続け!山城探訪

歴史好きで、近江の山城💗!

北野砦 近江国(長浜市(浅井町)北野)

2018年05月21日 | 

お城のデータ

所在地:長浜市(東浅井郡浅井町)北野町 /池奥   map:https://yahoo.jp/p5HrQ9
現 状:森林(山頂)
区 分:山城(砦)
築城期:
築城者:
遺 構:堀切・曲輪・低土塁
標 高:204m  比高差:60m
目標地:北野町墓地
駐車場:北野町墓地の駐車場
訪城日:2018.5.20
お城の概要

 北野集落の東背後に通称西山は、小谷山から東に伸びる枝状尾根の先端部に北野砦は位置する。
北野集落の東背後に通称西山には2ケ所にピークあり、この尾根南端の削平地があるが古墳に空堀状の凹地ある。頂部(主郭)の間ぼ斜面には、2本の登り土塁状地形が存在し、平行するよう竪堀状がある。鞍部あり鋭く深い堀切が設けられている。主郭部はなだらか地山で中央には方形平削地と小平削地(犬走り)状と集落側に低土塁が存在する。北端には「こじき坂」堀切は3mの深さがある。主郭へ向かう斜面に方形の削平地とそれを帯郭・段築で取り巻いている。さらに西のピークはこ灌木等で見学不能である。
お城の歴史
まったく不明であるが、北の北野スミス砦と共に、大依山砦と小谷城の繋ぎ砦であったようだ。

 天正元(1573)年に織田信長の攻撃により小谷城が落城した際に、浅井長政の妻であったお市の方と三人の姫たちが城から落ち延びたと思われるルートをちょうど反対に辿り、小谷城祉まで登り行くコースである。

 小谷城の城下町や城の正面にあたる追手道、それに平時における長政や家臣団の屋敷が建ち並ぶ清水(きよみず)谷など、いわゆる城の表側はすでに信長軍によって占領されており、「お市の方らが落ちていくとすれば、城の搦め手にあたる月所丸からであったろう」というのが大方の推量である。もちろん、脱出ルートに関する正確な文献は残されていない。

こじき坂堀切(北野砦の東側)

北野砦(遠望)

堀切=切通し(池野村から北野村)「こじき坂」・・・説明板には、「浅井の侍女たちはは三姉妹の身分をかくす為、池野町(村)の民家で古い野良着に着替させて北野町(村)に降りた、もの山道を「こじき坂」と呼ばれている。
 「五先賢の館から、すぐの田んぼの中にある小さな四輪塔である。元々五輪塔であったものだが、一つ失われて四輪塔となっている。
 祀られている四輪塔は、お市の方と三人の姫たちが小谷城から落ち延びていく際に、乳飲み子であった三女のお江を抱いて逃げた浅井家の侍女の墓であると地元では言い伝え。
城の南東にある実宰院という寺院まで無事に姫たちを送り届けた侍女は、すでに小谷城が落城して城に戻ることができず、この地で浅井家の菩提を弔い続けたのだという。その侍女の墓と伝えられているのが、この四輪塔である。落城にまつわる悲話。・・・・・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)より」
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)より」
本日の訪問ありがとうございす。

脇坂館 近江国(湖北町丁野)

2018年05月21日 | 居館

お城のデータ
所在地:長浜市小谷丁野町にある「脇坂谷」map:https://yahoo.jp/aupur
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:脇阪氏
遺 構:屋敷跡、産湯池、現地説明板、
標 高:130m 比高差:30m
目標地:国道365号の下り看板
駐車場:国道365号の下り看板の反対側空地
訪城日:2018.5.20


お城の概要
国道365号の下り「脇阪陣内安治誕生地」看板の手前の小谷山城への初期大手道を直線約500m。
長浜市小谷丁野町にある「脇坂谷」の脇坂氏館跡は賤ヶ岳七本槍(最年長者の武将)の一人で脇坂安治の生誕地。小谷城跡がある小谷山の麓の「初期小谷城への大手道」筋に、脇坂安治の屋敷跡有・安治の産湯に使われた池が残っている。脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。天文23年(1554)近江国浅井郡脇坂庄で誕生、脇坂安明の長男として育つ。
お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、浅井郡 「丁野城 住 脇阪与右衛門・丁野城 住 佐々木浅井隋兵後家康公隋兵成右陣内 脇坂陣内左衛門・丁野城 住 脇坂助左衛門・丁野城 住 脇坂佐介」と記す。
小谷城跡がある小谷山の麓の初期小谷城への大手道筋に、脇坂̪氏、此の地の屋敷跡有・脇坂安治の産湯に使われた池が残っている。脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。

