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小倉城 近江国(愛東・小倉)

2019年08月05日 | 平城

お城のデータ
所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)小倉町 map:http://yahoo.jp/VRfpif
区 分:平城
築城期:鎌倉期 承暦年代(1077~1080)
築城者:小倉景実
遺 構:空堀・堀切・土塁・現地説明板
城 域:1000m×500m
目標地:小倉集落の北、段丘上の墓地
駐車場:集落の北、段丘上の墓地駐車場
他の写真は、こちらhttps://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/0d2cdde6624c8cdba55b41b402a61ab5

お城の概要
 小倉城は愛知川右岸の河岸段丘上に築かれており、小倉町の公民館前から河岸段丘側へ200mも入ると、
小倉城と清和源氏小倉氏発祥の地の石碑が建てられている。
 ここが小倉城の大手口と考えられており、背後の段丘上に南北30~40m、東西300mほどの範囲に遺構が残されている。
 城域の西側は、河岸段丘が落ち込む自然地形のために城域の境界は明確だが、東側は城郭遺構が延々と続き、
考え方次第では小倉城の出城とされる勝鳥城付近まで城域は広がり、城域は東西400~500mにもなる。
小倉城の石碑前には河岸段丘へ上がる車道が左右に2本つけられているが、大手口からの登城道(大手道)は石碑から右手に延びる道である。
「近江愛智郡志」の挿絵図には、小倉城の北側には【水堀】が青山城の近くまで、存在したようである。
左手の道は主曲輪横に出る小倉新道で、近年拡幅された道。この道は堀切だった地形を利用されている。
大手道を登ると、すぐに河岸段丘を断ち切る堀切(見方によっては横堀ともいえる)が出現する。この辺りが二の曲輪のようである。

 二の曲輪は河岸段丘の東西を堀切った地形の中に、土塁をめぐらせた曲輪が梯郭式に無数に繋がっている。
曲輪は個々に平虎口を設けており、屋敷地のような構えである。
 主曲輪に対する求心性が無いのは、圃場整備で改変をされたのであろう。それとも小倉城そのものが屋敷地のような構えであったのか?

 二の曲輪群の一画に、ひときわ高い土塁をめぐらせた曲輪が幾つかある。
虎口横の土塁の塁線が屈曲するなど他の曲輪とは様子が異なり、後年に陣城として改修の可能性を感じた。

 主曲輪は微高地の地形を利用して周囲に空掘を巡らせ、他の曲輪とは一線を画している。
主曲輪の西約100mほどが小倉城の西端になるが、西側は断崖地形で周囲に空掘を巡らせた30m×40mほどの曲輪がある。
後方は二重の空掘として備えも怠りない。

道は主曲輪横に出る小倉新道で、近年拡幅された道。浅い堀切ひら虎口か、散策路か

お城の歴史
小倉氏は清和源氏満季流といい、承暦年代(1077~1080)、小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築いたのが、そもそもの始まりと伝えられている。以来、小倉氏は小倉城を拠点として、愛知・神崎・蒲生三郡の東部に勢力を築いていった。

 『蒲生系図』によれば、源頼朝の旗揚げに馳せ参じて功を上げ、近江守護となった佐々木定綱の室は蒲生俊綱の姉であった。そして、俊綱の娘が小倉九郎の室となっている。このことから、小倉氏が鎌倉時代初期においてすでに相当の勢力を有していたことが知られる。以後、小倉氏は佐々木、蒲生氏と鼎立する勢いを示し、東近江における一方の雄として続いた。とはいうものの、小倉氏の事蹟が記録などから知られるようになるのは、応仁の乱当時を生きた小倉左近将監実澄の代にいたってである。
 ちなみに、小倉氏の出自に関しても諸説があり、『近江愛知郡志』では
 (1)小椋實秀の裔にて菅原氏
 (2)清和源氏多田満季の裔より出たもの
 (3)佐々木満綱の子孫より出た家
の三説を紹介し、
(1)に関しては小倉氏の家紋「梅鉢」からうなずけるところだが小椋實秀なる人物が確認できないこと、
(2)に関してはその根拠となる系図が南北朝時代で終わっていてそれ以降を継承する正本系図が存在しないことを注記して、それぞれ疑問を呈している。そして、『尊卑分脈』の小椋源氏系図、個人所蔵小椋氏系図を掲載している。

 一方、『近江蒲生郡志』では、蒲生氏の一族として小倉氏を取り上げ、「小倉氏は愛知郡小椋を本拠とする清和源氏なり」として、蒲生氏と小倉氏の関係系図と小倉氏系図一本を併載している。

『信長公記』
 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事
 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。
信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。
 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった--

 小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事
・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。
 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。--

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査1』、『信長公記』ウィキペディア(Wikipedia)』、『近江愛智郡志』、淡海の城
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