阿雲の呼吸

 
阿部 敏郎 と 雲 黒斎

かわいいオヤジの、怪しい交換日記

Re:馬耳東風

2010年07月24日 | 阿部 敏郎
黒斎クンの言うコミュニケーションって、読者とのこと?

文章の解釈や理解は、その人が持つ言葉の意味範囲のことだし、それは人生経験や、タイミング、感情の様子によっても変わってしまうので、極めて難しいよね。

やはり相互理解というものは、言葉や文字では限界があると思う。

それでも意思が伝わることもあって、100に1つでもそういう現象が起きたとしたら、こうしてせっせとブログを書く行為も、やりがいが出てくるわけで。


僕たち二人は、すでに確認しなくても、コミュニケーションをとらなくても、阿雲の呼吸で通じている事が多いよね。

それは物理的な世界を超えた、ひとつなるところのコミュニオンがなせる業だと思う。

コミュニケーションは個と個の関係だけれど、コミュニオンは全体意識による意思疎通。

そこに共感が生まれ、交感が起こる。

おそらく、この先の高次の文化は、そのようなコミュニオンが底辺に流れているのではと思います。

したがって、これからの時代の流れは、いかに個が全体であることの実感を、個々の人生の中でつかんでいくかだと思う。


そこで僕たちみたいなおせっかいが、せめてその方向性を解説するわけ。

黒斎クンと僕の人生に起きていることは、単にそれだけだと思う。



そんな活動の結果、目指す世界が実現するか否かもわからず、そりゃあ実現したら何億年分も嬉しいけれど、実現しなくてもそれはそれ。

彼方なる意思に反することは決して起きないし、結果を作るのは全体だからね。


でも、彼方なる意思を徹底的に信頼して生きると、人生は考えられないくらいスムーズにシンプルになってくる。

僕がこの活動を始めて25年。

経済的なことや、仕事内容や、家族や、人間関係や、健康状態など、これ以上ないくらいに恵まれてきたけれど、まさに何か大きな力が守ってくれていて、これからも好きに生きろよって言ってくれている。

それが根底にあるから、人生が圧倒的に楽なのだと思う。


要は信頼。

信頼がゴール。

心を開けば、それがゴール。

潔く明け渡せば、そこがゴール。

そのゴールは、いつだって「いまここ」にある。


だからさ、気楽にいこうね。

言葉(スローガン)を持ち運んで自分の行動を決めるのではなく、その瞬間の感応によって、自由自在に生きるだけ。


僕がうまくいってきたノウハウや考え方は、全部無条件に公開してきたし、これからもそうしていきます。

幸せや成功は、運や才能や努力ではなく、ほんの少し意識のフォーカスを変えるだけのことです。

わかってみれば、ものすごく簡単なことです。


この一週間くらい、公私共に忙しすぎて、以前のように日中にブログに関わっている暇がありません。

母の引越し、タイへの渡航準備、そしてたまりにたまった原稿の執筆などなど・・・

コメント管理も、この数日間は信頼する第三者にお願いしていますが、もう少し様子を見て、自分が一番作りたいブログに近づけていく方法を探ってみます。


この50日の休暇は、また新たな気持ちでスタートする、いい機会になりそうです。






とりあえず押してくれたら、二人とも喜びます。

 

馬耳東風

2010年07月21日 | 雲 黒斎
ちょっと「前世」の話からずれてしまうのですが…

こういった類の話って言うのは、本当にコミュニケーションが取りづらいですよね。

と言うのも、話が核心に迫れば迫るほど、「聞き入れたくない内容」にならざるを得ないから。

「認めたくない現実」を認めなければ先に進めない話だから。


受信者側にインプット出来る体制が無い以上、発信者側がどんな表現でアウトプットしようともその意味が通じることはありません。

僕のブログでも書いたことがあるのですが、コミュニケーションってのは「双方向」ですよね。お互いに「理解しよう」という気持ちが無ければ成り立たないワケで。


このこと、阿部さんの著書「一瞬で幸せになる方法」にもありますよね。

第2章の冒頭、「判断せずに人の話を聞く」という話題。

少し抜粋させてください。


*****

話の意味というのは、その人が抱えている現実や、その人が経験から学んできた言葉の解釈によって、様々に違って聞こえます。だから言葉ってのは、すごく危ういものなんです。