脇坂陣内安治の経歴 輪違い
脇坂安治は天文23年(1554年)、近江国浅井群脇坂村(長浜市小谷丁野町)に生まれる。父は田附孫左衛門であるが、母の再婚により脇坂安明※の跡取りとなる。※脇坂安明は浅井長政の家臣で、安治が15歳の時に討ち死にする。
はじめ浅井長政に仕えたが、天正元年(1573)の浅井氏滅亡以後は、織田家に属し、明智光秀の与力として16歳で初陣を迎え、黒井城の戦いなどで功を立てる。後に、木下藤吉郎に自ら頼み込んで家臣となる。その後は播磨国の三木城、神吉城攻めなど、秀吉の諸戦に従軍して功を重ねた。天正4年(1576)には150石を与えられ、天正6年(1578)の三木城攻めでは秀吉より白輪違紋入りの赤母衣を賜り、以後家紋とした。天正10年(1582)には明石郡30石の加増を受けた。武勲として「輪違い」紋の母衣を賜り、「輪違い」は脇坂家の家紋となる。そして天正11年(1583年)30歳のとき賤ヶ岳七本槍の一人として奮戦し、その功により山城国宇治で三千石を賜る。
天下統一までの活躍
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられ、その戦功により山城国に3,000石を与えられた。この戦いの折、柴田勝政を討ち取ったという説がある。
小牧・長久手の戦いでは伊勢国・伊賀国方面で滝川雄利の伊賀上野城を攻略するなどの手柄をあげ、天正13年(1585年)5月、秀吉より摂津国能勢郡に1万石を与えられた。8月に大和国高取で2万石、10月には淡路洲本で3万石を与えられた。
その後は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に水軍衆の指揮官を務め、九州征伐、小田原征伐や朝鮮出兵などに従軍した。九州征伐では、豊前国に到着後、臼杵城の大友宗麟の許に兵糧米を輸送している。以後、秀吉の命で黒田孝高の指揮下に入っている(天正15年2月14日豊臣秀吉朱印状)。また、薩摩国の平佐城を小西行長らと共に攻撃開城させた。小田原征伐では海上から伊豆国下田城を攻め落とし、小田原城受け取りの検使を務めている。

朝鮮出兵
文禄の役では1,500人の動員を課せられ、当初は船手衆の1人として九州から釜山への海上輸送を担当するが後に陸戦兵力として投入された。文禄元年(1592年)6月に漢城近郊の龍仁を守備中に全羅道観察使の李洸などが率いる朝鮮軍約5万の大軍により攻撃を受けるが、機を制して夜襲を行い潰走させた。龍仁戦闘の直後の翌7月には李舜臣による水軍の活動を抑えるために加藤嘉明、九鬼嘉隆と共に急遽連合水軍として編成されるが、功を逸って単独で抜け駆けした安治の1,500人の水軍は閑山島海戦で李舜臣に大敗した。以降は秀吉の戦術転換命令によって水陸防御作戦を実施して李舜臣の侵攻を何度も阻んだ(釜山浦海戦、熊川海戦、第二次唐項浦海戦、場門浦・永登浦海戦)。文禄2年(1593年)5月の第二次晋州城攻防戦では攻城軍に加わって陸上兵力(点呼員数900人)としても活躍している。
慶長の役では水軍配置となり1,200人[4]の動員を課せられ、慶長2年(1597年)7月に戦われた漆川梁海戦では侵攻してきた元均率いる朝鮮水軍を逆襲により壊滅させた。日本軍の侵攻作戦が始まると水軍として進撃するが、8月の南原城攻略作戦では陸上兵力として使用された。全州会議に参加した後は再び水軍として引き続き朝鮮沿岸で活動し鳴梁海戦を戦った。第一次蔚山城の戦いにも加わり加藤清正の救援で武功を挙げる。これら朝鮮における一連の功績から、淡路内で預かっていた太閤蔵入地より3,000石を加増されて3万3,000石の大名となる。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いの脇坂安治陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
秀吉の死後、徳川家康と前田利家が対立。安治は徳川邸に駆けつけた。会津征伐では、家康の下に次男・安元を参陣させようとしたが、石田三成らに妨害され引き返させた。この際、安治は旧友・山岡景友を通じ事情を家康に伝え、家康から引き返したことに対して了解を得る一方、戦いに向けて防備を固めるように指示を受けた(慶長5年8月1日安元宛徳川家康書状)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも家康に与するつもりであったが、安治が大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむなく約1,000名[5]の兵を率いて西軍に付いたとされる。
9月15日の本戦では、東軍と内通の風聞があった小早川秀秋に備えて朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に配置されていたが、秀秋が黒田長政と通じていたのと同様に、安治もまた藤堂高虎より工作を受けており、午後に入り小早川隊が大谷吉継隊を攻撃するとそれに乗じて他の3将と共に寝返り、平塚為広・戸田勝成の両隊を壊滅させた。戦後、石田三成の居城・佐和山城攻略にも参加している。同じく寝返った他の3大名と異なり、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵された。
晩年
慶長14年(1609年)9月、伊予大洲藩5万3,500石に加増移封された。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では本人は参陣しなかったが、大坂冬の陣の際に次男・安元が幕府軍として八丁目口を担当し、大坂夏の陣では天王寺付近での戦闘で戦功を挙げた。元和元年(1615年)に次男・安元に家督を譲って隠居する。
その後は大洲を去って京都西洞院に住み、剃髪して臨松院と号した。寛永3年(1626年)8月6日に京都で死去。享年73。

