香典12万円で騒いでた頃、twitter上で本部職員が「香典の金額指定などない」「大切なのは心だ」などとツイートしていた。
「少なくとも日本の末端では12万円と指示されている」
「もし香典12万円が嘘だというなら、公式に発表すべき」
という意見に対しこの本部職員は
「証拠を出せ」
と強気な発言を繰り返していた。
過度な献金要請に苦しめられる信者の家族に対しても、気持ちを逆なでするような発言を繰り返しており、それが長年統一教会に忠誠を誓ってきた人の家族に対する態度だろうか?と疑問に思った。
本部勤務の二世信者ということで、エリート意識が強いのかもしれない。彼の、暴言吐いては証拠隠滅(ツイート削除)をくりかえす様を度々目撃しながら、仕事中にのうのうとtwitterで遊んでるようなスタッフのいる本部に全国の支部を統括しろといっても無理な話だと思った。
「少なくとも日本の末端では12万円と指示されている」
「もし香典12万円が嘘だというなら、公式に発表すべき」
という意見に対しこの本部職員は
「証拠を出せ」
と強気な発言を繰り返していた。
過度な献金要請に苦しめられる信者の家族に対しても、気持ちを逆なでするような発言を繰り返しており、それが長年統一教会に忠誠を誓ってきた人の家族に対する態度だろうか?と疑問に思った。
本部勤務の二世信者ということで、エリート意識が強いのかもしれない。彼の、暴言吐いては証拠隠滅(ツイート削除)をくりかえす様を度々目撃しながら、仕事中にのうのうとtwitterで遊んでるようなスタッフのいる本部に全国の支部を統括しろといっても無理な話だと思った。
聖和式の献金要請は、広島の場合、聖和式に行っても行かなくても12万円でした。
行ったものとしての素直な感想は、真のお父様のために、捧げることのできた献金なので、感謝です。
我が家の家庭の経済事情を考えれば、その負担は大変大きなものです。無謀とも言える位…。
でも、真のお父様のもとに、飛んでいきたくて、いてもたってもいられなかった…。
真のお父様が大・大・大好きだからです。
金額はともかく、相当額が韓国に渡ったわけですよね?法律的に問題なかったのでしょうか?
彼は、拉致監禁のためにもがんばってますよ。
拉致監禁擁護派のお歴々とも堂々とやりあっています。
拉致監禁被害者にとっては、ありがたい存在です。
まあ、ときたま、ノー天気なツイートをしていてそれが、問題になることはありましたが・・・。
暴言といいますが、ちゃんと丁寧語ですよ。
正直言って、この目安箱の記事の対象になるような人ではないです。
彼は、香典に金額指定はないという趣旨のツイートしたんですよね。
うちの教会では、12万円とはいわれていません。
12数という言い方でしたね。
まあ、ほとんどの食口は12万円と受け取るでしょうが。
でも、私は、教会のスタッフに文句をいいました。
お父様の香典に金額指定をするとは何事ですか~と。
そのスタッフは、私も同意見ですといってました。
やはり、香典というのは気持ちの問題です。
ちなみに私は、弔問にもいってないし、香典は一銭もはらってません。
でも教会からは何もいってこないですよ。
ちなみに私は、まじめに毎週礼拝に参加してます。
それと、二世職員のツイートにがっかりして脱会した人がいるって、これまたびっくりです。
他にも原因があったと思いますよ~
ところで、この目安箱
なかなか画期的なブログだとは思いますが、やはり不平不満の垂れ流しにならないようにしていただきたいですね。
順番があると思います。
なにか理不尽なことがあった場合、まずは現場の責任者にいうのが筋だと思います。
それで解決ければ、本部の相談室。
この相談室に相談する場合も、ただ、相談するのではなくて、◯月◯日までに、回答をいただけない場合は、目安箱に投稿しますと宣言して見てはどうでしょうか?
たぶん、本部の人は、すっ飛んでくると思います。
〉他にも原因があったと思いますよ~
確かにどんなにひどい内容でも、二世職員のツイートだけで辞める人はいないでしょうね。さすがに。
だけどギリギリの精神状態の人たちにとっては、無神経な一言が瞬時に起爆剤になってしまうこともあると思います。もういいや、さよならって。いま、そういう精神状態の食口が少なくないことを、関係者はもっと自覚すべきではないでしょうか。
私は、当初、このブログは、ブログ主さんが義憤にかられて、教会の不正をただしたいというお気持ちで立ち上げたと理解しました。
ですが、この記事のような二世職員の暴言ツイートなんていうのは、それこそ、まず本部に文句をいえばいいのではないですか?
文句をいっても解決せず、暴言が続いているのですか?
読者からのメールの内容を精査せずただ記事にしているというのでは、私は、このブログを評価できません。
人間は過ちを犯すものです。ですが、弁明の機会は与えるべきだし、信仰者としては許さないけでばいけないでしょう。