埼玉は、1日に何回も報告させられます。内容としては、自叙伝配布何冊、聖酒を何人のませたか?APTF会員数、受講件数、復興会数、献金額、礼拝参加……とにかく細かく報告が過ぎて、おばちゃんにはわかりません。「伝道しなければ打たれる」「基元節聖酒の恩恵だけ受けて伝道しないのは許されない」と言われると、体がきつく休みたいと言えません。
そして、年末年始・ゴールデンウィーク・お盆などの大型連休には必ず伝道路程を企画があります。一度、教区の伝道教育部長の小○さんに不満を言ったら、「連休に伝道路程しないと、食口は休んじゃうでしょ。」と言われました。もう、悲惨です。私たちは休む事も許されません。今、統一教会と言って伝道しても、動員なんて本当に難しいです。アベルに相談すると「中心者のみ言に相対すればできる。」「条件を立てなさい。」「祈願書を書きなさい」と言われます。結果が難しければ、17時に集合させられ、延々と分別。ほとんど毎日夕飯は作れません。早く帰れても、疲れてそのまま寝てしまいます。すると、帰ってきた夫から夕飯、洗濯してないと殴られます。ひどい時は早朝5時集合があります。五○嵐地区長は日中は活動して欲しいから、朝集合するのだと小○さんは讚美します。イエスマンの小○が憎く殴りたったです。
いくら、つめられても結果が出ないものは出ません。最終的に小○さんは、「今月中にやると決意して、実績を上げましょう。」と言って地区に報告します。決意しても、まっぱり出ません。Kの報告も、実績が厳しくなると、1時間になります。訪問してても関係ありません。必ずしなければなりません。しないと、電話がかかってきます。出なければ永遠にコールしてきます。ノイローゼになりそうです。だんだんとか報告の数字と現実が、かけ離れてしまい、報告の意味をもたなくなってます。小○さん曰く、それが信仰なのだそうです。アベルは詰めるだけ、カインは労働させられ、結果が出なければカインの責任。
もう私は心も体も金銭的にも限界で教会に行ってません。夫と今、すべて話しました。私がバカでした。こんなアホな組織に天国は作れません。私はアボジは今も信じてます。しかし、統一教会は信じていません。
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不思議よね~?
どうしてこう考えるのかしら?
元は文氏です。
この大元がガンと考えるのが一般的な考え方です。
マインドコントロールされてますよ~。
アボジを信じてます・・・これからも、まぁ続くでしょうし、状況は変わらないでしょう。
よ~~~く、考えましょうね?
今、私も統一教会というのを客観的に調べてます。
それで1つ疑問があります。ナツミカンさんは、アボジをメシヤと信じていらっしゃるのですか?
現役の食口でAPTFの会員であるようですが、アボジを否定してるコメントが度々あるので、よろしければ、そこの考え方を教えて頂きたいです。
色々な方のブログにお邪魔して、意見やアドバイスを頂いたり、コメントして頂いたり、メッセージを頂いたり・・・ですから、形的には現教会員となるのでしょうが、すっかり目覚めてしまいました。
詳しくは、今年2月辺りからの私のブログを追って・・・
確認して頂ければ宜しいかと思います。
混沌とした時期もありますが、「求めよ!さらば与えられん」といった感じですかねぇ~?
パズルのようになっていたものが、突然私の中で繋がって来たのが最近なんですね。
教会が見せたくないような本も何冊も読みました。
ネット検索もよくしましたよ~。
最初の疑問はもう10年近く前かな?
