阿雲の呼吸

 
阿部 敏郎 と 雲 黒斎

かわいいオヤジの、怪しい交換日記

あけましておめでとうございます

2011年01月03日 | 雲 黒斎




新年あけましておめでとうございます。



「ねぇ黒斎くん。いつ会社やめるの?」


阿部さんにそそのかされて、会社を辞めたのが半年前。

お陰様で、楽しい毎日を送っております(笑)


沖縄・広島・東京・大阪・名古屋…

昨年は、トークライブでも大変お世話になりました。

いつも打ち合わせなしのぶっつけ本番。

唯一それらしいものと言えば、初めてご一緒させて頂いた時の打ち合わせ。

僕がガチガチに緊張している中、舞台袖で呟かれた「僕が『雲 黒斎です』って挨拶するから、黒斎君は『阿部敏郎です』って挨拶してね」っていうこれです(笑)

せっかくなので、年賀状にしてみました。あはは。


実はね、会社を辞めるちょっと前に、ホントに辞めるかどうか考えていた時期があるんです。

どうしようかなぁって悩んでたら、そのとき雲さんに言われたんですよ。

「今からそんなに悩むなよ。本番は、来年からだぜ」って。


何が起きるのかはわかりませんが、その来年が、いよいよ今年になっちゃいました。

わくわくしますね。


とにもかくにも、今年も一年、どうぞよろしくお願いいたします!




 

↑ 本年も、どうぞよろしくお願い致します。

アイデア

2010年09月22日 | 雲 黒斎
田嶋敏郎さん、おかえりなさい。(いまさらw)

>こんな私ですが、AKB48のメンバーに入れますか?

入りたいんですか(笑)


さて、ここ最近、「やっぱり」という感覚でおります。

それは「アイデア」について。

トークライブでも何度かお話させていただいているのですが、このところの自分の状況を照らし合わせてみても、「これは確実だ」という実感を得ています。

長らく広告の現場で色々なアイデアを模索していた日々。

その中で、僕はアイデアを「作りだそう」と必死になっていました。

でも今は、それが間違いだったことに気づきました。

「アイデア」や「理解」というものは、自分の意志で作り出せるものではないんです。

阿部さんも前回の更新で「発明というよりは発見っていう感じ」という言葉にされていましたが、まさにそうなんですよね。

「発見する」、「見つけ出すことができる」、ということは、それらはすでに、先に存在していたということ。

僕(自我)が作り出したものではありません。

すでにあったものを、ダウンロードしてくる感じです。

そして、その何かがあるのは「生命の根源」、「ソース」です。

そこから、いかにダウンロードしてこれるか。

それが、「自我」の仕組みと関連していきます。

「自我(分離意識)」が強まると、その「ソース」とのコネクションが阻まれ、その回線は細く、インターネット創生期のナローバンドの様になってしまいます。

ピーヒョロロ…といいながら、だらだら、少しずつしかダウンロード出来ない。

情報量の少ないデータしか受け取る事が出来ないので、これでは、YouTubeすら見られません。

しかし、一度その分離意識を手放し、「ソース」に身を委ねることができると、急激に回線が強化され、一気にブロードバンドへと変わります。

そうなると、「連続するインスピレーション」の世界に突入です。

どんなことだって可能だ!

心からそう思える状態の中で活動することが出来ます。


ただ……厄介なのは、一旦ブロードバンド回線が確保出来ても、常時そのままでいることが出来ない、ということ。

日々の生活の中で、ひょっこり「自我(分離意識)」が顔を出すと、とたんにナローバンドへと戻ってしまいます。

そうしてまた、しどろもどろ状態に(笑)


「極楽飯店」の連載も、まさにこの行ったり来たりの中で書いています。

書けるときは書ける。

でも、書けないときは、自分でもビックリするぐらい書けない。

で、ナローバンド状態の時に無理矢理書いてしまうと、本来ソースにあったアイデアとの整合性がとれなくなってしまうので、無理に書くと後で辻褄があわなくなっちゃう(笑)

