Notes3~ヨミガタリストダイアリー

名古屋市在住の俳優/朗読者・ニシムラタツヤの演(や)ったり読んだりの覚え書き

TAKE IT EASY!×末満健一 2011 舞台版「千年女優」ふたたび(1)

2011年01月24日 | 舞台特に演劇
■1月22日。さまざまな雑事を片付けて、16時45分発の「のぞみ」で新大阪へ。コンコースを重い体で横切って地下鉄へ降り、梅田へ。ぎりぎりに劇場に入った。TAKE IT EASY!×末満健一 2011 舞台版「千年女優」に、再び出会うことができた。
■ふたたびは、むずかしい。雪の関ヶ原を新幹線から眺めながら、ふとそんなことを考えた。彼女たちの舞台に初めて触れた2002年の秋の夜、彦根の駅に終電の新快速を降り、名神高速で帰宅する途中にサービスエリアでアンケートを書かずにはいられなかったことや、2年前の1月18日、こちらのエントリに記したように、「カラフル3」に招聘する作品として観に行き、完膚なきまで、という言葉が生易しく聞こえるくらいに心を揺さぶられてしまったことが、今回の上演に観客として立ち会うにあたって、逆に邪魔する要素に転じてしまわないか。もちろんそんなことは杞憂に終わるに違いないと思いながらも、そこはかとない、というにも大げさなくらいにかすかな不安の感触と一緒に西へ運ばれていた。
■一般的に演劇公演において、再演するということに、そのカンパニーが持つ光を見いだすことができる場合と、不幸にしてそうでない場合がある。自分がこれまで出演者として、スタッフとして関わってきたカンパニーの多くは、残念ながら後者の場合が多く、下火になってきた勢いを盛り返すべく企画された公演が、必ずしも成功裡に終えることができず、一層の活動の減退を招くことになってしまった経過を見知っていたがための感触であったのかもしれないとも思う。しかし、上演に立ち会って自宅に戻ってきて、まもなく50時間を過ぎようとしている現在において気付いたのは、それが一種の「若さ」に対する信仰みたいなものに裏打ちされたものだったのかなということだった。
■若さがあることは勢いがあるということであり、それが喪われた後の自分とその仲間には一体何が残るのか。技量を誇るにはあまりに未熟であり、それ以外に今後何を得られるのかがまるで描けないという焦りばかりが募っていたのが、20代の頃の自分ではなかったか。さすがに30代も半ばを迎えるとそういう感触は気にならなくなってきたが、その残滓(のこりかす)が自分の思考と行動に一定の影響を与えているのは、未だに間違いないことのように思う。長々と書いてきたが、そういう自分の感覚が実に鮮やかに裏返してくれたのが、今回の再演「千年女優」だった。つまりはーー「歳を食うって、悪くないな」ということだ。
■藤原千代子とというひとりの女優が拡げる、問わず語りの昔話は、彼女自身のLIFETIMEと、35ミリフィルムのパトローネの中で完結する配役そのものの人生との間を自在に往来する。舞台上に生きる5人の女優は、一瞬でも千代子である時間を持つことのない者も千代子のLIFETIMEを彩る人々として生きるが、瞬間、千代子との間にあるはずの境界が消失し、まるで千代子が複製され、同時に存在するかのような錯覚に陥る。しかし次のフレームでは、何事も起こらなかったかのように、新しいエピソードと新しい千代子が登場し、その周縁にも新たなLIFETIMEが立ち上がる。千代子は次第に老い、回想シーンと今ある現実世界との距離も次第におぼろげになってゆく。そうして積み重ねられたエピソードはやがて、互いの圧力のために崩れかかるが、熟練のパティシエが作るミルフィーユのように、妙のバランスで踏みとどまって新たな輪郭を獲得する。
■私が改めて感じ入ったのは、その輪郭こそが、誰かが誰かを想い、その想いをあくまで貫こうとすることに重なって見えたことだった。重なって見せつけられたことだった。愛憎はある。喜びも哀しみもおかしみも、憐れみも、全てが綯(な)い交ぜになって彼女たちを包み込む。その光景がもたらす、ひとの世の豊かさ、可能性と言ったら良いのだろうか。そこにある歓びを、何か初演には感じ取ることのなかったものとして受け取ったのだった。
■歳を食うことは悪くないと書いたもう1つの理由。それは、上演を目撃した私自身のLIFETIMEとも重なることだ。そのことで、この作品の受け取り方にわりと大きな変化が生じるのではないかと思っていたのだが、かえって深みにはまる(?)効果があったことを、稿をかえて記しておきたい。(この項続く)

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