歴史の嘘を感じ始めてからでしょうか・・・。
文氏の歴史観は捏造だと確信し・・・それだけではありませんが、再臨のメシヤではなくただの教祖でしかないと、今は感じている次第です。
とにかく、反対派推奨の本は数冊読んで、取り合えず頭の中に入れ込むようにもしました。
後は、文氏のみ言を丁寧に載せていらっしゃる方のブログを読みまくる事。
子供の将来も掛かっておりますので、必死ですよ~。
・・・参考にして頂ければ幸いです。
変態 (植物) - 植物の器官などが、種の本来の形から大きく変形していること。
相変態 - 金属の組織・結晶構造が変化すること。
変態性欲 - 一般的に健全でないとされる性的嗜好。ただし、何が健全でないかは時代や地域により大きく異なる。
”変態仮面”って知ってました?マンガであるそうですが最近映画化されました。
ある姉妹から指摘されてこの話の裏には興味深い哲学的なテーマが隠されているということでした。それでわたしも送ってくれた解説動画を見ようとしましたが見れませんでした。
そこでほかにもそういう説明がないかと見ていたらある記事でそういう部分を説明しているブログを見つけました。それは、私たちの日常の生活の中にみられる行動や思考様式と無関係ではないということです。
発想を変えて自分を再発見するのに役立つような気がします。抜粋したので興味があれば読んでみてください。
題して<「哲子の部屋」における”メタモルフォーゼ”は何を語っていたのか?>以下がそれです。(引用はじめ)
*<POINT ヘンタイかノーマルかというアイデンティティーを突きつめず、今の自分を肯定することで自身を取り戻すのです>
*「比べてより上、より上と追及するするのではなく、“仮”の状態のこの自分でよいということ。」
*これを良しとする、そうしなければ本当の自分探しをしてもきりがない。
*「中途半端な自分」を肯定することで相手との対決みたいなものから抜け出すことができる。ハンパな仮の自分でよいということ。
* 先生曰く、「途中でやめたり、この程度でいいやと思う方が難しいということがあるんです。
ドゥルーズという哲学者は、大きくいうと同一性ではなくて違い“差異”が大事だと考えた人、言い換えればアイデンティティーよりも“違い”とか“多様性”が大事だと。
揺るぎない自分よりも、さまざまに変態していって自分をリミックスするということだってできるわけです。それが変態するということですし・・・。」と話す。
*「私と言うか言わないかがもはや重要で無い地点に到達することだ。」が現代哲学の根本原理。
*”「何々でなければならない」という呪縛から解放されて、中途半端でいびつな自分でOKする”、ことではないかなぁと思う。」と最後を締めくくりました。
(引用終わり)
この映画の内容のどこが哲学的なのか、その方の指摘があるまで全く知りませんでしたが、記事を読むとなかなか哲学的なことを言ってて奥が深いですね。
というか私は、まさに変態仮面そのものだったような気がしました。
そしてまさしく中途半端な”それ”ですね、私という人間は・・・
以前は統一食口としてのアイデンテティを突き詰めようとマジで思っていてなり切れない自分に葛藤していました。
「真理はこの中にあって完結している」と、どこかで無意識にそう確信していた自分がいたからです。
しかし、時間がたつうちに発展を削ぐいろんな矛盾が教会内で起きている現実を無視できなくなってきて、その組織の中にいる自分が目指すべき理想とのギャップを自覚し始めたわけです。
でも最近の私は・・・・よくよく考えるとそういうものに白黒はっきりさせて無理やりその位置に留まろうとするのではなく、自然に任せ、葛藤を消化しようとしてきました。つまり、否定するかわりに本能的に中途半端な自分を肯定するようになってきたのです。
中途半端なことがあってもいいんじゃないか・・・と。要はその時の自分の対応次第なんだと気が付き始めました・・・主体は相手じゃなくあくまで自分なんだと。
そういう心と相前後して自分を取り巻く状況が変化してきたような気がします。
そういう意味でも20年間務めてきた会社を最近辞めたことは大きな転換点になっています。
そこを辞めてからというもの、空いた時間を使って本読み漁ったり文庫マンガを読んだり、雑誌を読んだり、ネットで調べてみたり、ブログに積極的にコメントしたり、
また他の記事でインスパイア-されたり、考えさせられたり、兄弟姉妹とこうして意見交換情報交換したりと、
先の記事で言うならば以前よりも劇的な”変態”をしつつあるということです。
そしてそれは突き詰めることなく中途半端であり続けることを良しとすることで、未来をも肯定して生きていこうとしている自分というものを感じることでもありました。
だからこういう記事を読むと偶然とは思えませんでした。なにかしらの導きがあるように感じます。相対基準というものですね。
意識することで引き寄せられる状況や運勢というものを今は感じています。
なぜならば日本の食口は”自分の存在意義は、ここにしかないという強迫観念のような思いで”自らを組織に縛り付けてきたと思えたからです。
ではそうやって私たちが思い込んできた統一教会の中の日本食口の存在意義とはなんでしょうか?
それは自分を滅してエバ国家のため、蕩減復帰のため、世界を救うため、という犠牲精神のことです。
それをひたすら信じて10年、20年、30年・・・ところで世界は復帰されたのでしょうか?
日本統一教会は世間に対して地位と名誉を復帰したのでしょうか?真の家庭はさらなる統一に向けて一体化して子女繁殖しているのでしょうか?
