阿雲の呼吸

 
阿部 敏郎 と 雲 黒斎

かわいいオヤジの、怪しい交換日記

続・交信

2010年05月11日 | 雲 黒斎
どこまで「言葉」で通じるかはわかりませんが、この「交信」をもうすこし踏み込んでお話したいと思います。


前回お話させていただいた通り、それは時間を超えた一瞬の出来事です。

ですから、厳密には「やりとり」ではありません。

あるときの僕は「黒斎」であり、いわゆる「交信中」の僕は、「黒斎」であると同時に「雲」になっています。

通常、これまでの人間が捉えられていた次元に生きる僕を「黒斎」としたときに、「黒斎」からは認識出来ないが、別次元に同時に存在している「雲」があります。

「交信」とは、通常認識で分断されていた「黒斎」と「雲」の次元を隔てる壁がなくなり、黒斎側の次元において「雲」の存在を自覚出来る状態の事を指しています。

もしくは、「黒斎」と「雲」が繋がってるホースの詰まりが無くなった状態とでも言いましょうか。


文字を使って無理矢理「図」にすると…


覚醒前が

【黒斎】■■■■■■■■■■【雲】

と、パイプが詰まり行き来出来なくなっているのに対し、


覚醒中(啓発中)が

【黒斎】==========【雲】

というように、ホースの詰まりがなくなっているような感覚です。


で、この話の重要な部分は、ホースが詰まっていようがいまいが、誰もが皆「別次元の自分と繋がっている」ということです。

【この世】     【あの世】

との間に、ある日突然どこかからホースが現れて

【この世】=====【あの世】

となるわけではないんです。

【この世】■■■■■【あの世】

と詰まりはあれど、回線(ホース)そのものは、元から存在していました。


で、そのホースを詰まらせていたものが「思考」でした。

自分の抱える苦しみに耐えきれなくなり、すべてを明け渡したその瞬間、自分の中から「思考」が無くなるという経験をはじめてしました。

それを「目覚め」と呼んでいます。


そう言えば、以前のコラボライブでこのことを『「ナローバンド」から「ブロードバンド」への移行』という例えでお話したことがありましたね。

「覚醒前がナローバンドであった僕が、目覚めを経験したとたんにブロードバンドに切り替わったようだ」と。


この感覚で言えば、たぶん阿部さんも同じような感じ方をされているのではないかと思うのですが、いかがですか?


 

↑ 汝、ホースとともにあらんことを。(スターウォーズっぽく)

交信

2010年05月06日 | 雲 黒斎
>黒斎クンにとっての雲さんとの交信がどのようなものであるのか、時間がある時にでも教えてください。


これについては、メインブログの方でも以前何度か説明してみようと試みたことがあるのですが、なんともはや、どうにも説明が難しくて……

それこそ「超個人的」なことで、僕の体感が、そのまま他の人にも当てはまるということでは無いような気がするんです。

また、それを言葉に置き換えた時に生まれる解釈の齟齬からも逃れられません。

だからこそ、「僕がどうなのか」よりも、実際に誰もが「それ」を体験できる何かを示したいんですけど、今のところ瞑想以外に「これ」と言えるものが見つからないんです。

で、その「瞑想」も、「神」と同じぐらい誤解の多い言葉ですからね。これすらも言葉で説明するのは困難です。


そうは言っても、その「言葉にするのが困難な事をどうやって言葉で伝えていくのか」というこのことこそが僕らの腕の見せ所ってことなのでしょうから、頑張ってみますか。(笑)


「交信」は、ある日突然、なんの前触れもなく始まりました。

プロローグ的なものは、僕のブログや本でお話させていただいた通りです。

それ以前に、宗教やスピリチュアル・精神世界に興味があって勉強していたワケではありません。むしろ、そういったアレコレを懐疑的に眺めていた側の人間です。

特殊な修行や、瞑想習慣があったわけでもありません。徳を積むというようなこともなく、慈悲深い人間でもありません。むしろ、精神や身体に悪い事ばかりをしてきた側の人間です。