もう少し、「ソース」との繋がりを確保し続けることができるといいのですが、こればっかりはね。

日々精進の、毎日でございます。



 

↑ 読者様との繋がりを確保し続けることもまた、日々の精進でございます…。

不可思議

2010年08月25日 | 雲 黒斎
阿部さん、タイでの長期瞑想はいかがでしょうか。

お邪魔するのもどうかと思いこちらの更新を控えておりましたが、放って置きすぎるのもどうかと思い直し、こうしてキーボードを叩いております。

この記事へのお返事は、帰国後でも構いませんので、気兼ねなく瞑想をお楽しみください。

また気が向いたら、ここで一人、つぶやいてみることにします。


あのね、阿部さん。

最近、ちょっと不思議な感じなんです。

僕のメインブログの話なんですけど、どうもこれまでと勝手が違うんですよ。

実は、「苦しみ」をテーマにした記事を続けていたんですね、その流れで、古くから禅の世界で伝えられていると噂される、ある小話を紹介してみようと思ったんです。

で、折角だから、ちょっと僕なりに味付けして掲載してみようかなって思い書き始めたら、ちょっとどころじゃなくなっちゃって…

書けば書くほど、話が膨れあがっていくんです。

もう、当初書こうとしていた内容からかけ離れて、自分でもビックリするようなアイデアがどんどん入ってくるの。

小説って、そんなに読んだことが無いし、ましてや書いてみたこともない。

全く経験のないことなのに、不思議と言葉が浮かんでくるんです。

その感覚が、自分自身、不思議で不思議で…

もしかしたら、これって阿部さんが『随神』を書いたときに感じていた何かと、同じようなものなのでしょうか?

いい加減結論を書かなきゃって思う気持ちがあるんだけど、パソコンの前に座ると、物語の続きばかりが浮かんでしまう。

これって、一体なんなんですかね。

僕がこういう質問をすると、阿部さんはこう答えるのかな。

「それはね、起きているんだよ」って。(笑)


これがどうなっていくのかはわかりませんが、とりあえず、しばらくは浮かぶがままに書いてみようかと思っています。



 

↑ ゆるすぎる更新頻度ではありますが、ゆるいなりに応援していただけると幸いです。

馬耳東風

2010年07月21日 | 雲 黒斎
ちょっと「前世」の話からずれてしまうのですが…

こういった類の話って言うのは、本当にコミュニケーションが取りづらいですよね。

と言うのも、話が核心に迫れば迫るほど、「聞き入れたくない内容」にならざるを得ないから。

「認めたくない現実」を認めなければ先に進めない話だから。


受信者側にインプット出来る体制が無い以上、発信者側がどんな表現でアウトプットしようともその意味が通じることはありません。

僕のブログでも書いたことがあるのですが、コミュニケーションってのは「双方向」ですよね。お互いに「理解しよう」という気持ちが無ければ成り立たないワケで。


このこと、阿部さんの著書「一瞬で幸せになる方法」にもありますよね。

第2章の冒頭、「判断せずに人の話を聞く」という話題。

少し抜粋させてください。


*****

話の意味というのは、その人が抱えている現実や、その人が経験から学んできた言葉の解釈によって、様々に違って聞こえます。だから言葉ってのは、すごく危ういものなんです。

人間には言葉以外にも、情報を感知する能力があって、たとえば僕がいま、機嫌がいいのか悪いのか、元気なのか元気じゃないのか、同じ言葉を喋っていても、そういう情報をキャッチする能力を、みんなが持ってる。その能力があれば、言葉では表し切れない情報も、互いに交感することができますね。

やり方としては、まずはその人に興味を持とうとすること。そして、その人に近づこうという気持ちを持つこと。その気持ちをお互いに持ち合えば、同じ空間を共有することが出来て、同じ解釈を共有できて、心が一致した状態になるんです。