人間には言葉以外にも、情報を感知する能力があって、たとえば僕がいま、機嫌がいいのか悪いのか、元気なのか元気じゃないのか、同じ言葉を喋っていても、そういう情報をキャッチする能力を、みんなが持ってる。その能力があれば、言葉では表し切れない情報も、互いに交感することができますね。

やり方としては、まずはその人に興味を持とうとすること。そして、その人に近づこうという気持ちを持つこと。その気持ちをお互いに持ち合えば、同じ空間を共有することが出来て、同じ解釈を共有できて、心が一致した状態になるんです。

僕はよくコンサートなんかやっていて、そう感じる時があります。
 
その時はまさに、それが出来ている。

言葉ってのは不思議で、言葉以上の力、意味がありますね。言葉そのものより、むしろその背景にある意味のようなものが、大事なわけです。

「お前、俺に向かって『馬鹿野郎』って言っただろう、だから悪いんだよ」って怒ってる人がいたとして、でも相手が馬鹿野郎って言ったその言葉の中には、もしかしたら愛が含まれていたかもしれない。

反対に「ありがとう」って言うのも、心を込めて「ありがとう」って言うのと、皮肉っぽく「ありがとう」って言うのとでは、意味が全然違いますよね。表面上の言葉だけでは、判断しきれないものがある。

そういうことが、誤解を生むことも多いんです。

僕は心を込めて、あなたを感じながら、いま何が必要なのかってことを整理していく。あなたのほうは、阿部はいま何を伝えようとしてるんだろう、そのことを感じようとして聞いてくれれば、お互いに有意義な時間を持つことができます。

何を伝えようとしているかを、感じながら聞くということは、言っていることが、合っているか間違っているか、自分にとっていいか悪いか、そういうことばかりを判断しながら聞かないってことでね。

このような態度が何故よくないかっていうと、判断するってことは、すでに自分は答えを持ってしまってる、ということなの。

そうなると、自分の過去の経験や知識以上のものは、入ってこない。

だから一旦自分の判断は脇に置いて、この人はいったい何を言おうとしてるのかなってことを、感じようとして聞けば、何か新しい発見があるかもしれない。

そう言いながら自分で、「そうだよな」って思ってる。結構いいことも、たまに言うんですよね(笑)。そうだよなって、どっかでみんなも思ってるでしょ。そういう気持ちで、時間を共有しましょう。

僕らは通常、自分じゃないものから、いかに自分を守るか、安全でいるかってことを考えています。だから僕たちは、なかなか一つになれないわけです。


*****


まさに、このことなんですよね。

僕のブログの内容も、阿部さんのブログの内容も、一般的な価値観から見たら、なかなか素直に「うん」とは言いづらいものですよね。

「苦しみは、自分自身が生み出しているんですよ」と言っても「そんな理不尽なことがあるか!」って言われちゃうし、「本当はみんなひとつのおなじものなんですよ」って言っても、「そんな言葉になんの意味があるっていうのさ。全然現実的じゃない」って受け入れてもらえないし、「あなたは今以上に幸せにはなりません」なんて話した日にゃ、思いっきりどん引きされちゃうし。

僕たちの言わんとしている意味が通じずに、その人の価値観の中で処理されてしまいます。


まぁ、とはいえ僕も昔はそうでしたからね。あまり偉そうなことも言えないのですが…。


僕ね、学生時代、すごく捻くれてたんですよ。

だから、自分で選んで通っている学校でも、先生に対して「勉強に興味のない俺に、教えられるものなら教えてみな」みたいな態度でね。

教わりたいんだか教わりたくないんだか(笑)。

先生から見たら「おまえ、一体何のために学校に通ってるんだよ」ってなりますわな。


とにもかくにも。結局は、話を聞いてくれる人にしか、お話することは出来ないんですよね。


「聞く」のは簡単。でも、「聞き入れる」のはなかなかに難しい。

スピリチュアル・精神世界うんぬんの前に、日常の夫婦間でだって「聞き入れられない」ってことがありますもん。


 

↑ 押してくれると嬉しいなぁ。(聞き入れてもらえますか?)