そんな僕が、ある日突然、繋がっちゃいました。

「何と繋がったのか」ということも、ぶっちゃけ上手く説明できません。

一応「守護霊(雲さん)」ということにしていますが、「それ」をなんと呼ぶのが正しいのかも、正直よくわかりません。

ただ、明確にわかっていることは、「それ」は「僕以外の何か・僕とかけ離れた何か」ではないということです。

ですから、それを「交信」や「対話」と呼ぶのであれば、僕は、他ならぬ僕自身と交信・対話している、という事になります。

「じゃあそれはただの独り言じゃないか」となってしまうのですが、その時僕が得る情報は、僕の知り得なかった情報や、僕の想定外の返答だったりするので、明らかに「独り言」の範疇を超えてしまうのです。

「交信の相手」がいる、とも言えるし、いない、とも言える。

これが、言葉にしたときに生まれてしまう一つ目の「矛盾」です。


もう一つの矛盾は、以前お話したとおり、そのやりとりが、「時間の概念を超えている」ということです。

「やりとり」は一瞬の出来事なので、実際には「やりとり」ではありません。

「やりとり」には通常、「行程」や「時間」が必要となりますが、そういったものが一切ありません。

何も挟まない、クリアでダイレクトな体験です。



こういった話が、その体験をしていない方々に、いったいどれほど通じるものなのか、それが掴みきれないのです。



 

↑ 意味があると言えばあるし、ないと言えばない。でも押して欲しいというこの矛盾、掴んでもらえますか?

答辞

2010年04月24日 | 雲 黒斎
祝辞、ありがとうございました。

いつもは「スーパードライ」を気取ってポーカーフェイスでいる私も、頂戴した『淡麗生』の合い言葉に、思わず満面の「エビス」顔となってしまいました。

こうして会社を辞め、自分のペースで生活することが可能となった今、忙しさを理由に定期的なブログ更新を出来ずにいた僕も、これでようやく「キリン」の如く首を長くして更新を待ってくれていた皆様のお気持ちにお応えすることが出来そうです。

これからは毎朝の瞑想も出社時間を気にせずに行えるため、阿部さん同様「一番搾り」のメッセージを配信できるよう精進したいと思います。


( ̄ー ̄) ←上手いこと言ってやったでしょ的な面持ち。


とはいったものの…

一人で全部やらなきゃいけないってのも結構大変ですね。

いえね、先日いよいよソロトークライブの受付をはじめてみたのですが…

想像していた状況と全然違って、えらい大変なんですよこれがまた。^^;

もうちょっと要領よく出来るつもりでいたんだけどなぁ…

定員はコラボライブ時の4分の1程度のものなのですが、それでももうてんやわんやで。

これまでコラボライブの受付は阿部さんにおんぶにだっこ状態でしたが、自分でこうして大変さを経験した今、これまでお任せしっぱなしにしていましたことを深く反省するとともに、今後も益々おんぶにだっこ状態でお任せしっぱなしにしようかと画策しております。(笑)


さて。

受付処理の続きをせねば…


と、いうことで、それではまた! (* ̄▽ ̄)ノ



 

↑ 人知れず「ギネス」を目指しています。

戸惑いと勢いと

2010年04月19日 | 雲 黒斎
阿部さん、お待たせいたしました。

僕のサラリーマン生活も、残すところあと二日。

今日明日の出社を持ちまして十数年お世話になった会社に別れを告げることになりました。


一応僕もクリエイターの端くれですので、実は以前から「独立」という響きに憧れがありました。

「もしも願いが叶うなら、いつか今の会社を辞め、独立起業してデザイン事務所を立ち上げる」

かつて、そんな夢を少なからず抱いていた僕ですが、まさかこんなカタチで会社を辞め、事務所を構えることになるとは夢にも思っていませんでした。(笑)


北海道の広告制作業界はこのところ動きが活発で、ちょっとした独立ラッシュみたいになっています。

ちょうど僕と同い年ぐらいの力のあるデザイナー・ディレクター達が次々と新しい会社を立ち上げているんですね。

だから、業界的には「実は、もう少しで会社をやめます…」といった話をすると、「お!いよいよ独立?おめでとう!がんばってね!」と言った方向に話が進む事が多いのです。

なのですが…

僕の場合「実は、もう少しで会社をやめます…」といった話をすると、「え!?やめて大丈夫なの!?」と、今後の心配をされてしまうんですね。どうも、僕のキャラクターと「独立」ってのは結びつかないみたいで。(笑)


