阿雲の呼吸

 
阿部 敏郎 と 雲 黒斎

かわいいオヤジの、怪しい交換日記

Re:好き嫌い

2010年03月30日 | 阿部 敏郎
えっ?

僕のこと嫌いな人がいるの?

おかしいなぁ、こんなにいい人なのに。

僕のことを一番よく知っている僕が、僕のことをこんなに好きなのにね(笑)



そう言えば僕は、嫌いな人いないかも。

苦手な人はいるけど(たとえば自分の問題を聞いてほしくて仕方ない人とか)、でもその人のことが嫌いなわけじゃない。

金正日だって、もし出会ったら、あのおでこにデコピンのひとつもくれてやりたいけど、別に嫌いなわけじゃない。

もしかして可哀そうな奴かもって思っちゃう。



嫌うって難しいね。

しょせん、みんな自分だしね。


僕らは自分の中の可能性を外側に映し出しているだけだから、そこに見えるのは自分自身であって、自分の中にないものは想像もできない。

うそつきは、人もうそつきに見えるし、裏表がある人は、みんなに裏表があると思ってしまう。


人は人のことを自分本位に想像して決めつけるけど、その想像の素材になっているのは自分自身なんだ。

自分以外は決して見えてこない。

だから自分のことを愛して、光も影も受け入れてしまえば、人を嫌いになることはできないんじゃないかな。



それがわかれば、嫌われることにあまり深刻にならないよ。

だって、所詮は「その人の世界」で起きていることだから。


みんなにいい人やって、みんなから好かれたい、認められたいって思っている人は、もしかしたら自分のことが好きじゃないのかもしれないよ。

だって心底自分を認めていれば、人に好かれたり、認めてもらう必要なんかないもの。


人の思いこみや観念までコントロールできないし。

だから、人がどう思おうと、自分自身を生きていくだけだよね。



とまあ、好き嫌いに関しては、ここまでが初心者コース。



次は上級者コースね。


まずは黒斎クンの質問。



>これ、いったい誰の判断なんだろう。

>だって僕、これを「好きってことにしよう!」とか「嫌いリストにいれておこう」とか、そんなこと決めた覚えないですもの。

>なのに、何かを前にしたとき、「これ好き」とか「嫌い」とか「どっちとも言えない」とか、いろいろ判断できるの。

>この基準って、僕じゃないのだとしたら、誰が決めたものなんだろう…。



実はこのような作用は、自我が自分の存在を確かにするために仕掛けた策略。

決めた犯人は誰かと言えば、それは「自我」。

自我が、自らの生成過程でやっていることだから、もちろん自覚はない。



そのことをちょっと説明してみるね。



実際には、黒斎クンも知っているように自我は実体じゃない。

だからこそ、その存在を確かなものに保っておかなきゃって、それは自我の死活問題なんだ。



もともとは開かれた空間が存在している。

それは空(くう)なる次元で、僕が奨励する怪しい瞑想によって行きつく次元だよ。


そこにおいて自我は存在せず、安心と安定と充足感が意識を満たしている。



ところがそこに、自と他を隔てる分離意識が登場する。

なぜ登場するかは僕のメインブログの、色蘊(しきうん)の章を読んでね。



そうやって自分ではないものを作り出して、それが確かなものならば、それを認識する自分も確かなものって思えるでしょ。


だからその対象を、好き、嫌い、どちらでもない、って分けるんだ。

そうすれば、対象がより確かなものとして感じられるから。



ちょっと難解になっちゃったけど、早い話が自我の生き残り戦略だよ。

しかも動物レベルのね。


自我はその上に、さらに複雑なカテゴリー分けをして、そのようにして作り出した素材を複雑に組み合わせて、自分本位の世界を作り出す。

そしてその世界で泣いたり笑ったりして、幻想ゲームを楽しんでいるんだ。


でも、もうそろそろその幻想から目覚めてもいいころだって、全体意識が感じだした。


だからいま急速に、目覚めへの興味が高まっているんだと思う。

このことについては、もっと詳しく書かないと、なんだかよくわからないよね。


またゆっくり書かせてね。




あっ、そうだ。

いまのうちに言っておくけど、黒斎君デザインの5万円札も嬉しいけど、日本銀行発行の5千円札のほうが、もっと嬉しいかも。





それからね、僕の自我はみんなのことが好きだけど、一番好きなのはコレ押してくれる人です。