を待ち作業を始めました。夜間に始めたのは周囲の中国人の目があったからだと思います。徴用の中国人は既に帰っていましたので、私たちがやるしかありませんでした。指揮者は隊長の中尉です。 
私と網谷准尉と見習士官と分かれて作業したと思います。昼のうちにガス弾の位置と埋める場所を確認しておきました。ガス弾は赤・黄色の標識があり、一般弾薬と別に集積しておきましたので、月明かりの下ですが場所は容易に分かりましたが、6畳ぐらいの穴をスコップで掘るのは大変な作業でした。穴は、集積した場所のすぐ近くに掘りました。穴は2メートル以上深く掘り、ガス弾を箱のまま並べて積み重ね最後は30センチくらい土を掛けたと思います。朝まで続けて全部で3ケ所くらい掘ったと思いますが、相当数が残り、そのままになりました。 
抑留まで 
 毒ガス弾の遺棄作業をした翌日、大橋の部隊本部から武装解除のため、敦化飛行場に集合するようにとの命令がありました。私たちは一旦、大橋に行ったところ、大橋の本隊はすでに出発して誰もいませんでした。 
 武装解除は9月敦化の飛行場で行なわれました。武装解除と言っても武器をそこにおくだけの簡単なことでした。「陸軍北方部隊略歴」によると、いわ隊とひな隊は沙河沿で武装解除されたと記載されていますが、沙河沿での武装解除はありませんでした。あったのは、前述したとおり8月末停戦後に武器使用禁止命令です。私たちは沙河沿弾薬集積地近くのC部落から馬車を借り武器・装具を乗せて敦化飛行場に集合しました。 
 武装解除後、西沙河沿?の広場に移動し約1ケ月抑留され1000名単位に編成され夫々の経路でシべリアに入りました。私たちは本隊から離れたため別の部隊と合流して牡丹江まで歩きました。1日約40 キ口の行軍が1週間続きました。11月、牡丹江から貨車で緩紛河経由ハバロフスク、コムソモリスクを経てホルモリン地区の収容所に収容され昭和24年8 月帰国しました。 
その後 
 帰国後は、シベリア帰りということで、苦労しました。しばらく千葉で農業に従事したのち、横須賀に移り、叔父の酒屋の手伝いをして、その後横須賀米海軍基地に勤務した後、退職しました。 
沙河沿地区に放置した毒ガス弾のことは帰国後も何時も頭からはな脅れませんでした。帰国時、舞鶴で厚生省援護局の聞き取りはありましたが、ごく事務的・一般的なものでした。毒ガスについては間われませんでした。もっと具体的な聞き取りがあったのは米軍情報部です。2回呼ぴ出されて、日系士官による尋問があり、極東地域のソ連の施設・地形・市役所、警察、郵便局の位置等市街地の様子を尋ねられました。結局、厚生省も米軍情報部もともに毒ガス弾についての聞き取りは全くありませんでした。 
 大分前ですが朝日新聞に敦化周辺で日本軍が放置した毒ガス弾で住民に被害がでているとの記事を見ました。ああ、とうとう被害が起きてしまったかと、暗然とした気持になりました。現地の事情を知る者は申し出るようにとの要請があれば何時でも現地を訪れたいと思いましたが、それもなく、勿論日本政府からの間合せもありませんでした。個人ではどうしたらよいかわかりませんでした。 
最近、陸軍工科学校出身で同じ沙河沿にいた戸口好太郎さんから、知り合いの小野寺利孝弁護士が中国の遺棄毒ガス被害者の救済活動をしていると聞きました。直接毒ガス弾を集積して遺棄した者として、長年、心の底にもっていた想いを実現したいと思い、是非お役に立ちたいと思いました。現地調査の機会を与えられ喜んで参加させていただきました。今回の証言によって被害に苦しむ中国の人々に日本政府の謝罪と救済補償の道が拓けることを心から念じています。 
平成16年10月3日 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

小林利男氏と戸口好太郎氏と敦化市沙河沿の遺棄毒ガス現場へ同行しましたので、後日同行記をエントリーします。

「季刊・戦争責任研究」65号「毒ガス裁判と毒ガス被害者を支える人々の系譜」【再掲】秀逸な映像作品。NHK・ETV特集「隠された毒ガス兵器」

中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・東京高裁陳述書」甲第121号証鈴木智博氏

中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第306号証甲斐文雄氏

中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第260号証興梠治照氏

中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第306号証吉田義雄氏

中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第252号証戸口好太郎氏

(続く)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« [2023-8-19『1945ヒロシマ連... | トップ | 中国大陸に毒ガス弾を捨てた... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

化学兵器問題」カテゴリの最新記事