そんな、どちらかというとサラリーマン生活が似合う僕が、勢いに任せてノープランで飛び込んでしまった新生活。

ましてや数年前まではお先真っ暗で、何の希望も見出せずにいた僕が、こんなことになっているとは。

人生ってのは、つくづく分からないものですね。

はてさて、これからどんなことになっていくのやら。

思わぬ方向に進んだ際は、「あの時、阿部さんにそそのかされたから…」と阿部さんに責任転嫁する準備も万端です。(笑)


そんなこんなで、明後日からは僕の生活も心機一転。

阿部さん、そしてこのブログをご覧の皆々様。

今後も、これまでと変わらぬご厚誼、ご支援をくださいますようよろしくお願い申し上げます。



 

↑ 黒斎君の新たな門出を祝って!

パターン

2010年04月10日 | 雲 黒斎
その「理解」は、決して難しいことではありません。

阿部さんが仰るように、あまりにも当たり前すぎて気づかなかった単純なことへの気づきです。

あまりにも単純で、あまりにもシンプル。

それほどまでに単純なことなのに、自我の努力でそこに到達できない原因は、その単純さゆえでしょう。

自我は、自分の枠内でしか物事を捉えることができません。

そして自我には、自分が捉える事が出来ない領域に対して行う、いくつかの典型的な反応パターンがあります。


1.「目覚められないのは、自分の能力の低さに原因がある」と思い込んでいるパターン

このパターンは、「自分にそれを捉える事ができないのは、そのことがとても難しいことなのだろう」という錯覚から生まれます。

その錯覚を起点としているため、「目覚め」のために「難しい事を解釈できるようになろう」という努力になりがちです。

しかしながら「それ」は「難しい」ことの対極にある「簡単さ」の中に存在しているため、努力すれば努力するほど「それ」から遠ざかってしまいます。

これまでいろいろな宗教で誤って語られてきた「修行」の数々が、これにあたります。

「これをして徳を積みなさい」「これをして自分の愚かさを正しなさい」

そうやって「自分を高め、霊的な垢を落としたのちに、やがて目覚めは訪れるのです」という未来思考。

これ、言葉を変えれば「神との取引」です。

「神様、ボク、いい子にするから幸せにしてください!」という態度です。

しかしながら、よくよく考えれば、これほど馬鹿馬鹿しいこともないですよね。

なんだってわざわざ「取引によって人を幸せにしたり、不幸せな目に遭わせる、懐の狭い神様を崇めようとしているのか」ってことですよ。

神様って、「お前はいい子だから天国にいさせてあげよう。お前は悪い子だから地獄でアタマを冷やせ」なんて、そんな意地悪しますかね。(笑)

どうせ偶像を作り出すなら、どんな悪い子にだって「よしよし。もう牙をむかなくても大丈夫だよ。君のこともちゃんと愛しているからね」って抱擁してくれる、そんな神様を崇拝すりゃいいのに。


2.「そもそも自分が捉えられない領域などない」と、その領域の存在そのものを受け入れないパターン

仏教で言われるところの煩悩の一つ、「疑」に近いニュアンスかもしれません。

「目覚め」という状態そのものが理解できないので、「そんなのは嘘だ」と、話に聞く耳を持てない状態。

かつての僕がこの状態でした。

「霊」や「神」等と言った単語があるだけで、そこに「いかがわしさ」を感じ拒否反応を示していました。

そもそも聞く耳を持っていないので、その手の話の場に参加するとしても、単に自分の持つ「受け入れられない理由」を一方的に表明するのみですので、話を続けたとしても相互コミュニケーションにはなり得ません。


3.とにかく自分の枠内において理解しようと四苦八苦するパターン

自分の知り得なかった領域を、自分の知り得る範囲内で理解しようとしてしまうパターンです。

まぁ、その気持ちもわからなくもないですが、よくよく考えれば絶対に答えにたどり着けないとわかる道のり。

その愚かしさは、海外旅行の醍醐味を、なんとか日本国内で味わおうとするのに似た滑稽さです。

枠外のことは、枠内で理解することはできません。


文章にする分には、こうやって簡単にいくつか書き出す事ができるものですが、しかしながら、やっぱりこの話が通じないことが多いんだよなぁ…。




 

↑ さぁ、枠の外へ!