屋敷跡が遺構。
ただ神社跡の横にある池は安治の産湯の池との言い伝えがある。
Wikipedia

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia、現地説明板『淡海国木間攫』『江州佐々木南北諸氏帳』
本日の訪問ありがとうございす。

下山田城 近江国(長浜 高月町下山田)

2018年05月21日 | 山城
 下田山城
 下山田城は小字城山にあって、築城期は不明であるが当地の豪族山田氏の居城である。山田氏は京極氏の家臣にて類題京極家の執政をつとめた家筋で大永年間(1521~1528)以降の京極氏没落後山田越中守清氏、同上野介清頼親子ともに浅井氏に属せず京極高清、高延を補佐して忠節を尽くした。清頼の子阿波守清良しもまたまた京極高広の執政となり、一族喜兵衛尉清信は浅井滅亡後明智光秀に仕え、同平衛尉直政は京極氏時代より坂田郡村居田に知行を給せられていた。(日本古城友の会幹事 吉田修)

お城のデータ
所在地:長浜市高月町下山田 map:https://yahoo.jp/2MOPlS(遺跡ウォーカー)
現 状:山林・山腹、平削地
区 分:山城
築城期:室町時代
築城者:山田氏
遺 構:土塁・城道?
標 高:156m 比高差:40m
目標地:山上水道タンク
駐車場:下山田集落(山上水道タンクへの山道下の空地)
訪城日:2018.5.20

お城の概要
 山田山山魂の西端(山田山の西部山域)下山田集落の背後の位置する。
室町時代後期(戦国時代)おける覇権争いにより、歴史的にその名が知れている小谷城の攻防で、山田山の西部山域に織田軍が布陣し、朝倉勢の小谷への援軍を阻止、これを足掛かりに浅井包囲網ができあがり、20日後に浅井長政の自刃で織田軍の勝利となったと(信長公記)に記す。
下山田城は、長浜市中北部の山田山の西に舌状に張り出した馬上集落と下山田集落の境中腹・高時川の東岸に位置する。北で高月町雨森、東で上山田、南で湖北町二俣、西で高月町落川・高月町渡岸寺・高月町柏原に接する。北陸往還が東南から西北に走りるに向かって分岐している。山田山の西麓の馬上集落の東側背後の山頂部(標高:202m)に主郭部には、馬上山城を持つ。
下山田城(136m)の馬上山の中腹位置する。
馬上山の浄水場への林道を登る途中で、西端の遺構は僅かな残るが、広大な城域?は大半は重機で削減され無残であるが、植樹がされている。

お城の歴史
『淡海国木間攫』には、坂田郡 下山田村
 「古此所ニ山内太郎左衛門ト云武士居住、頼朝公ニ仕官ス、江陽一国ノ山奉行タリ、文治二年十一月十三日頼朝公ヨリ此谷ニテ二百貫地ヲ賜ルト云、後孫当所ヲ不去シテ秀吉公ニ仕ヘ、姓名ヲ山田ト可改由命アリ、依之改名ス、事ハ草野庄野瀬村大吉寺ノ縁起ニ出タリ、後孫今以此村里ニ残レリ、開称寺其外土民トナリ、林右衛門・久右衛門等ナリ、賤ヶ嶽一戦ノ切ハ秀吉公山田久介宅へ立寄ラセ玉ヒシ由、其節ノ膳碗等樽今作右衛門ト云者所持アリト云、是ハ山田氏ノ本家タリト」と記す。
 (中略)「1.東本願寺宗 五村御坊付 開称寺 
     当寺ハ昔山内氏ノ孫ニテ山田ト改メシ人住職アリト云」ときる記す。
 下山田城は、当地の豪族、山田氏(山田越中守清氏、同上野介清頼)の居城。京極家の執政を務めた家柄。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 下山田 住 佐々木浅井隋兵 山田掃部介・下山田 住 山田遠江守・下山田 住 山田帯兵衛」と記す。。
小谷城攻防に当たり、山田山一帯(下山田集落)は織田軍の佐久間信盛、柴田勝家らが布陣し、朝倉勢の援軍を阻止するために設けられ戦場です。
これにより朝倉の援軍は小谷城に近づけず引き返すことになります。家臣の寝返りもあり、小谷城攻略の重要なところ。
信長公記 巻六 元亀四年
11、決壊  阿閉謀叛の事
 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。  ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現湖北町下山田 ③現余呉町~木之本町
12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事
 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。
 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。
 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山①の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。
 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。
 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。  ①現滋賀県木之本町内
 
