愛知と岐阜と弁理士と。あいぎ特許事務所の所長ブログ
岐阜県に住み続け、名古屋市で特許事務所を経営する、地元大好き弁理士。愛知県+岐阜県で『あいぎ』、地域密着の想いを込めて!




 7月1日は『弁理士の日』です!

  今年も「独学の弁理士講座」を監修されている弁理士内田浩輔さんより、弁理士の日記念ブログ企画2019に参加しない?というお誘いを受けましたので、のっかりました。

 今年のテーマは、「知財業界での初体験」

 私が特許事務所に入ってからの各種経験は全て初体験の積み重ねといえます。

 ですので、どれをピックアップしたらいいのか、迷いますね。

  特許事務所を開業したときが一番の変化ではありますが、今回は、知財業界での積み重ねのスタートである知財業界1年目の初体験について書くことにします。

 

<特許事務所への就職>

 私が知財業界に入ったのは、1990年、バブル崩壊直前?の22歳です。

 この業界には、輝かしい経歴をお持ちの方が割と多くいらっしゃいますが、私はそれとは無縁です。

 当時、名古屋大学に通っていたのですが、大きな会社で働くより、小さな会社で働いて、世の中にない面白いモノづくりをしたいと思っていました。

 トヨタ等の地元大企業や研究者を目指す方がほとんど(ほぼ皆)という中、小さな会社で働くことを指向する上で学歴なんて必要ないし、かえって学歴が大企業に行きたいという気持ちを残して中途半端になってしまうぞ!とアホな発想で、大学を中退しました(アホですねー)。

 高校は3年間クラス替えなしの理数科におりましたが、後日談によればクラスメイトの1/4~1/3が中退していたとのこと!そんな変わったメンバーが揃ったクラス(田舎の公立高校ですが)で育ったのも影響しているのか?自分の周りでは、中退は特に珍しくなかったわけです(笑)。

 面白いことに、大学中退した人が経営者になっているパターンが多いのも、後から分かった特徴です。

 知財業界では(大企業さんでも同様だと思いますが)、大学中退というアホは殆どおりませんで、レアな存在ではありましたが、特に不利になった経験があまりないのは、今思えば運が良かったです。

 特許事務所に就職したのは、あくまで偶然です。

 「小さな会社で世の中をびっくりさせる商品を作ってみたい」などと思っていたのですが、地元で「特許事務所」の看板を発見し、「特許?発明するところ?」「なんだか面白そうだな」「事務所っていうくらいだから丁度いい小さな組織に違いない」と、勝手に妄想を広げました。

 その結果、特許事務所が何をするところかもほとんど知らずに、また求人をかけているかどうかも知らずに、特許事務所に電話をして履歴書を送り、面接の数日後にはそこで働いていました。

 なんだか、とんとん拍子で終わってしまった就職活動でした。バブルが弾ける前ということもあり、特許事務所に就職する人が少なかったのがラッキーでした。

 以上が「知財業界での初体験」としての特許事務所への就職の巻です。

 中退のくせに言うのもなんですが、中退して就職したいという人がいても採用側(今の私)としては「いや、それはアカンやろ」と思うわけでして、こんな私に対し、当時、書類通過・面接・採用していただいた能○課長(伏字ですみません。分かる人には分かる)には、今でも感謝の気持ちしかございません。ありがとうございました。←今の自分があるのは、これが一番の出来事です。

 

<手書きの明細書からワープロへ>

 1990年といえば、パソコンも普及しておらず、手書き明細書からやっと日本語ワープロに置き換えられつつある時期でした。

 そのため、特許明細書の補助業務として最初に下書きをかかせていただいたのは、「手書き」の原稿です。

 これが今でも思い出す地獄の日々でした(笑)。

 もともと手書きで文章をかくのは得意ではなかったわけですが、これに加え、特許明細書とは、なんでこんなに難しいんだろうと。

 しかも、添削を受けて、またゼロから手書き原稿の作成という状態でしたので、もう手が疲れていました。このとき、果たして自分はこの知財業界でやっていけるのだろうか?と感じました。