理解

2010年04月08日 | 雲 黒斎
>去年の1月に、二人で初めてコラボ講演会やったよね。
>黒斎クンにとっては初めての講演会だったわけだけど、正直言ってあんなに喋れるとは思わなかった。
>あがっちゃってシドロモドロの君を、僕がさりげなくリードする様を思い浮かべていたのに、始まってみたら、喋るはシャベルは。
>まるで数十年分の知識が、堰きを切ったように湧き出してきたね。
>あの姿を横から見て、頼もしいなと思ったのと、少しつまらなくなったのと(笑)
>でも、やっぱり黒斎クンは、伝えたいことが山ほどあるんだなって思ったよ。


あはははは…

その節は、というか、たぶん毎度の事ですが、大変ご迷惑をおかけしております(笑)。

こればかりは、実は僕自身も不思議なんですよ。

阿部さんはいつも間近で見ているから既にご存じだとは思いますが、毎回毎回ライブの直前はめちゃめちゃ緊張していて、「これを話そう、あれを話そう」なんて考える余裕はないんです。

だから、「伝えたいことが山ほどある」ってワケでもなくて、むしろ真っ青になりながら「大丈夫かなぁ…、ちゃんと話せるかなぁ。っていうか、何話したらいいんだろう…」って具合。

でも、いざライブが始まってしまうと、あの調子で。

自分自身でもびっくりしてしまうほどのマシンガントーク(笑)。

で、そうして話し出すと、なぜだかキャラクターも真面目でね。

気の利いたジョークとか、下ネタとか、そういったゆるい感じが、なかなか出てこないんです。

ブログの印象だと、どちらかというと僕が「おちゃらけ」担当で、阿部さんが真面目でって感じだと思うんですけどね、なぜだかライブだとその立ち位置が逆転してしまっていて…。

なんでですかね、あれ…。

まぁ、謎は謎のままですが、これからもどうぞよろしくお願いします。


さて、今回の話題は「目覚めの自覚」についてでしたね。

僕としては、以前お話したとおり「私は目覚めたんでしょうか」と聞く人は、目覚めていないと思っています。

ただ、その目覚めに行き着くまでの「経過」には、人それぞれの違いはあると思います。

「バッ!!!」と、絶大なインパクトを持って目覚める人、ジワジワと目覚める人、起きかけてまた眠りに入ってしまう人…

十人十色でいろんなパターンがあると思います。


でも、その経過がどうであれ、目覚めている人は目覚めているし、夢の中の人は夢の中。

やっぱり「私は目覚めているんでしょうか?」という質問が出てくる時点で、目覚めてはいないと思います。

目覚めていれば、誰になんと言われようと、疑うことなく目覚めているという確信があるはずです。


と、言いますのもね、この「目覚め」や「悟り」と言われるものを、もっと身近な言葉で置き換えるとしたら『理解』だと思うんです。

目覚めると同時に、そこには夢の中では経験しえなかった、研ぎ澄まされた「洞察」や、あらゆることに対しての深い「理解」が生まれます。

「これは、こう言うこと」「それは、そう言うこと」、そういう風に、あらゆる事が見通せている状態。

そういった状態こそが「目覚め」と呼ばれるものだと思うのです。

だからこそ、そこに「私は目覚めているのでしょうか?」という、いわば「理解のうすさ」は同居できないはずなんですよ。


これは、精神世界に限った話ではなく、「理解」という仕組みそのものと同じことだと思うんです。

「わかった!」という感覚は、やっぱり何かを「わかった!」と感じているのですから、「わかっているのかなぁ…」という感覚ではないはずです。

また、その「わかった!」に行き着くまでの「経過」に個人差があっても不思議ではありません。

それまでどんなに考えてもわからなかったものが、不意に「わかる」。


その仕組みにおいて「存在」という事のからくりを理解する、その事が「目覚め」や「悟り」、また、流行りの言い方にすれば「アセンション」、ひいては「愛」ではないでしょうか。