Re:Re:前世

2010年07月17日 | 阿部 敏郎
>話されている「内容」の次元と、その話が行われている「状況」の次元に大きな差があるので、そこに矛盾が生じます。

>どうにも話が通じないのは、その「状況」側の次元の認識を保持したまま、「内容」側の次元を理解しようとしてしまうことにありますよね。

>「内容」の側から「状況」を把握することは出来ても、「状況」の側から「内容」を理解することは出来ません。



まったくもって、そのとおり!!

う~ん、黒斎ちゃん、好き、好き!チュッ!



( ̄д ̄;) グゲッ



これって、前世の話だけじゃなく、僕たちが伝えたいと思っていることの全般に言えてるよね。

異論反論の多くが、このギャップから出ている。

でもそのことを言えば、また反論がきて、いつの間にか議論になってしまう。


僕は「砂糖は甘かった」って言っているのに、「そんなはずはない、違う可能性だってある!」って言う人がいるのね。

その人は悪気があるわけじゃなく、合理的思考からそういう結論を導き出している。

あるいは、砂糖じゃないものを舐めておいて、「自分は砂糖を舐めたけど、お前とは意見が違う」と言う人もいる。

でもその人が砂糖を舐めていないのは明白です。

だって、本当に舐めれば、「砂糖は甘い」って言うもの。




さて、前世の話ですけど、


時間も自己も存在しないということを理解すれば、前世なんて言葉は使わなくなる。

でも、時間の中を生きている堅固な実体としての自己が在るとなれば、前世があってもおかしくないことになる。

その堅固な自己が、生死を超えて連続的に生きているというわけだ。


でもさ、その人の自己が、僕の自己だった可能性はないんだろうか。

何を持って、それが自分だと言い切れるんだろう。

その自分って何?


あはは、わからなくなってきた。



僕が言えるのはただひとつ。

砂糖は甘いってこと。


ついでに言うと、「僕はあなたです」





それじゃ、またバトンタッチ(^o^)




押してもらえると、書き手は単純に嬉しいものなんですよ。

 

Re:前世

2010年07月15日 | 雲 黒斎
>こういうことって一言で言い切れない何かが残ってしまうけれど、黒斎クンはどう思う?


前世について一言で言い切れないのは、そのことを語る上で「どの次元を起点にして話を展開するのか」ということによって、結論に大きな違いが生まれてしまうからですよね。


「自我(今現在持ち得ている「自分」という認識)」をベースとした次元から話をすれば、そこには「僕」や「阿部さん」、またこれをご覧になっている「読者の皆さん」という別々のパーソナリティが存在しています。

その次元を起点として話をすれば、「時間も自己もあるのだから、前世(過去の自己)はある」という話になり、

「自己」や「時間」は幻想・観念でしかなく、本来は「全ては一つの同じものである(そもそも分離した自己などない)」、という認識で話を進めれば「前世うんぬんの以前に、生まれ変わる自己そのものがないし、過去もない」という話になります。



阿部さんがお話しされているものの多くは、後者側の次元をベースとしたメッセージですよね。

「時間」「空間」「分離」という認識を超えた次元のお話。

そこには「時間」も「自己」も存在しないのですから、当然「過去」も「生まれ変わる対象」も存在しません。

だからこそ

>だとしたら、なぜ前世などありえましょう。

という結論になります。


しかし、問題となるのは、そのことが語られているのが、「時間」や「自己」の存在が信じられた次元だからです。

話を「順を追って(時系列のなかで)」説明し、それを「語る側」と「聞き取る側」という分離された状況の中で行わざるを得ない。


話されている「内容」の次元と、その話が行われている「状況」の次元に大きな差があるので、そこに矛盾が生じます。

だからこそ、「一言では言い切れない」となってしまうんですよね。


まずは、この「内容」と「状況」の次元の差を、どのように解釈するかという前提を理解しておかなければ、話はいつまで経っても通じないワケですが…

どうにも話が通じないのは、その「状況」側の次元の認識を保持したまま、「内容」側の次元を理解しようとしてしまうことにありますよね。

でも、これはどんなに頑張っても無理な話。

「内容」の側から「状況」を把握することは出来ても、「状況」の側から「内容」を理解することは出来ません。


だから、結局のところ「前世」を理解するためには「前世はない」という次元に立たなければならないワケで…


う~ん。このパラドックス、もう少しわかりやすく説明できないものかなぁ…。




 

↑ このボタンの存在理由? うん、一言では言い切れないなぁ。

前世

2010年07月14日 | 阿部 敏郎
えっ?こんなに長い間書かなかったの?