 この不安も、ちょうど日本語ワープロが全員にいきわたることでしたので、手書きは最初の1件だけで、その後は富士通の「オアシス」という当時大変優秀なワープロを使えるようになりました。

 手書きからワープロへの変化は、地獄から天国への大きな変化でした(笑)。

 以上が「知財業界での初体験」としての、手書きからワープロ導入への変化の巻

 

<手書き図面やトレーサー>

 1990年は、図面についても、CADなどという立派なものはありませんでした。

 そのため、実務者が鉛筆等により下書きをし、最終的に図面のプロに仕上げをしていただく形でした。

 最初は、先輩が作成する図面の補助として、お客様からいただいた資料や先輩からの指示に基づいて、手書き図面を作成しました。

 図を書くのはそれほど苦ではありませんでしたが、曲線部分は「雲形定規」を駆使して、何度も書き直しながら完成させていました。

 鉛筆による手書き図面の仕上げは、ロットリング(登録商標)を用いてトレースする仕事です。

 これも体験としてやったことはあるのですが、なかなか難しい。

 もちろん、美しく仕上げる図面職人さん(当時、トレーサーと言われていました)がおりまして、結局はトレーサーさんにバッチリ仕上げてもらうという流れ。当時、本当に上手だなーと感心していました。

 今放送されているNHK朝ドラ(なつぞら)をみると、トレーサーさんのことを思い出します。これぞプロ!という仕事でしたから。

 以上が「知財業界での初体験」としての手書き図面作成の巻

 

 こういうトレーサーさんとか和文タイプ入力の事務方さんのような仕事も、日本語ワープロ、パソコン、CADソフトなどが徐々に入っていくに従い、なくなっていきましたね。時代の流れというのはすごいです。

 ワープロが導入されてからは、手書きの苦痛がなくなって、特許事務所の仕事が大好きになりました。モノづくりではないけど、何かの役に立つことができれば、それでOKです。

 

<1年目の初体験第1位>

 このような手書き体験というものもなかなかの初体験でしたが、1990年、印象に残っている「知財業界での初体験」の第1位といえば?

 1990年といえば、特許庁が世界に先駆けて、電子出願システムを実現した年です。

 当時、電子出願を行うには、専用端末の購入が必須でした。

 今のように汎用パソコンにソフトをダウンロードすれば済むような簡単な話ではなかったのです。

 専用端末は、たしか30年近く前の当時の値段で、500万円以上はしていたような記憶があります。

 中堅以上の規模の特許事務所でないと対応できないという状態で、最初から導入した特許事務所は少なかったかと思います。

 就職先の特許事務所は、そこそこ大きな規模(といっても当時は50人未満)でしたので、電子出願に最初から対応していきました。

 その際、電子出願プロジェクトチーム(名称は忘れてしまいましたが、こんな感じだったような…)にも入らせていただき、紙からデータへと変わるに際して、色々と対策を検討しました。

 そんな感じで、知財業界初(世界初)のペーパーレスシステム化に伴う大きな変革期を、1年目から体験させてもらいました。

 電子出願を可能とするために法令が色々できていまして、それらの勉強までできたのは今でも役立っています(弁理士でも意外と特例法をしっかり勉強する人はいないですから)。

 以上が「知財業界での初体験」としての電子出願対応の巻

 これが業界的には大変大きな初体験で、私にとっても大きな初体験になりました。(読んでいる人にはあまり伝わらないネタですみません)

 

 なんだか、特許事務所就職、ワープロ導入、手書き図面、電子出願など、思いつくことがいっぱいありすぎて、まとまりがなくなったこと、ご容赦下さい。

 書いた自分は、「あー、そういうことがあったな」と振り返る良い機会になり、満足です(笑)。

 最後に、知財業界1年目の初体験を振り返る機会をいただき、弁理士内田浩輔さんに感謝です。

 

 最後の最後に、恒例の求人ネタです(笑)

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