自分たちの息子や娘は親を尊敬し、組織に敬意を払い、皆が祝福へ参加したいと望んでいるのでしょうか?
そして立派な三世が生み増えつつあるのでしょうか?また家族にそういった繁栄の恩恵が降り注ぎつつあると実感していますか?
答えはいずれもいいえ。ではないでしょうか。
目安箱のSOSコメントを読むと明らかなように、気の毒な方たちは献金を強要する組織が私を縛りつけていて自分はそこから抜け出られない、助けて欲しいといっています。
しかしそうまでして居続けているのは本当はおかしい。じゃあそもそもあなたは何のために信仰を持ったんですかって話に逆戻りですから。
結局突き詰めていくとそれは自分の思い込み意識の集積だったのです。同時にそう思い込まされてきた意識の集積でもあったわけですが。
なぜそうなってしまっているか・・・・それは他人のアイデンテティー(統一教会で学んできたことや習慣性)を自分で検証し血肉化せずに、
み言葉を一方的にお仕着せられてきたからではないでしょうか?
統一原理はすべて正しくて、自分ではどうにもできないものであり、絶対服従しかありえないものだと。
でなければ自分の心が裁かれて居場所を失くして消滅してしまうと思い込んできたのでは?
そうやって言われるがままに献金を続け、アベルの要求にこたえ続けてきたのではないでしょうか?
だからこれからもそうしないといけないと信じ込んでしまっている。
要求に対する完全隷属化はここで完結したというわけです。組織にとってこんな便利な生きものはない。
(本来はそうじゃない。本来は個人は組織に忠誠を誓い働くかわりに、組織は個人や家族を報酬でもって護ってくれるもの。確認してみてください。
世間から信頼されて発展してきた長い歴史を誇る日本の多くの会社には、いずれもその原理原則が適用されているはず。
その一方で残念ながらこの組織は儒教国韓国の悪しき伝統の枠組で仕切られておりそうでない可能性が高い)
ここは自分の意志における自由も何もない状態に置かれているようなもの。
み言葉を利用した賤眠・奴隷化です。それが正しいことですか?人間の幸福に繋がることなんですか?
み言葉は信者を奴隷化させることが目的ではないでしょう?
神は人間を奴隷にしたくて創ったと我々は教わったんでしたっけ?統一原理で?
違います。
神様は自分と同じ創造主の立場に立たせたかったから人間を創造したと教わったんじゃないですか?
メシアを通して神様から与えられたみ言葉と信者の間にはアベルという存在が介入しています。結局そのアベルのさじ加減でカインの生死が決まります。
アベルが一体化して神に通じていればいいですがどうも見ているとそうではないということがわかってきました。
組織が瀕死の状態なのはそのアベルの責任です。カインじゃない。ましてや平日本人信者のせいじゃない。
最底辺の者はどん底の最貧のさなかで苦労し、その上前をしっかりはねて韓国人の最上部やその氏族は楽をし、ぐっすり眠る・・・
とんだねずみ講理論がここではまかり通っているようです。
ねずみ講は底辺の者を食い物にしたサタンを中心にした崩壊の理論であって、統一原理の説いている神を中心にした発展の法則とは違うんじゃないですか?
原理では個体と全体の二重目的の達成を説いているわけですから、個人が幸せになって全体が幸せにならないといけないはず。
過去の過ちををアベルが反省してカインに正直に告白して、改善するならば、また信じてついていくことも良いでしょう。
でも実際はどうでしょう。実行や告白はおろか反省すらしていません。いや反省の必要さえ感じてない。
むしろカインが失敗した、失敗したんだからもっと苦労して貢げとさらなるムチをもって叩こうとさえしているような状況ではないですか?
責任転嫁もはなはだしい。こんな人間の道理に悖る高圧な態度で忠孝なんか誓っていられますか?どうなんですか?!みなさん。
そんな無慈悲で強欲なアベルであるならば、いい加減カインは立ち止って考えないといけない。このまま好きなだけアベルに搾取され続ける自分でいいのか、と・・・いや。
自分を自分で守らないといけないと気づくはずです。そして自分や自分の家族を護る義務があることにも気が付くはず。
神様のみ旨のために家族や兄弟や自分を殺してしまうような本末転倒な状態になる前に・・・
神様が真に願っていることを思い出すべきです。
奴隷ではなく神が願った創造主の立場とは何ぞや、と・・・
その為にはまず捏造された自虐的歴史観のせいで罪深い自分は貢がなければいけないと思い込んでいる愚かな勘違いを知ることです。
また個人の幸福なんてはなから無視して、組織が組織のために利用している側面が強調されてきたことを知ることです。
(そのためにも目を背けないで”韓国人の実態を知ってください”。眼を見開いて”日本人の神髄を知ってください”)
それを自分が客観的に認知できるようにならないといけないと思うのです。
強制させられるのではなく献金するならしたいと思うこころでしないと!親戚全員が。地域全体が。せめて家族全員が同意して・・・。
そうじゃないですか?私たちに恨みの心はないですか?