黒斎くんとは、北海道と沖縄に離れているというのに、なんだかいつも一緒にいるみたな気になっています。



前世からの縁?

それ面白そうだね(^o^)


実は、僕たちは前世で同じ僧院にいたんです。

僕は黒斎くんの兄弟子でした。

あのころ、おなかを減らした黒斎くんに、お饅頭をあげたお返しに、今生では黒斎くんからたくさんのギフトをもらっています。

愛や勇気や・・・な~んてね(^o^)


やっぱり無理無理な話の展開はやめにします。



そもそも、本当に前世ってあると思う?

僕は人生で2回ほど、「あーそういうことか」っていう気づきがあったけど、言葉にしようとするとうまく言えない。

前世って、時間が存在することを前提とした3次元での発想で、過去も未来も思考の産物だという観点に立てば、単なる幻想になってしまう。

なぜ前世という発想が生まれるかといえば、それは我々の存在が永遠不滅のものだということから、きているんじゃないだろうか。


確かに、僕たちの命が永遠の存在であることは、体験的に疑いようがない。

このことは多くの人が感じていることでしょ。


だからと言って、命が永遠だから前世があったとするのは、ちょっと変なんですよ。

そのような考え方は、永遠というものが、すごく長い時間のことだと思っている人のものです。


どんなに長い時間でも、それが長さである以上、いつか終わりが来ます。

終わりが来るようなものは、永遠なんかじゃありません。


永遠とは時間の長さのことじゃないんです。


永遠とは「いま」のこと。


いままでもずっと「いま」だったし、これからもずっと「いま」です。


いま以外に時間はなく、いつも「いま」が永遠にあるだけです。


したがって、永遠とは「いま」のことです。



僕たちの命は身体が消滅してからも残りますが、その命はこの世に一つしかなく、それが無限の形をとりながら、まさに「いま」生まれ滅しています。

そこに連続性はなく、今生においてさえ、継続した自己など存在していません。

だとしたら、なぜ前世などありえましょう。

前世を生きていた「その人ダレですか?」


この人生が夢のようなものだということを見抜けば、前世は昨日見た夢のようなものです。

その夢に、どんな価値があるというのでしょうか。



これが今日の僕の意見です。


こういうことって一言で言い切れない何かが残ってしまうけれど、黒斎クンはどう思う?

このあたりの話題を、交互に語り合うって面白いかも。





またこのブログにエネルギーが戻りますように、応援よろしくお願いします。

 

Re:ユルユル

2010年07月02日 | 雲 黒斎
ども。お久しぶりの更新です。

お言葉に甘えて、すっかりユルユルさせていただきました。

ありがとうございました。

阿部さんもこのところとてもお忙しそうなので、「書けるときに書く」ぐらいのゆったりペースでいきましょう。


>ところで僕たち、いままでに何回くらい会っただろう。

>と言うより、何時間くらい一緒にいたかな。

>おそらくは・・・数十時間だよね。

>生まれてこのかた、まだ数十時間しか会っていない。


そうなんですよね。

そうなんですけど、全然そういう感じがしないんです。

もっと前から、とても親しい間柄だったような不思議な感じです。

もしかしてもしかしたら、前世で付き合いがあったんですかね(笑)

僕、最近まじでそんな気がするんですよ。

この世に来る前から親しかったんじゃないかって。


阿部さんはあまりその手の話はなさらないですけど、どうなんですかね。

やっぱりそういう繋がりってないですかね。

会ったばかりなのに、前からの知り合いの様な気がする人。

逆に、長年一緒にいてもピンと来ない人。

理由は無いけど、そういう感覚って多くの人が経験していると思うんです。


阿部さんがよくお話されているように「人生はすべて決められている」のだとしたら、やっぱりこれにもなにかワケがあるのかなぁ。

馬が合う人、合わない人。

一目会ったときから好きになっちゃう人、いつまでたっても好きになれない人。

そんな人付き合いにおける感情なんかも、あらかじめ決められているんですかね。


「縁」というものを、本当に不思議に思う今日この頃です。


 

↑ ここでお会いしたのも何かの縁。応援いただけると幸いです