えっ?
僕のこと嫌いな人がいるの?
おかしいなぁ、こんなにいい人なのに。
僕のことを一番よく知っている僕が、僕のことをこんなに好きなのにね(笑)
そう言えば僕は、嫌いな人いないかも。
苦手な人はいるけど(たとえば自分の問題を聞いてほしくて仕方ない人とか)、でもその人のことが嫌いなわけじゃない。
金正日だって、もし出会ったら、あのおでこにデコピンのひとつもくれてやりたいけど、別に嫌いなわけじゃない。
もしかして可哀そうな奴かもって思っちゃう。
嫌うって難しいね。
しょせん、みんな自分だしね。
僕らは自分の中の可能性を外側に映し出しているだけだから、そこに見えるのは自分自身であって、自分の中にないものは想像もできない。
うそつきは、人もうそつきに見えるし、裏表がある人は、みんなに裏表があると思ってしまう。
人は人のことを自分本位に想像して決めつけるけど、その想像の素材になっているのは自分自身なんだ。
自分以外は決して見えてこない。
だから自分のことを愛して、光も影も受け入れてしまえば、人を嫌いになることはできないんじゃないかな。
それがわかれば、嫌われることにあまり深刻にならないよ。
だって、所詮は「その人の世界」で起きていることだから。
みんなにいい人やって、みんなから好かれたい、認められたいって思っている人は、もしかしたら自分のことが好きじゃないのかもしれないよ。
だって心底自分を認めていれば、人に好かれたり、認めてもらう必要なんかないもの。
人の思いこみや観念までコントロールできないし。
だから、人がどう思おうと、自分自身を生きていくだけだよね。
とまあ、好き嫌いに関しては、ここまでが初心者コース。
次は上級者コースね。
まずは黒斎クンの質問。
>これ、いったい誰の判断なんだろう。
>だって僕、これを「好きってことにしよう!」とか「嫌いリストにいれておこう」とか、そんなこと決めた覚えないですもの。
>なのに、何かを前にしたとき、「これ好き」とか「嫌い」とか「どっちとも言えない」とか、いろいろ判断できるの。
>この基準って、僕じゃないのだとしたら、誰が決めたものなんだろう…。
実はこのような作用は、自我が自分の存在を確かにするために仕掛けた策略。
決めた犯人は誰かと言えば、それは「自我」。
自我が、自らの生成過程でやっていることだから、もちろん自覚はない。
そのことをちょっと説明してみるね。
実際には、黒斎クンも知っているように自我は実体じゃない。
だからこそ、その存在を確かなものに保っておかなきゃって、それは自我の死活問題なんだ。
もともとは開かれた空間が存在している。
それは空(くう)なる次元で、僕が奨励する怪しい瞑想によって行きつく次元だよ。
そこにおいて自我は存在せず、安心と安定と充足感が意識を満たしている。
ところがそこに、自と他を隔てる分離意識が登場する。
なぜ登場するかは僕のメインブログの、色蘊(しきうん)の章を読んでね。
そうやって自分ではないものを作り出して、それが確かなものならば、それを認識する自分も確かなものって思えるでしょ。
だからその対象を、好き、嫌い、どちらでもない、って分けるんだ。
そうすれば、対象がより確かなものとして感じられるから。
ちょっと難解になっちゃったけど、早い話が自我の生き残り戦略だよ。
しかも動物レベルのね。
自我はその上に、さらに複雑なカテゴリー分けをして、そのようにして作り出した素材を複雑に組み合わせて、自分本位の世界を作り出す。
そしてその世界で泣いたり笑ったりして、幻想ゲームを楽しんでいるんだ。
でも、もうそろそろその幻想から目覚めてもいいころだって、全体意識が感じだした。
だからいま急速に、目覚めへの興味が高まっているんだと思う。
このことについては、もっと詳しく書かないと、なんだかよくわからないよね。
またゆっくり書かせてね。
あっ、そうだ。
いまのうちに言っておくけど、黒斎君デザインの5万円札も嬉しいけど、日本銀行発行の5千円札のほうが、もっと嬉しいかも。
それからね、僕の自我はみんなのことが好きだけど、一番好きなのはコレ押してくれる人です。
僕のこと嫌いな人がいるの?