 

↑ 日々、みなさまのご理解を求めております。

悪癖

2010年04月04日 | 雲 黒斎
うちもね、猫、飼ってるんです。

これがまぁ、なんと申しますか、いいも悪いも、やっぱり「あるがまま」ってヤツでして。

すごいですね。なんにも飾らない。計算しない。

確かに、自信がなさそうにしている気配もないし、自信満々の様子もない。

ただ、「猫」なんですよね。

粗相してこっぴどく叱られた直後でも、すぐにケロッとして温々と日向ぼっこしてる。

こっちはそれ見てまたイラッとしてたりね。「この野郎!怒られたそばから!!」って、まだまだ過去を引き摺ろうとしてる(笑)。


そんな彼らと生活を送っている僕はと言いますと、まだまだ人の顔色を窺ってしまっています。

いまだに「認められたい症候群」から抜けきれてないとこがあって、何かあるとすぐに動揺しちゃう。


なかでもそうですね、やっぱり一番は、うちの奥様に対してでしょうか。

「認められたい症候群」&「嫌われたくない病」の挟み撃ち。

奥様にじっと見つめられると、ときめきではなくて、不安でのドキドキが出てきちゃったりします。


「あれ、俺、またなんかやっちゃったかな…」「あ、また怒らせちゃった…」「アッチャ~…、どうしよう、すごく呆れられてる…」


なにかとすぐにそういった気持ちがこみ上げてきて、ソワソワと落ち着きがなくなってしまう。

まぁ、僕も一頃よりは随分まっとうな生き方をするようになってきたので、その理由は「心のどこかにやましいものを隠し持っているから」ってことではないんですよ。

こういったソワソワ反応が出てきてしまう原因は、やっぱり「自分に自信がもてていないから」ですよね。

「僕が自分勝手なことばかりやってるから…」「不甲斐ないから…」「女々しいから…」「気持ちをわかってあげられていないから…」「あぁ、嫌われちゃったらどうしよう…、いよいよ見放されたらどうしよう…」

そうやって勝手に色んな事を考えて、ますます自分に対しての自信を失って、でもって、僕はそんな自信のなさを隠しておけるほど器用なワケでもなく、そのままオロオロと目が泳いでる僕を見て、ますますイライラが増していく奥様。

なんでしょう、この悪循環(笑)。


で、こういう話を二人でもっと具体的にすることとかもあるんですけど、そういうときは「なんでそこまでわかってるのに、普通にできないの?」なんて言われたりしちゃうんですよ。

まぁ、そりゃそうですよね。ごもっともなご意見です。^^;


なんですけどね、これ、なんなんだろうな。

もう、パブロフの犬みたいな条件反射で自然と出てきてしまう、それはそれはねちっこく僕に絡みついているクセなんですよ…。



 

↑ 癖になるぐらいの感じでポチッと。

認められたい症候群

2010年03月31日 | 雲 黒斎
あ~~~~

なるほど。

好き嫌いは、マトリックス特有のものなんですね。


>みんなにいい人やって、みんなから好かれたい、認められたいって思っている人は、もしかしたら自分のことが好きじゃないのかもしれないよ。

>だって心底自分を認めていれば、人に好かれたり、認めてもらう必要なんかないもの。


そうですよね~。

そうなんですよね~。

なんだけど、コレこそが僕が長らく嵌っていた「認められたい症候群」とでも言うべき呪縛なんですよ。

ずいぶんと長い間「認められたい」って頑張ってきたからすっかり癖になっちゃってて。

無意識でいると、すぐにまた顔を出すんですよねぇ。これが。

勿論そのコンプレックスをバネにして努力したことが身になっている部分もありますが、それで精神的に追い詰められて病気になってたんじゃ元も子もないですからね。


結局、苦しみの原因は自分に自信が持てないことだったんですよ。

で、自分で自分を認めてあげられない分、外から認められようと頑張っちゃうの。

でも結局、外からどんな高評価を得たとしても、「自分に自信がない」って思ってるのは「他でもない自分」なわけだから、いつまで経っても自信がないまま、認められないままでね。どこまで行っても救われることなんてない。

