続け!山城探訪

歴史好きで、近江の山城💗!

陣尾山砦(陣屋山城) 近江国(多賀町佐目)

2019年03月09日 | 
お城のデータ
所在地:犬上郡多賀町佐目/南後谷
現 状:山林、山頂
区 分:砦、詰め城
築城期:室町期❓
築城者:一向一揆衆か❓
遺 構:土塁、平削地(曲輪跡?)、祠
標 高:610m 比高差:430m
目標地:
駐車場:南後谷の登山口
訪城日:

お城の概要、歴史
陣尾山への登山道脇に、陣屋跡に祠が祀られいる。

応仁の乱以降、近江も一向一揆が各地で発生しました。
近江七弘聖寺の一つ、川瀬石畑の弘聖寺多賀佐目へ移転、左女道場が開かれた
ようです?


陣屋の馬場城 近江国(長浜市 湖北町上山田)

2019年02月19日 | 
お城のデータ
所在地:長浜市高月町上山田 map:https://yahoo.jp/b53DAF
現 状:山林、山頂(雨森三角点一帯)
築城期:織豐期
築城者:織田信長軍(阿閉氏が)
遺 構:低土塁、平削地
標 高:360m 比高差220ma
目標地:和泉神社(湖北町上山田)
訪城日:

お城の概要
上山田集落の和泉神社の背後の登山口から、尾根まで登り尾根道を西に20分程下ると「雨森三角点」へ。この一帯が「陣屋の馬場城」です。
尾根道が低土塁で、北側が平削地(兵士の宿営地)。

お城の歴史
戦国における覇権争いにより、歴史的にその名が知れている小谷城の攻防で、山田山の雨森三角点(陣屋の馬場城)から西部山域の上山田城、下山田山城に織田軍が布陣し、朝倉勢の小谷への援軍を阻止、これを足掛かりに浅井包囲網ができあがり、20日後に浅井長政の自刃で織田軍の勝利となった、という顛末(信長公記)に関係する場所です。信長公記 巻六 元亀

信長公記 巻六 元亀四年
11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。
 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。
 ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現浅井町・湖北町間 ③現余呉町~木之本町 
 



参考資料:『滋賀県城郭分布調査』『信長公記』、遺跡ウォーカー「陣屋の馬場城」、写真は「山響さんの山田山」からお借りしました。

本日の、訪問ありがとうございます。

中河内砦(秋葉神社の砦) 近江国(余呉)

2018年07月27日 | 

お城のデータ
所在地:長浜市余呉町中河内 map:https://yahoo.jp/cQS0Gg
別 称:秋葉神社の砦(遺跡ウォーカー)
現 状:秋葉神社/山林
築城期:織豊期
築城者:
遺 構:主郭・矢倉台・堀切・帯廓・犬走り・竪堀
標 高:440m 比高差:20m
目標地:余呉町中河内バス停/本陣跡碑
駐車場:余呉町中河内バス停/本陣跡碑
訪城日:2018.7.22


お城の概要
北國街道(現国道365号)中河内集落の「秋葉神社が砦」である。
主郭・矢倉台・堀切・帯廓・犬走り・竪堀の遺構が綺麗に残る。
集落の神社で、草刈等されているため遺構は非常に確認できる。
お城の歴史
信長公記 巻六 元亀四年

13、刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事
 信長公に先を越されて叱責を受けた諸将は、滝川・柴田・丹羽・蜂屋・羽柴・稲葉をはじめとして口々に信長公へ詫び言を申し上げた。しかしその中で佐久間信盛だけは、目に涙を浮かべつつ「左様に仰せられども、われらほどの家臣は中々持たれませぬぞ」と自讃混じりに抗弁した。信長公はこれを聞いてさらに怒り、「そのほう男の器量を自慢いたすが、何をもってそのように言う。片腹痛いわ」といって益々機嫌を悪くした。 信長公の読み通り、織田勢は退却する朝倉勢を追撃して多大な戦果を得ていた。信長公のもとへは追撃で得た首を持参する侍があとを絶たず、また信長公みずからも騎乗して敵勢を追った。
 敵勢は、中野河内口①と刀根山口②の二手に分かれて退却していた。織田勢はいずれを追ったものかとしばらく詮議していたが、「名のある者は、疋田・敦賀の味方城を頼りに退いていよう。されば刀根山を越え、疋田に向かうべし」との信長公の命に従い、刀根山口へ向かった。
 すると、案のごとくであった。朝倉勢は中野河内口からは雑兵を退かせ、朝倉義景以下主だった者達は刀根山から敦賀をさして退却していた。これを追尾した織田勢は刀根山の嶺で朝倉勢に追いつき、大波が浜の砂をさらうように次々と朝倉勢の首を斬獲していった。朝倉勢の中からも忠義の志厚い者たちが返しては踏みとどまって支えようとしたが、かなわずに一人二人と姿を消していった。敦賀までの十一里に及ぶ追撃戦で、討ち取られた朝倉勢の首数は三千余にのぼった。・・・云々
①現余呉村から栃ノ木峠を越え越前へ入る道筋 ②現木之本町から刀根山を越え敦賀に抜ける道筋(刀根山は敦賀市刀根)


