【日本語全訳】村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチ - 47トピックス
私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。
三島由紀夫は小説を自由形式と書いた。
ちょっと前までは、「物語の批評」などと小説家たちは言っていて、村上春樹氏は「嘘を紡ぐプロ」と言っております。村上龍氏も「小説はどうせ嘘だら」とテレビで何度も言われていました。それで直木賞などの選考には「破綻が少ない作品を選んだ」などと言っていた。
嘘とは「真実でない」ということで、救いがある。
他人・第三者というモデルがいた場合、その人の人生を借用してしまうことになる。このとき、固有名詞を変えてフィクションにしてしまえば、誰もモデルがいたことに気が付かない。リアルとして読めなければ特に、だ。感動があったとしても、それは小説家の才能を認めたことでしかない。
また嘘とは「正しくないこと」という意味もある。
正しく書かないことでも救いがある。
たとえば、警察の捜査手順や手法を知っていたとして、それを正しく書いてしまうと、悪人に利用されてしまうおそれがある。
また完全犯罪を正しく書いてしまうことも、悪人に利用されたら社会不安が起こってしまいかねない。
嘘として書いても、小説という物語の中で破綻のないように書く、それが現代的な小説のようだ。
それにしても村上春樹氏の「私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです」という言い方は、あまりにも日本人的であった。スピーチ全体も、戦後生まれの、非武装中立、丸出しであり、世界の現実の前にむなしいばかりだ。
武力放棄することばかり訴えるが、元々の原因、たとえば、拉致誘拐した北朝鮮の非難はなく、原状回復をどうしたらいいのかは全く考えない。
まるで被害にあった人は残念な運の悪い人たちであり、残った人たちが意見の違う他人と非難を仕合うだけ、という日本の状況をイスラエルにまで持ち込んで通用すると考えてしまう。これこそ日本人の限界である。
言わずにはおれない気持ちはわからないではない。
しかしそれにしも、日本人のありがちな思いであったことが意外だった。
もっと大作家としての達観した考えが聞けるか、と期待した方が間違いなのかもしれない。
まあ、イスラエルの聞き手たちには、村上春樹氏のこのスピーチが、犠牲になられたすべての人たちへの祈りである、と思っていただくことを願うばかりだ。
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私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。
三島由紀夫は小説を自由形式と書いた。
ちょっと前までは、「物語の批評」などと小説家たちは言っていて、村上春樹氏は「嘘を紡ぐプロ」と言っております。村上龍氏も「小説はどうせ嘘だら」とテレビで何度も言われていました。それで直木賞などの選考には「破綻が少ない作品を選んだ」などと言っていた。
嘘とは「真実でない」ということで、救いがある。
他人・第三者というモデルがいた場合、その人の人生を借用してしまうことになる。このとき、固有名詞を変えてフィクションにしてしまえば、誰もモデルがいたことに気が付かない。リアルとして読めなければ特に、だ。感動があったとしても、それは小説家の才能を認めたことでしかない。
また嘘とは「正しくないこと」という意味もある。
正しく書かないことでも救いがある。
たとえば、警察の捜査手順や手法を知っていたとして、それを正しく書いてしまうと、悪人に利用されてしまうおそれがある。
また完全犯罪を正しく書いてしまうことも、悪人に利用されたら社会不安が起こってしまいかねない。
嘘として書いても、小説という物語の中で破綻のないように書く、それが現代的な小説のようだ。
それにしても村上春樹氏の「私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです」という言い方は、あまりにも日本人的であった。スピーチ全体も、戦後生まれの、非武装中立、丸出しであり、世界の現実の前にむなしいばかりだ。
武力放棄することばかり訴えるが、元々の原因、たとえば、拉致誘拐した北朝鮮の非難はなく、原状回復をどうしたらいいのかは全く考えない。
まるで被害にあった人は残念な運の悪い人たちであり、残った人たちが意見の違う他人と非難を仕合うだけ、という日本の状況をイスラエルにまで持ち込んで通用すると考えてしまう。これこそ日本人の限界である。
言わずにはおれない気持ちはわからないではない。
しかしそれにしも、日本人のありがちな思いであったことが意外だった。
もっと大作家としての達観した考えが聞けるか、と期待した方が間違いなのかもしれない。
まあ、イスラエルの聞き手たちには、村上春樹氏のこのスピーチが、犠牲になられたすべての人たちへの祈りである、と思っていただくことを願うばかりだ。
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