僕はよくコンサートなんかやっていて、そう感じる時があります。
 
その時はまさに、それが出来ている。

言葉ってのは不思議で、言葉以上の力、意味がありますね。言葉そのものより、むしろその背景にある意味のようなものが、大事なわけです。

「お前、俺に向かって『馬鹿野郎』って言っただろう、だから悪いんだよ」って怒ってる人がいたとして、でも相手が馬鹿野郎って言ったその言葉の中には、もしかしたら愛が含まれていたかもしれない。

反対に「ありがとう」って言うのも、心を込めて「ありがとう」って言うのと、皮肉っぽく「ありがとう」って言うのとでは、意味が全然違いますよね。表面上の言葉だけでは、判断しきれないものがある。

そういうことが、誤解を生むことも多いんです。

僕は心を込めて、あなたを感じながら、いま何が必要なのかってことを整理していく。あなたのほうは、阿部はいま何を伝えようとしてるんだろう、そのことを感じようとして聞いてくれれば、お互いに有意義な時間を持つことができます。

何を伝えようとしているかを、感じながら聞くということは、言っていることが、合っているか間違っているか、自分にとっていいか悪いか、そういうことばかりを判断しながら聞かないってことでね。

このような態度が何故よくないかっていうと、判断するってことは、すでに自分は答えを持ってしまってる、ということなの。

そうなると、自分の過去の経験や知識以上のものは、入ってこない。

だから一旦自分の判断は脇に置いて、この人はいったい何を言おうとしてるのかなってことを、感じようとして聞けば、何か新しい発見があるかもしれない。

そう言いながら自分で、「そうだよな」って思ってる。結構いいことも、たまに言うんですよね(笑)。そうだよなって、どっかでみんなも思ってるでしょ。そういう気持ちで、時間を共有しましょう。

僕らは通常、自分じゃないものから、いかに自分を守るか、安全でいるかってことを考えています。だから僕たちは、なかなか一つになれないわけです。


*****


まさに、このことなんですよね。

僕のブログの内容も、阿部さんのブログの内容も、一般的な価値観から見たら、なかなか素直に「うん」とは言いづらいものですよね。

「苦しみは、自分自身が生み出しているんですよ」と言っても「そんな理不尽なことがあるか!」って言われちゃうし、「本当はみんなひとつのおなじものなんですよ」って言っても、「そんな言葉になんの意味があるっていうのさ。全然現実的じゃない」って受け入れてもらえないし、「あなたは今以上に幸せにはなりません」なんて話した日にゃ、思いっきりどん引きされちゃうし。

僕たちの言わんとしている意味が通じずに、その人の価値観の中で処理されてしまいます。


まぁ、とはいえ僕も昔はそうでしたからね。あまり偉そうなことも言えないのですが…。


僕ね、学生時代、すごく捻くれてたんですよ。

だから、自分で選んで通っている学校でも、先生に対して「勉強に興味のない俺に、教えられるものなら教えてみな」みたいな態度でね。

教わりたいんだか教わりたくないんだか(笑)。

先生から見たら「おまえ、一体何のために学校に通ってるんだよ」ってなりますわな。


とにもかくにも。結局は、話を聞いてくれる人にしか、お話することは出来ないんですよね。


「聞く」のは簡単。でも、「聞き入れる」のはなかなかに難しい。

スピリチュアル・精神世界うんぬんの前に、日常の夫婦間でだって「聞き入れられない」ってことがありますもん。


 

↑ 押してくれると嬉しいなぁ。(聞き入れてもらえますか?)

Re:前世

2010年07月15日 | 雲 黒斎
>こういうことって一言で言い切れない何かが残ってしまうけれど、黒斎クンはどう思う?