おかしいなぁ、こんなにいい人なのに。
僕のことを一番よく知っている僕が、僕のことをこんなに好きなのにね(笑)
そう言えば僕は、嫌いな人いないかも。
苦手な人はいるけど(たとえば自分の問題を聞いてほしくて仕方ない人とか)、でもその人のことが嫌いなわけじゃない。
金正日だって、もし出会ったら、あのおでこにデコピンのひとつもくれてやりたいけど、別に嫌いなわけじゃない。
もしかして可哀そうな奴かもって思っちゃう。
嫌うって難しいね。
しょせん、みんな自分だしね。
僕らは自分の中の可能性を外側に映し出しているだけだから、そこに見えるのは自分自身であって、自分の中にないものは想像もできない。
うそつきは、人もうそつきに見えるし、裏表がある人は、みんなに裏表があると思ってしまう。
人は人のことを自分本位に想像して決めつけるけど、その想像の素材になっているのは自分自身なんだ。
自分以外は決して見えてこない。
だから自分のことを愛して、光も影も受け入れてしまえば、人を嫌いになることはできないんじゃないかな。
それがわかれば、嫌われることにあまり深刻にならないよ。
だって、所詮は「その人の世界」で起きていることだから。
みんなにいい人やって、みんなから好かれたい、認められたいって思っている人は、もしかしたら自分のことが好きじゃないのかもしれないよ。
だって心底自分を認めていれば、人に好かれたり、認めてもらう必要なんかないもの。
人の思いこみや観念までコントロールできないし。
だから、人がどう思おうと、自分自身を生きていくだけだよね。
とまあ、好き嫌いに関しては、ここまでが初心者コース。
次は上級者コースね。
まずは黒斎クンの質問。
>これ、いったい誰の判断なんだろう。
>だって僕、これを「好きってことにしよう!」とか「嫌いリストにいれておこう」とか、そんなこと決めた覚えないですもの。
>なのに、何かを前にしたとき、「これ好き」とか「嫌い」とか「どっちとも言えない」とか、いろいろ判断できるの。
>この基準って、僕じゃないのだとしたら、誰が決めたものなんだろう…。
実はこのような作用は、自我が自分の存在を確かにするために仕掛けた策略。
決めた犯人は誰かと言えば、それは「自我」。
自我が、自らの生成過程でやっていることだから、もちろん自覚はない。
そのことをちょっと説明してみるね。
実際には、黒斎クンも知っているように自我は実体じゃない。
だからこそ、その存在を確かなものに保っておかなきゃって、それは自我の死活問題なんだ。
もともとは開かれた空間が存在している。
それは空(くう)なる次元で、僕が奨励する怪しい瞑想によって行きつく次元だよ。
そこにおいて自我は存在せず、安心と安定と充足感が意識を満たしている。
ところがそこに、自と他を隔てる分離意識が登場する。
なぜ登場するかは僕のメインブログの、色蘊(しきうん)の章を読んでね。
そうやって自分ではないものを作り出して、それが確かなものならば、それを認識する自分も確かなものって思えるでしょ。
だからその対象を、好き、嫌い、どちらでもない、って分けるんだ。
そうすれば、対象がより確かなものとして感じられるから。
ちょっと難解になっちゃったけど、早い話が自我の生き残り戦略だよ。
しかも動物レベルのね。
自我はその上に、さらに複雑なカテゴリー分けをして、そのようにして作り出した素材を複雑に組み合わせて、自分本位の世界を作り出す。
そしてその世界で泣いたり笑ったりして、幻想ゲームを楽しんでいるんだ。
でも、もうそろそろその幻想から目覚めてもいいころだって、全体意識が感じだした。
だからいま急速に、目覚めへの興味が高まっているんだと思う。
このことについては、もっと詳しく書かないと、なんだかよくわからないよね。
またゆっくり書かせてね。
あっ、そうだ。
いまのうちに言っておくけど、黒斎君デザインの5万円札も嬉しいけど、日本銀行発行の5千円札のほうが、もっと嬉しいかも。
それからね、僕の自我はみんなのことが好きだけど、一番好きなのはコレ押してくれる人です。