恨めしい気持ちがあったらそれはもはや献金ではない。
ヤクザにショバ代を支払わされている一般庶民の上納金です。両班にこき使われ好きなだけ奪われ続けるの生きる糧です。
みんな変態仮面の自問のように「何々でなければならない」という呪縛から逃れて、中途半端でいびつな自分でOKする地点に到達すれば、
自ずと公的な自分と私的な自分の両者を満足させるバランスの取れた幸せな人生を見出せるはずだと思います。
でも、今現在はそのバランスが明らかに崩れています。公的なものという名目で捧げた献金が私利私欲な指導者の物と化し(すべてとは言わないが)、
純粋にアベルの言う通り信仰を貫いている平の食口たちはその連中の私欲の餌食と化しています。さらに連中の欲望は留まるところを知りません。
このままの状態で神のみ旨が成されると平の食口のみなさんは真剣に思っているのでしょうか?
統一原理は焼身自殺や焼身殺人せざるを得ないほど人間を苦しめ追い詰めるものでは絶対ないはず!
どこかで何かが狂ってしまったんです。
まだそれに気が付かないで自己崩壊の崖っぷちでどうしようか迷っている人が大勢います。多分。
第二、第三の公文敦子さんが韓国ではなく、いよいよ日本に登場してしまう日が近いようで気が気ではないです。
今でも十分気色の悪い宗教カルト団体というレッテルをべったり貼られているんですよ。
これ以上なにか尋常じゃないことが日本で起きたらマスコミが騒いで統一もへったくれもあったもんじゃないです。
もちろんそうならないように願ってます。
が、教会指導部のサディスティックなまでの献金要請に応える日本食口の、
限度をはるかに超えた状況が飽和状態に達して今回の焼身事件のような突出した悲劇を招いたとは言えないでしょうか?
そういう一種の霊的警告現象を無視して同じ轍を踏み続けるのならば、おそらくもっと大変なことが日本で起こりますよ。
なにしろ統一教会創始者の一周忌のおひざ元で起こった事件ですよ。これを霊界の成せる業と捉えないわけにはいかないでしょう?
平清は善霊も多いけど、魑魅魍魎な悪霊界のたまり場でもあるのですから。
自分たちがそうならないように各自が今立っている自分の位置を確認する必要があります。
平清にいるはずだけど、もしかしたらいつの間にか遠く漂流されて別の孤島に佇んでいるのではないどろうか、と。
「~でなければいけない」から「~でなくてもいいじゃないか」に・・・
自分を追い込まず(強迫観念の自虐意識)、組織が追い込んでいると思い込まず(責任転嫁)、自分の心を解放してあげてください。肩ひじ張って無理に一線を引く必要はない。
中間位置にたって誰も裁かないで己の真実に欲する心に従う。
統一原理を捨てなくていい、正しいと思うなら。
組織から一旦距離をおいてもいい、正しくないと思うなら。自分に命令するのは自分である。
「何よりも己の良心に従え」、とは文先生のみ言葉です。
(それでも自信がないなら日本統一教会のホームページにある対社会に向けての公式声明文(コンプライアンス)を熟読されることをお勧めします。
要は日本統一教会はカルトじゃなく、世間から信用されるまともな宗教団体になると言ってます)
食口としてのアイデンテティの復帰はそこからもう一度はじめてもいいのではないか。
バックアップは取っておいて、ダウンロードし直す。
そうすることでオルターナティブな自分の個性が蘇ってくる・・・・。”私という個性”は常に流動し、変化し、成長していけるのだからそうであってもいいはず・・・
人はそういう人を本能的に求めているし尊重してくれるのではないだろうか。
ヘンタイという言葉の響きに眉をひそめジャッジする前に、真の意味での変態している自分を肯定すること。
そういう人は陰気というより快活な人。だから運勢はついてくるし、友達や家族もついてくる・・
そうやって本来神様から与えられた創造的な自分を取り戻してください。