前世について一言で言い切れないのは、そのことを語る上で「どの次元を起点にして話を展開するのか」ということによって、結論に大きな違いが生まれてしまうからですよね。


「自我(今現在持ち得ている「自分」という認識)」をベースとした次元から話をすれば、そこには「僕」や「阿部さん」、またこれをご覧になっている「読者の皆さん」という別々のパーソナリティが存在しています。

その次元を起点として話をすれば、「時間も自己もあるのだから、前世(過去の自己)はある」という話になり、

「自己」や「時間」は幻想・観念でしかなく、本来は「全ては一つの同じものである(そもそも分離した自己などない)」、という認識で話を進めれば「前世うんぬんの以前に、生まれ変わる自己そのものがないし、過去もない」という話になります。



阿部さんがお話しされているものの多くは、後者側の次元をベースとしたメッセージですよね。

「時間」「空間」「分離」という認識を超えた次元のお話。

そこには「時間」も「自己」も存在しないのですから、当然「過去」も「生まれ変わる対象」も存在しません。

だからこそ

>だとしたら、なぜ前世などありえましょう。

という結論になります。


しかし、問題となるのは、そのことが語られているのが、「時間」や「自己」の存在が信じられた次元だからです。

話を「順を追って(時系列のなかで)」説明し、それを「語る側」と「聞き取る側」という分離された状況の中で行わざるを得ない。


話されている「内容」の次元と、その話が行われている「状況」の次元に大きな差があるので、そこに矛盾が生じます。

だからこそ、「一言では言い切れない」となってしまうんですよね。


まずは、この「内容」と「状況」の次元の差を、どのように解釈するかという前提を理解しておかなければ、話はいつまで経っても通じないワケですが…

どうにも話が通じないのは、その「状況」側の次元の認識を保持したまま、「内容」側の次元を理解しようとしてしまうことにありますよね。

でも、これはどんなに頑張っても無理な話。

「内容」の側から「状況」を把握することは出来ても、「状況」の側から「内容」を理解することは出来ません。


だから、結局のところ「前世」を理解するためには「前世はない」という次元に立たなければならないワケで…


う~ん。このパラドックス、もう少しわかりやすく説明できないものかなぁ…。




 

↑ このボタンの存在理由? うん、一言では言い切れないなぁ。

Re:ユルユル

2010年07月02日 | 雲 黒斎
ども。お久しぶりの更新です。

お言葉に甘えて、すっかりユルユルさせていただきました。

ありがとうございました。

阿部さんもこのところとてもお忙しそうなので、「書けるときに書く」ぐらいのゆったりペースでいきましょう。


>ところで僕たち、いままでに何回くらい会っただろう。

>と言うより、何時間くらい一緒にいたかな。

>おそらくは・・・数十時間だよね。

>生まれてこのかた、まだ数十時間しか会っていない。


そうなんですよね。

そうなんですけど、全然そういう感じがしないんです。

もっと前から、とても親しい間柄だったような不思議な感じです。

もしかしてもしかしたら、前世で付き合いがあったんですかね(笑)

僕、最近まじでそんな気がするんですよ。

この世に来る前から親しかったんじゃないかって。


阿部さんはあまりその手の話はなさらないですけど、どうなんですかね。

やっぱりそういう繋がりってないですかね。

会ったばかりなのに、前からの知り合いの様な気がする人。

逆に、長年一緒にいてもピンと来ない人。

理由は無いけど、そういう感覚って多くの人が経験していると思うんです。


阿部さんがよくお話されているように「人生はすべて決められている」のだとしたら、やっぱりこれにもなにかワケがあるのかなぁ。

馬が合う人、合わない人。

一目会ったときから好きになっちゃう人、いつまでたっても好きになれない人。

そんな人付き合いにおける感情なんかも、あらかじめ決められているんですかね。


「縁」というものを、本当に不思議に思う今日この頃です。


 

