阿雲の呼吸

 
阿部 敏郎 と 雲 黒斎

かわいいオヤジの、怪しい交換日記

悟りの瞬間

2010年03月13日 | 阿部 敏郎
池上ケン太?

知ってるよ、狼少年ケンの本名だろ?

同世代って共通の話題があって楽しいね(^o^)




さてここからは昨日の黒斎クンの記事を受けて・・・



>この「声」って、「声」じゃないですもんね。

>「声」で膨大な情報を受けるには時間が必要になるけど、信じられないほどの情報量が時間を超えて一瞬で届くんだから、やっぱり「声」じゃない。



そうなんだよね。

声としか書きようがないから声って書いたけど、実際には瞬間の理解のようなもの。

僕らの思考は一度に2つのことは考えられなくて、平面的機能、言わば二次元的な存在だけど、その瞬間の理解は、いきなり立体の全体像を見せられちゃう感じ。

立体の中には平面が無数にあって、だから無数の情報が津波のようになだれ込んでくる。

「あっ!わかった!!!」ってね。



>そしてその時は、その声を「発する側」も「受け取る側」もないときている。

>「自分がない」、「すべてはひとつ」なんだから、主も従もあるわけがない。



そこも大切なポイントだね。

いわゆる悟りと呼ばれている現象は、主客を超えたひとつなる境地であって、自己が消えた時に「いまここ」にあるものだけど、それを体験する自己はいない。

だから「私は悟った」とは言えないわけ。

「私」がいないんだから。

じゃ、それを認識するのはいったい誰だろうっていう疑問が残るけれど、そこはこの世の言葉では説明不能で、あえて言えば神かもしれない。


「知る者は言わず」

「言う者は知らず」

と言われる所以も、そんなところにあるのかもしれない。


でも誰かが言わなきゃ、何も始まらない。

だから僕らはピエロの役を引き受けて、言えないことを言おうと奮闘しているのかもね。



>で、こういう事を書くことも、ちょっと躊躇しちゃうところがあるんですよ。

>ホントはとてつもなく身近な話なのに、まるで自分とかけ離れた世界の事を話しているように見えちゃうから。



これもまったく同感。

本当のスピリチュアリティーというのは、ただ当たり前の地表に立つことで、自分の当たり前さを、当たり前に受け入れることだからね。

それなのに長い歴史の中で、宗教的な搾取が行われ続けて、この世には凄い人がいるんだから、未完成なお前たちは、言われた通りにしてそこに近づきなさいって教えられてきた。

そのために、何か特定な拝み方だとか、特定な生活態度だとかを強いられてきた。


それが、僕たちを真実から遠ざけてしまった。

だって、誰もが初めから完ぺきで、みんな同じ価値の存在で、この世には特別な人なんかいたことがないんだから。

それは釈迦やキリストも含めての話だけど、こういうことを言うと神への冒涜って言われちゃうから始末に悪い。

これからは、宗教的幻想をいかに壊していくかだと思うけれど、それは僕ごときが発言しても説得力がない。

したがって、向和尚(臨済宗教学部長)のような人が、その役目を果たすべきだと考えているわけ。


そのうちここに向さんにも登場してもらおうね。



そんなわけで、またバトンを渡します。




今日もここに来てくれてありがとうございました。


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