アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

その後、後醍醐天皇の延元年中、北畠顕家の帰依を承け、南朝の祈願所となる

2017-04-13 09:50:01 | 神仏

何度目だろう

満仲の頃だって南朝が天台宗にぞっくり入ってたって書いたのは・・・。

裏切られたな とことん裏切られた これは根に持つ。

うちの戸籍たらいまわしにしてた連中 どんだけいるんだ いったい。

内務省は直結して関係してる。

宮内庁前身がうちに対してやってる。



過去帖は何度もなくなるし

オタクの本尊は偽物だとさんざん 鑑定士を小ばかにするし

あげくオタク日吉神社から持ち出したでしょ??だって。



持ち出したなどと言いがかりをつけ うちで日吉神社のとこに住んでたことを

まっさら消してそれが子孫にはわからないように細工されてきた。

しかもその細工費用がうちから騙し取った金ときたもんだ。。。。



こーいうことを今のインチキ天皇家は1000年もされるべきだな。

どっちにしろ 天台宗は当時の南朝色などとっくに失せてる。

うちは独立した天台宗と思っていい。



だから本尊が天台宗のヤツだ。

昔は神仏習合もあったわけだし。



価値のない古墳管理に金まわしてる分、あたしが墓整備してやりてぇーと言ってるとこに

金まわしてくんないと困る。うちは国の金だけでなく、稼ぎの金をさんざん騙し取られてる

ので返してもらいたい。



あとここだけははっきりしないと。うちの家系で多田野は継いでない。

なので、北畠軍の金を私物化した多田野は許せない。

うちは偽名で多田野を使っただけ。死んだじいちゃんの遺書でもって断言する。

その多田野だから頼朝傘下は。殺し合いする立場にある。

大嘘はっぴゃくこいて、千年も騙してきた。ブチブチくる いやー たまらん・・・

気が狂う。




光明院 (宮城県丸森町)
(松沢山光明院から転送)
光明院(こうみょういん)は、宮城県伊具郡丸森町にある本山修験宗の寺院。山号は松沢山。同宗派設立以前は天台寺門宗に属した。
歴史[編集]
光明院に伝わる文書には寺の開基が以下のように伝わっている「天長3年(826年)淳和天皇は天下泰平、国土安穏、万民救護、百穀豊穣、願望成就の御誓願によって、慈覚大師に勅を賜る。大師は聖旨を奉じて松沢山の聖地を卜して一宇の霊堂を建立し、不動明王と薬師如来の尊像を謹刻、奉安した。そして勅額を賜り「吉招寺」と号した。大師は詠歌を奉りて「なにほとの 願いありとも 一度は叶たまわむ 祈れ諸人」「煩ひなやむ人々の 身かわりとなりて たすけたまわん」
その後、後醍醐天皇の延元年中、北畠顕家の帰依を承け、南朝の祈願所となる。さらには、天正17年、伊達政宗公の初陣の相馬合戦の際に当山に祈願して大勝利を得た公の一軍は、当山に於いて祝宴を催した。その際に詠まれた歌がある。 「駒とめて しはしいこいの盃を 棒け祈らん 松沢の神」
天和3年に金津大先達東光院(本山派)より宥実法印が来山し中興の祖となる。それ以来、院号を東光院と称する。明治初年に仙台城下大先達良覚院を合併し、更に1947年には一明院の合併によって光明院と改称した。
かつては、天台・真言修験の兼帯道場として山内には五坊の塔頭寺院を有し、外には山王権現、弁財天の守護神を奉じて一山寺院の形態をとどめていた。しかし、二度の火災により堂塔は消失。なお不動堂(現愛敬院)もその一堂であった。
毎年4月29日には、火渡り神事が行われる。宮城県まつり百選に選ばれている。所属山伏神楽が奉納され、七十五善神供祈祷の後、採燈大護摩供に続ぎ火渡りが行われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E9%99%A2_(%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E4%B8%B8%E6%A3%AE%E7%94%BA)

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