参考資料:『信長公記』・遺跡ウォーカー
本日の訪問ありがとうございす。

北野砦 近江国(長浜市(浅井町)北野)

2018年05月21日 | 

お城のデータ

所在地:長浜市(東浅井郡浅井町)北野町 /池奥   map:https://yahoo.jp/p5HrQ9
現 状:森林(山頂)
区 分:山城(砦)
築城期:
築城者:
遺 構:堀切・曲輪・低土塁
標 高:204m  比高差:60m
目標地:北野町墓地
駐車場:北野町墓地の駐車場
訪城日:2018.5.20
お城の概要

 北野集落の東背後に通称西山は、小谷山から東に伸びる枝状尾根の先端部に北野砦は位置する。
北野集落の東背後に通称西山には2ケ所にピークあり、この尾根南端の削平地があるが古墳に空堀状の凹地ある。頂部(主郭)の間ぼ斜面には、2本の登り土塁状地形が存在し、平行するよう竪堀状がある。鞍部あり鋭く深い堀切が設けられている。主郭部はなだらか地山で中央には方形平削地と小平削地(犬走り)状と集落側に低土塁が存在する。北端には「こじき坂」堀切は3mの深さがある。主郭へ向かう斜面に方形の削平地とそれを帯郭・段築で取り巻いている。さらに西のピークはこ灌木等で見学不能である。
お城の歴史
まったく不明であるが、北の北野スミス砦と共に、大依山砦と小谷城の繋ぎ砦であったようだ。

 天正元(1573)年に織田信長の攻撃により小谷城が落城した際に、浅井長政の妻であったお市の方と三人の姫たちが城から落ち延びたと思われるルートをちょうど反対に辿り、小谷城祉まで登り行くコースである。

 小谷城の城下町や城の正面にあたる追手道、それに平時における長政や家臣団の屋敷が建ち並ぶ清水(きよみず)谷など、いわゆる城の表側はすでに信長軍によって占領されており、「お市の方らが落ちていくとすれば、城の搦め手にあたる月所丸からであったろう」というのが大方の推量である。もちろん、脱出ルートに関する正確な文献は残されていない。

こじき坂堀切(北野砦の東側)

北野砦(遠望)

堀切=切通し(池野村から北野村)「こじき坂」・・・説明板には、「浅井の侍女たちはは三姉妹の身分をかくす為、池野町(村)の民家で古い野良着に着替させて北野町(村)に降りた、もの山道を「こじき坂」と呼ばれている。
 「五先賢の館から、すぐの田んぼの中にある小さな四輪塔である。元々五輪塔であったものだが、一つ失われて四輪塔となっている。
 祀られている四輪塔は、お市の方と三人の姫たちが小谷城から落ち延びていく際に、乳飲み子であった三女のお江を抱いて逃げた浅井家の侍女の墓であると地元では言い伝え。
城の南東にある実宰院という寺院まで無事に姫たちを送り届けた侍女は、すでに小谷城が落城して城に戻ることができず、この地で浅井家の菩提を弔い続けたのだという。その侍女の墓と伝えられているのが、この四輪塔である。落城にまつわる悲話。・・・・・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)より」
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)より」
本日の訪問ありがとうございす。

西坂砦(古ん多久山(こんたくやま)砦 近江国(米原 西坂)

2018年05月15日 | 

お城のデータ
所在地:米原市樋口/西坂 map:https://yahoo.jp/ZhYVnf
別 称:古ん多久山砦・・・(鎌刃城の支城とも!)
現 状:山林(中腹)
築城期:
築城者:
遺 構:曲輪4つ・堀切/土橋が2つ・鈎折(虎口か?)・犬走り・帯廓・一文字土塁・L型低土塁・小櫓台
標 高:364m 比高差:220m
目標地:米原工業団地
駐車場:路上駐車
訪城日:2018.5.12(城歩会)


お城の概要
主郭部にある低土塁は小規模ながら鎌刃城側を守るように配置されて、堀氏・樋口氏の拠点鎌刃城の出城と推測される。近隣の地頭山城・久礼坂砦・門根館と連携なおかつ鎌刃城の天の川方面を見張る砦に1つ考えられる。
北近江の守護戦国大名京極氏の動向とともに、霊仙山麓に展開する山城跡を取り上げるとのこと。
米原市内の史跡鎌刃城や八講師城などの規模の大きな山城のほか、近年、尾根筋を結ぶように松尾寺山砦・樋口西坂砦(長谷川博美氏・泉良之氏が愚然発見)などが確認されているそうです。
男鬼入谷城(高取山城、多賀町・彦根市)は、山懐の山中に忽然と現れた大規模な山城跡で、その記録は残されておらず、さらに霊仙東麓にはこれらを結ぶ尾根道や谷道が縦横に走っています。
かつて山で生業を営んだ人々の集落跡や、山寺跡などの信仰遺跡も展開する霊仙山麓を、山城を題材に紐解いていくそうです。

お城の歴史
詳細不明


此処から登城

此処から城域

参加者記念写真(長谷川博美氏撮影)
参考資料:城歩会『古ん多久山城(西坂砦)見学会資料=長谷川博美氏作成、踏査図(長谷川博美氏作成)
本日の訪問ありがとうございす。