それに気づいた時は、「あ、俺ってばなんて馬鹿だったんだろう」って思ってたはずなのに、ふとしたときにまた自信が無くなってて(笑)。

僕はなんどコレを行き来するつもりなんだろう(笑)。



>だって心底自分を認めていれば、人に好かれたり、認めてもらう必要なんかないもの。

>人の思いこみや観念までコントロールできないし。

>だから、人がどう思おうと、自分自身を生きていくだけだよね。


うんうん。

で、面白いことにそうやって自分で自分を認めてあげて、自分自身を生きると、だんだん外側からも認められていくもんですよね。

「認められたい」のであれば、誰よりも先に自分が率先して自分を認めてあげる。良いとこも悪いとこもひっくるめて受容してあげる。

自分を愛してあげられないのであれば、他人だって愛してあげられない。


よし、やっぱり自分の為に、自分のしたいことをしていこう。


・・・・・・・・


>あっ、そうだ。

>いまのうちに言っておくけど、黒斎君デザインの5万円札も嬉しいけど、日本銀行発行の5千円札のほうが、もっと嬉しいかも。


いやいや、そんなに遠慮なさらなくていいですよ。


(`▽´)y-゜゜゜「阿部ちゃん、これチップ!(左腕にパテックフィリップの時計をちらつかせながら)」







 

↑ チップがわりに。

好き嫌い

2010年03月28日 | 雲 黒斎
ども。

「パテックフィリップ」がわからずに、リアルにググってしまった黒斎です(笑)。


阿部さん、心配はご無用です。

僕、たぶんお金持ちになってもこの時計は買わないと思います。

いや、別に清貧を気取っているわけじゃなくてね、単に「カシオ」とか「シャーク」の方が好みなんだもん(あ、まじでドンキ派だ。笑)。

だからその分の差額は阿部さんへのチップに回せるかも(笑)。

その際は、5千円では物足りないようなので、5万円札でお渡しすることにします(勿論僕のオリジナルデザインです)。

阿部さんなら、素直に喜んでくれますよね?


ねっ、


ねっ!!