↑ ここでお会いしたのも何かの縁。応援いただけると幸いです

信頼

2010年06月16日 | 雲 黒斎
阿部さん、広島・東京・名古屋と、3週にわたるトークライブツアー、ありがとうございました。

ホントに楽しかった~^^

回を重ねるごとに、楽しさが大きくなっています。

こうした「ぶっ飛びトーク」を心置きなくすることができる機会って、日常生活の中では、なかなか持てないんですよね。

「どこまで話していいのかな?」という風に気兼ねすることなくお話できるのは、本当に気持ちがいい。

まだまだ阿部さんのお話の最中に割って入ってしまう悪い癖は抜けない僕ですが、今後とも、なにとぞよろしくお願い致します(笑)。


ライブでのお話に通じることですが、こうして楽しさが大きくなっている理由の一つが、「信頼」なんだと思うんです。

阿部さんを信頼し、集まってくれた皆さんを信頼し、「おもいっきり話していいんだ!」という安心感がある中でお話をさせていただけることが、本当に嬉しい。

やっぱり、「信頼」と「安心」は直結していて、僕らの幸せを実感させてくれる大切なものですね。


僕たちは日々、心の奥底で「繋がり」や「信頼」を求めている。

きっと、そこに心の安らぎがあるということを知っているんだと思います。

僕たちが持つ「愛されたい」という気持ちは、「私のことを理解して欲しい」という気持ちと同じなんだと思う。

それなのに、人の顔色を窺い、腹を探り、「理解してもらえるだろうか」という不信感の中で生きている。

単純に、そこに苦しみ・ストレスが生まれるだけなんでしょうね。



 

↑ 気兼ねは無用です

ノープラン

2010年06月07日 | 雲 黒斎
ようこそ!ピークも迎えていないのに、既に人気も下り坂との呼び声高い「阿雲の呼吸」へ!(笑)


さて、そんなこんなで昨日無事に大きな対立もなく東京でのライブを終了いたしました。

ご来場いただきました皆様、本当にありがとうございました。

いや~楽しかった!何を話したかは忘れちゃったけど楽しかった!(笑)


いつもの如く、完全ノープランで挑むトークライブ。

毎度、自分自身が何を話すのかも、阿部さんの話がどっちに展開していくのかもわからぬまま始まるものですから、出だしは「大丈夫かなぁ」という不安があったりもするのですが、やってみると自分でも初めて話す内容に出くわしたり、僕自身が話しながら新たな気づきに出会ったりと、何かと説明のつかない充足感を得ることができます。

勿論こうしてブログを書いているときも、書きながらも自分で「お!?これホントに俺が書いたのか?」ということも多々あるのですが、こうして阿部さんと直接お話できるトークライブは本当に自分でも思っていなかった話題になったり、僕の想定外のところからのご質問をいただけたりと、いい意味での刺激が盛りだくさんです。

会を重ねるごとに思うのですが、やっぱり「ノープラン」っていいですね。

あらかじめお話する内容を決めておくと、どうしても自分の想定内に収まっちゃって話が広がらないような気がします。

それよりも流れに身を任せることで、自分を超えた話をすることができる。そんな風に感じています。


さて、そんなこんなで、来週は名古屋。

こうして阿部さんと色々な地を巡れることも、大変嬉しく思います。<(_ _ )>

今後も、日本全国色々な地にお伺いしたいと思っております。

引き続きどうぞよろしくお願いします。


 

↑ 流れのままに。目の前にあるものに抵抗することなく…

Re:コラボ講演会

2010年05月27日 | 雲 黒斎
いや~。

コラボライブ、ホント間近に迫ってきましたね。

もう明日には広島に向けて出発です。

つい先日札幌に帰ってきたばかりなのに。(笑)

来週・再来週もさらに東京名古屋でのコラボライブですね。

二人の呼吸がさらに合うよう、精進したいと思います。(特に、僕の一人語りにならないように。笑)


ところで、コラボにせよソロにせよ、僕がトークライブを行う際、いつも雲さんから頼まれていることがあります。

それは、

(  ̄Д ̄) 『トーク内容を事前に用意しないで欲しいんだ。アドリブでたのむ』

ということ。

(  ̄Д ̄) 『その時・その場において、もっとも適切な情報をその時に伝えるから、事前に何かを用意する必要はない。その時・その場で確実に私の声をダウンロードすることが出来るよう、コンディションを整えていて欲しい』