小谷山西端の林の中の遺構らしきものが!
また北に馬上山城
虎御前山(虎御前砦)

下山田城遺構


『天文三年浅井備前守宿所饗応記』(佐々木哲学校に)
「奉行人」
大津若狭守(清忠)
山田越中守(清氏)
山田清氏 【日本の武将】
京極氏家臣。官途は越中守。玄良と号す。初め京極高清に仕えたが、のち浅井亮政に属した。「長岡村郷野家文書」に登場し、同史料には一族と思われる山田清頼とゆう人物も見られる。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『江州佐々木南北諸士帳』『淡海国木間攫』『信長公記』、佐々木哲学校、日本の武将
本日の訪問ありがとうございす。

山田山城 (馬上(まけ)山城) 近江国(長浜 高月町馬上)

2018年05月21日 | 山城
お城のデータ 
所在地:長浜市高月町馬下/下山田 map:https://yahoo.jp/xtM8sB
別 称:山田山城(遺跡ウォーカー http://www.isekiwalker.com/iseki/244340/ )
現 状:山林・山頂
区 分:山城
築城期:室町時代
築城者:伊吹氏
遺 構:曲輪・虎口・土塁
標 高:202m 比高差:100m
目標地:山上水道タンク
駐車場:下山田集落(山上水道タンクへの山道下の空地)
訪城日:2018.5.20

お城の概要

長浜市中北部、山田山の西麓、姉川の支流、高時川の東岸に位置する。北で高月町雨森、東で上山田、東南で下山田、南で湖北町二俣、西南で高月町高月の飛地、西で高月町落川・高月町渡岸寺・高月町柏原に接する。北陸往還が東南から西北に走りるに向かって分岐している。
山田山の西麓の馬上集落の東側背後の山頂部(標高:202m)に主郭部を持つ。しも下山田城(136m)の上部位置し、水道タンク施設の背後。
お城の歴史
室町時代後期(戦国時代)おける覇権争いにより、歴史的にその名が知れている小谷城の攻防で、山田山の西部山域に織田軍が布陣し、朝倉勢の小谷への援軍を阻止、これを足掛かりに浅井包囲網ができあがり、20日後に浅井長政の自刃で織田軍の勝利となったと(信長公記)に記す。
走落神社の由緒
北国脇往還路として武門武将の往来繁く、この鳥居を通過の際は、必ず下馬拝礼した後に乗馬したと伝え、今もこの鳥居の近くに馬乗場という地名も現存する。天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える。
Wikipediaには、、走落神社 (長浜市)
天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いに向かう豊臣秀吉は、当神社の鳥居の前で下馬し、必勝を祈願したと伝わっている。
高月町馬上の歴史
戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 馬上 住 伊吹源十郎」の名を記す。高月町馬上集落には、伊吹氏館が存在した。

『ウィキペディア』には、「戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。」織田軍の佐久間信盛、柴田勝家らが布陣し、朝倉勢の援軍を阻止するために設けられ戦場です。
これにより朝倉の援軍は小谷城に近づけず引き返すことになります。家臣の寝返りもあり、小谷城攻略の重要なところ。


『信長公記 巻六 元亀四年』
11、決壊  阿閉謀叛の事
 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山(下山田城)②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。  ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現湖北町下山田 ③現余呉町~木之本町
12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事
 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。
 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。
 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山①の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。
 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。
 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。  ①現滋賀県木之本町内



参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『江州佐々木南北諸氏帳』『信長公記』、Wikipedia
本日の訪問ありがとうございす。

西坂砦(古ん多久山(こんたくやま)砦 近江国(米原 西坂)