それにしても、この「好み」って不思議ですよね。

勿論後天的な教育による「好き嫌い」ってのもあるんでしょうけど、そんなのとは全然関係ないレベルの、先天的な「好き嫌い」ってありますよね。

ものの好みだけじゃなくて、「味」だとか「薫り」だとか、いろんなところに。

何かを食べて「おいしい」って感じるのは何でですかね。

で、自分が食べておいしいものも、「うわ、まずい」って思う人がいるのはなんでですかね。

「おいしい」って言葉の意味するところは、みんな共通して「おいしい」のはずなんですよ。

でも、同じ一つの料理や素材を、「おいしい」と思う人と「まずい」って思う人がいる不思議。


自分が「おいしい」って思うのは、別に誰かに決められたワケでも、自分で「おいしいと思うようにしよう」って決めたわけでもなくて、なんでだか「おいしい」って思ってる。

これ、いったい誰の判断なんだろう。

だって僕、これを「好きってことにしよう!」とか「嫌いリストにいれておこう」とか、そんなこと決めた覚えないですもの。

なのに、何かを前にしたとき、「これ好き」とか「嫌い」とか「どっちとも言えない」とか、いろいろ判断できるの。

この基準って、僕じゃないのだとしたら、誰が決めたものなんだろう…。


あはは。こんなこと言ってると、やっぱり変な人って思われるのかな。

でも最近、この「好き嫌い」ってことが、正直よくわかんなくなってきてるんですよ。


「好き嫌い」に理由ってあるんですかね。

それとも理由なんかなくて、たんに「好き」だったり「嫌い」だったりなんですかね。

僕ね、最近どうも後者の様な気がしてるんです。


最近ね、自分のブログや阿部さんのブログのコメント欄を見て思うんですよ。

「阿部さんが好きです」とか、逆に「阿部さんが嫌いです」とか言われることあるじゃないですか。

で、それについての理由なんかも同時に書かれますよね。

「本当の事を話してくれるから阿部さんが好きです」とか、「人を惑わせて怪しげな瞑想を勧めるから阿部さんが嫌いです」とか。

これね、こういう風に書かれていたりするけど、きっと「好き嫌いの理由」じゃないと思うんです。

そうじゃなくて、理由なんて関係なくて、まず先に「好きか嫌いか」があって、「阿部さんが好き」だったら好きなところを探そうとする、「阿部さんが嫌い」だったら、嫌いなところを探そうとする。そういう順序なんじゃないかって思うんです。

「理由」って、先立つものじゃなくて、後付けの言い訳みたいなものじゃないかって、そういう気がするんですが…


阿部さんはどう思います?


 

↑ 好き?嫌い?

成功哲学

2010年03月26日 | 雲 黒斎
>自分は成功に値する。
>自分は幸せに値する。
>そう心の底から思えたら、もう9割がたやることは終わっています。


本当にその通りですね。

これまで、いかに自分自身を信頼してあげられなかったことか。

いかに、自分自身を批判しつづけてきたことか。

「いま(いまの自分)のままでは駄目だ。きっといつの日か、その条件を満たし幸せになるんだ!」

僕は、思考の罠にまんまと引っかかり「成功や幸せには条件が必要なのだ」と勘違いし続けて生きていました。


でもある日、幸せになるための条件などないことに気づいてしまいました。

それからです、僕の人生が急変しだしたのは。


『幸せになるための条件などない』

これは、「幸せになるための条件が必要ない」というより、『幸せや成功に辿り着くための条件そのものが存在しない』ということなんです。

なのに、僕はこれまでその「条件」を探し求め続けてきました。

アレをしたら幸せになれるんじゃないか、コレを満たせば幸せになれるんじゃないか…

元々存在しないものを探し続けているのですから、決して見つかるハズはありません。


これは「本当の自分探し」と同じ滑稽さです。

本当の自分を探そうと右往左往している張本人こそが、紛う方なき「本当の自分」なのですから。

自分が自分以外の所に自分を見いだせるなんてこと、あるわけがないのですから。


それと同じように、ずっと「幸せ」とは自分とは別の所にある「何か」だと思っていました。

まさか、その幸せを探し求めている自分自身が、その探し求めていた「幸せ」だったなどとは、思いもしませんでした。


…なんだ。幸せって、この僕の事だったのか。

_(*_ _)ノ彡☆ギャハハハ!!バンバン!!


お百度参りすることも、ありがとうと唱え続けることも、決められた数のお線香をあげることも、一生懸命机にかじりつくことも、何かを我慢することも、なにもしなくて良かったのか。

だって、そんなことをしようがしまいが、僕はいつだって僕じゃないか。これまでだって、これからだって、僕が僕以外になるなんてこと、できっこないじゃないか。

_(*_ _)ノ彡☆ギャハハハ!!バンバン!!



と、いうことで、今日は僕のそんな経験に基づいて選定した「成功哲学」をご紹介します。

それは、成功法則を説いたジョセフ・マーフィーさんの著作でも、成功哲学の祖、ナポレオン・ヒルさんの著作でも、斎藤一人さんや小林正観さんの著作でもありません。

それは、1911年にノーベル文学賞を受賞したベルギーの劇作家、モーリス・ポリドール・マリ・ベルナール・メーテルリンクさんの著作です。


え?ご存じないですか?モーリス・メーテルリンクさん。

いや、多分、コレをご覧の多くの方もご存じだと思うのですが…。幼いころに、ちょっとでも聞いたことないですかね?『これ』



うん。

ここで、「阿部敏郎さんの、この著作です」とならないあたりが僕らしいですね(笑)。



 

↑ 探し物が見つかったあなたも。見つからなかったあなたも。