そんな雲さんの言葉に、僕はなかなか「うん」と返事が出来ないでいます。

どうしても、事前にネタを用意しちゃうんですね。

そう。その行動は「その時、ちゃんとダウンロード出来なかったらどうしよう」という不安があるからこそ。


で、先日東京で開催したライブの前日にも、僕は雲さんから同じメッセージを受けていました。

『アドリブでね』と。

その言葉を無視して、僕はその夜、ホテルの部屋でいつものネタ帳に翌日のトーク内容をしたためていました。

話にストーリー性を持たせ、会全体が起承転結をもってまとめられるよう、その進行を練っていました。

自分でも「よし」と思える出来に満足し、ようやく床につきました。


ところがです。

ライブ当日となった次の日、想定外のトラブルが発生し、結局僕はそのノートを忘れて出かけてしまう羽目に。


(;`Д´) 「く…。なに、強制的にネタ帳をとりあげられた様なこの感じ…」

(  ̄ー ̄)ニヤリ


そんなこんなで、結局アドリブで進行することになってしまいましたとさ。(笑)


そんなライブを終えた直後、『神との対話』の著者であるニール・ドナルド・ウォルシュさんとお会いする機会があってですね、そのことに関して少しお話をしたんです。

世界各国で沢山講演活動をされてますが、その講演内容って、事前に用意したものなんですか?それとも、アドリブなんですか?って。


そしたらね、やっぱり「アドリブです」って仰ってました。

ウォルシュさんにお伺いしたら、講演中は執筆中と全く同じ状況で、常にダウンロード状態なのだそうです。

きっと、阿部さんもそうですよね?


「僕も、ノッているときはそうなのですが、なかなか『常に』というふうには…」

そう言ったら、ウォルシュさんは「とにかく続けることですよ」とアドバイスしてくれました。

筋トレで筋肉が太くなるのと同じで、ダウンロードを続けることで神様との回線が太くなると。

「だから、私もいまだ毎日朝起きてから、決まった時間に執筆しつづけています」って。


やっぱり、阿部さん同様、みなさん仰ることは同じですね。^^;


 

↑ 継続は力なり。

脳と言葉

2010年05月18日 | 雲 黒斎
>思考を司る脳は、大脳新皮質。
>そして覚醒体験は、原初的な脳である脳幹体験だと思って下さい。


あ~~~~。

これ、わかります。


ちょっと話はずれますが、「脳」がらみで思い出したことがあるので書かせてください。


こういう発言をすると、また神秘体験的な誤解を招いてしまうかもしれませんが、書いてみます。

その体験によって、僕の中で決定的に変わったものがいくつかあります。

一つは価値観。

表現が難しいのですが、僕はこれまで、この価値観の変化を「裏返る」と表現していました。

その「価値観の裏返り」によって見た世界を、メインブログで綴っています。

上記はこれまでもブログを通してお話してきたことですが、そのほかにもどのように伝えたらいいのかわからない変化が2つあります。

一つは「脳」、もう一つは「言葉」です。

「脳」に関してはその変化を体感として味わいました。

脳の構造自体には変わりありませんが、シナプス(ニューロン間接合部)の繋がりが劇的に変わったように感じます。

バラバラだった情報が、瞬く間に一つに繋がる快感。

それはまるで「ずっと解けなかった知恵の輪が不意に外れた時の気持ちよさ」を何倍にもしたような感じでした。

そして、そのシナプスの繋がりの変化に伴って変わったのが「言葉」でした。

特に古くから使われている慣用句や四字熟語などは、その言葉の奥深さに数々の感銘を受けました。

「この言葉って、ホントはこういうことだったのか!」

そういった、言葉や意味への気づきが怒濤の勢いで続きました。


自分が思っていたものとはまるで違う本来の言葉の意味。

それを知ったとき、言葉というツールの持つ奥深さと危うさを、同時に知りました。


(  ̄Д ̄) 『言葉は意味ではない。言葉である』


その時聞かされたこの言葉が、僕の中でとても大きなものとなっています。


 

↑ これとの縁も、とても大きなものとなっています。