2018年05月15日 | 

お城のデータ
所在地:米原市樋口/西坂 map:https://yahoo.jp/ZhYVnf
別 称:古ん多久山砦・・・(鎌刃城の支城とも!)
現 状:山林(中腹)
築城期:
築城者:
遺 構:曲輪4つ・堀切/土橋が2つ・鈎折(虎口か?)・犬走り・帯廓・一文字土塁・L型低土塁・小櫓台
標 高:364m 比高差:220m
目標地:米原工業団地
駐車場:路上駐車
訪城日:2018.5.12(城歩会)


お城の概要
主郭部にある低土塁は小規模ながら鎌刃城側を守るように配置されて、堀氏・樋口氏の拠点鎌刃城の出城と推測される。近隣の地頭山城・久礼坂砦・門根館と連携なおかつ鎌刃城の天の川方面を見張る砦に1つ考えられる。
北近江の守護戦国大名京極氏の動向とともに、霊仙山麓に展開する山城跡を取り上げるとのこと。
米原市内の史跡鎌刃城や八講師城などの規模の大きな山城のほか、近年、尾根筋を結ぶように松尾寺山砦・樋口西坂砦(長谷川博美氏・泉良之氏が愚然発見)などが確認されているそうです。
男鬼入谷城(高取山城、多賀町・彦根市)は、山懐の山中に忽然と現れた大規模な山城跡で、その記録は残されておらず、さらに霊仙東麓にはこれらを結ぶ尾根道や谷道が縦横に走っています。
かつて山で生業を営んだ人々の集落跡や、山寺跡などの信仰遺跡も展開する霊仙山麓を、山城を題材に紐解いていくそうです。

お城の歴史
詳細不明


此処から登城

此処から城域

参加者記念写真(長谷川博美氏撮影)
参考資料:城歩会『古ん多久山城(西坂砦)見学会資料=長谷川博美氏作成、踏査図(長谷川博美氏作成)
本日の訪問ありがとうございす。




番場城 近江国(米原・番場)

2018年05月13日 | 平山城

お城のデータ

所在地:米原市番場 天神山(旧坂田郡)map:https://yahoo.jp/XqShIu
現 状:山林
遺 構:曲郭・土塁・堀切・櫓台
区 分:平山城
標 高:200m   比高差:約100m
築城期:南北朝期
築城者:土肥氏
目 標:中山道 番場宿石碑
駐車場:中山道 番場宿石碑前 路上駐車
訪城日:2018.5.12

お城の概要
番場城は、中山道番場宿の集落背後、頂部に鎌刃城が所在する山塊から突出した舌状尾根先端部に築かれている。
西番場地区の2ヶ所の鎌刃城登城道が番場城尾根の東西直下を走っていて、どちらからでも頂部に建つ送電鉄塔を目指せば辿り着く。目印は名神道ガード「彦根42」と「彦根43」の間である。
縄張は三方を土塁がめぐる南北約35mの主郭を中心に、先端に腰郭、山側に櫓台を備える。櫓台の背後は山頂方向の尾根筋を堀切にて分断している。堀切の外側は、約20mの自然地形を経て、さらに薄い堀切が確認できる。
全体的に風化が激しく、土塁は薄く、櫓台は鉄塔建設により改変され不明瞭な部分が多い。尾根先は名神道開通により削り取られているので、本来の大手道は消滅したと思われる。
また西麓には「今福寺遺跡」とされる遺構が存在する。背後を水堀で遮断し、ほぼ中央の段築部には石積みが見られる。この遺跡は番場城遺構の一部のように思えるため記載しておく。
 尚、番場城の尾根先には殿屋敷と称される鎌刃城主堀氏の屋敷と伝承される地があるが、立地からみて番場城との詰城と居館の関係とみるのが普通である。
お城の歴史
『江州南北諸士帳』に、「番場 住 佐々木随兵鎌倉平氏 土肥三郎、同 同男左京進」とあり。(番場城に関して、文献等の資料は少ない。)
 鎌倉幕府成立頃から頼朝の家臣として活躍した土肥氏は、箕浦庄の地頭として下向した。土肥氏はその後、番場・多和田・醒井をそれぞれ分派に与え、箕浦庄の三土肥と称された。
 番場に居を構えた土肥氏は、その後もこの地で活躍して室町時代に鎌刃城を築いたとされるが、それ以前に居城としたのが番場城と殿屋敷であった。

今回は、今福寺跡から見学に!



中山道より番場城を見上げる。
参考資料:城歩会資料(作図:長谷川博美氏)、『滋賀県中世城郭分布調査』、『江州南北諸士帳』
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