中学生の頃、ひどく新聞記者という職業に憧れた時期があった。
文章を書いてお金がもらえる、なんてさばけた理由などではなく、ぼんやりと
だが、正義を追究する立場にかっこよさを感じていたのだろうと思う。
今となっては一体どこの世界の話だ、と笑われそうだが、その時のきっかけは
朝日新聞の紙面ではなかったことだけは断言しておく。決して。
岩波ジュニア文庫に似た系統の、四六判の本。著者は、大阪のとある新聞社
で、当時社会部長の職についている人だった。その人ー故・黒田清氏とは、
それからわずか2年後に、高校の図書館で「ブラック・ファックス」を
見つけたことで衝撃的な再会をすることになる。検索をしてみると
集英社から1990(平成2)年初版とあるので、新刊当初に出会ったことに
なるようだ。
彼と仲間の記者たちは、新聞社に在籍中に日々消費されて行く記事だけでは
なく、丹念な取材の集積を数々のドキュメントに昇華させることについて、
他の追随を許さなかった。「新聞記者が語り継ぐ戦争」のシリーズ、
「そんなにかわいく笑わないで」「安宅クルーの再会」といった、実際の
新聞連載記事からスタートしたもの等が角川文庫で発刊される度に
まさに、むさぼるように読んでいた。同世代を扱ったという点で、
「ある中学生の死」は、まだ実家の本棚に残っているはずだ。
けっしてセンセーショナリズムに走ることないその文体には、不正や
歪みに対するほとばしる怒りと、事実を正確に読者に伝えようとする間で
均衡を図ろうとする緊張感に裏打ちされた、揺るぎない力が宿っている。
もうこれらの本が出て20年をこえるものもあるのだが、それが今読んで
も、事実関係や記事を巡る社会的環境は変化しても、ノンフィクションと
しての魅力は全く色あせていないと思うのだ。
タイトルは、1979年1月に大阪市で発生した、当時社会を震撼させたと
言われる銀行立てこもり事件を巡って、犯人、人質と警察、そしてそれらを
取材対象としてかけずり回った新聞記者たちの生の記録である。
「情緒によって本質を伝えたい」
黒田さんがあとがきの標題に残した言葉を、今自分は、表現者として
1人で噛み締めている。
アマゾンでは…、うむ、無い。無念。
文章を書いてお金がもらえる、なんてさばけた理由などではなく、ぼんやりと
だが、正義を追究する立場にかっこよさを感じていたのだろうと思う。
今となっては一体どこの世界の話だ、と笑われそうだが、その時のきっかけは
朝日新聞の紙面ではなかったことだけは断言しておく。決して。
岩波ジュニア文庫に似た系統の、四六判の本。著者は、大阪のとある新聞社
で、当時社会部長の職についている人だった。その人ー故・黒田清氏とは、
それからわずか2年後に、高校の図書館で「ブラック・ファックス」を
見つけたことで衝撃的な再会をすることになる。検索をしてみると
集英社から1990(平成2)年初版とあるので、新刊当初に出会ったことに
なるようだ。
彼と仲間の記者たちは、新聞社に在籍中に日々消費されて行く記事だけでは
なく、丹念な取材の集積を数々のドキュメントに昇華させることについて、
他の追随を許さなかった。「新聞記者が語り継ぐ戦争」のシリーズ、
「そんなにかわいく笑わないで」「安宅クルーの再会」といった、実際の
新聞連載記事からスタートしたもの等が角川文庫で発刊される度に
まさに、むさぼるように読んでいた。同世代を扱ったという点で、
「ある中学生の死」は、まだ実家の本棚に残っているはずだ。
けっしてセンセーショナリズムに走ることないその文体には、不正や
歪みに対するほとばしる怒りと、事実を正確に読者に伝えようとする間で
均衡を図ろうとする緊張感に裏打ちされた、揺るぎない力が宿っている。
もうこれらの本が出て20年をこえるものもあるのだが、それが今読んで
も、事実関係や記事を巡る社会的環境は変化しても、ノンフィクションと
しての魅力は全く色あせていないと思うのだ。
タイトルは、1979年1月に大阪市で発生した、当時社会を震撼させたと
言われる銀行立てこもり事件を巡って、犯人、人質と警察、そしてそれらを
取材対象としてかけずり回った新聞記者たちの生の記録である。
「情緒によって本質を伝えたい」
黒田さんがあとがきの標題に残した言葉を、今自分は、表現者として
1人で噛み締めている。
アマゾンでは…、うむ、無い。無念。
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