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続け!山城探訪

歴史好きで、近江の山城💗!

脇坂館 近江国(湖北町丁野)

2018年05月21日 | 居館

お城のデータ
所在地:長浜市小谷丁野町にある「脇坂谷」map:https://yahoo.jp/aupur
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:脇阪氏
遺 構:屋敷跡、産湯池、現地説明板、
標 高:130m 比高差:30m
目標地:国道365号の下り看板
駐車場:国道365号の下り看板の反対側空地
訪城日:2018.5.20


お城の概要
国道365号の下り「脇阪陣内安治誕生地」看板の手前の小谷山城への初期大手道を直線約500m。
長浜市小谷丁野町にある「脇坂谷」の脇坂氏館跡は賤ヶ岳七本槍(最年長者の武将)の一人で脇坂安治の生誕地。小谷城跡がある小谷山の麓の「初期小谷城への大手道」筋に、脇坂安治の屋敷跡有・安治の産湯に使われた池が残っている。脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。天文23年(1554)近江国浅井郡脇坂庄で誕生、脇坂安明の長男として育つ。
お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、浅井郡 「丁野城 住 脇阪与右衛門・丁野城 住 佐々木浅井隋兵後家康公隋兵成右陣内 脇坂陣内左衛門・丁野城 住 脇坂助左衛門・丁野城 住 脇坂佐介」と記す。
小谷城跡がある小谷山の麓の初期小谷城への大手道筋に、脇坂̪氏、此の地の屋敷跡有・脇坂安治の産湯に使われた池が残っている。脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。

脇坂陣内安治の経歴 輪違い
脇坂安治は天文23年(1554年)、近江国浅井群脇坂村(長浜市小谷丁野町)に生まれる。父は田附孫左衛門であるが、母の再婚により脇坂安明※の跡取りとなる。※脇坂安明は浅井長政の家臣で、安治が15歳の時に討ち死にする。
はじめ浅井長政に仕えたが、天正元年(1573)の浅井氏滅亡以後は、織田家に属し、明智光秀の与力として16歳で初陣を迎え、黒井城の戦いなどで功を立てる。後に、木下藤吉郎に自ら頼み込んで家臣となる。その後は播磨国の三木城、神吉城攻めなど、秀吉の諸戦に従軍して功を重ねた。天正4年(1576)には150石を与えられ、天正6年(1578)の三木城攻めでは秀吉より白輪違紋入りの赤母衣を賜り、以後家紋とした。天正10年(1582)には明石郡30石の加増を受けた。武勲として「輪違い」紋の母衣を賜り、「輪違い」は脇坂家の家紋となる。そして天正11年(1583年)30歳のとき賤ヶ岳七本槍の一人として奮戦し、その功により山城国宇治で三千石を賜る。
天下統一までの活躍
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられ、その戦功により山城国に3,000石を与えられた。この戦いの折、柴田勝政を討ち取ったという説がある。
小牧・長久手の戦いでは伊勢国・伊賀国方面で滝川雄利の伊賀上野城を攻略するなどの手柄をあげ、天正13年(1585年)5月、秀吉より摂津国能勢郡に1万石を与えられた。8月に大和国高取で2万石、10月には淡路洲本で3万石を与えられた。
その後は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に水軍衆の指揮官を務め、九州征伐、小田原征伐や朝鮮出兵などに従軍した。九州征伐では、豊前国に到着後、臼杵城の大友宗麟の許に兵糧米を輸送している。以後、秀吉の命で黒田孝高の指揮下に入っている(天正15年2月14日豊臣秀吉朱印状)。また、薩摩国の平佐城を小西行長らと共に攻撃開城させた。小田原征伐では海上から伊豆国下田城を攻め落とし、小田原城受け取りの検使を務めている。

朝鮮出兵
文禄の役では1,500人の動員を課せられ、当初は船手衆の1人として九州から釜山への海上輸送を担当するが後に陸戦兵力として投入された。文禄元年(1592年)6月に漢城近郊の龍仁を守備中に全羅道観察使の李洸などが率いる朝鮮軍約5万の大軍により攻撃を受けるが、機を制して夜襲を行い潰走させた。龍仁戦闘の直後の翌7月には李舜臣による水軍の活動を抑えるために加藤嘉明、九鬼嘉隆と共に急遽連合水軍として編成されるが、功を逸って単独で抜け駆けした安治の1,500人の水軍は閑山島海戦で李舜臣に大敗した。以降は秀吉の戦術転換命令によって水陸防御作戦を実施して李舜臣の侵攻を何度も阻んだ(釜山浦海戦、熊川海戦、第二次唐項浦海戦、場門浦・永登浦海戦)。文禄2年(1593年)5月の第二次晋州城攻防戦では攻城軍に加わって陸上兵力(点呼員数900人)としても活躍している。
慶長の役では水軍配置となり1,200人[4]の動員を課せられ、慶長2年(1597年)7月に戦われた漆川梁海戦では侵攻してきた元均率いる朝鮮水軍を逆襲により壊滅させた。日本軍の侵攻作戦が始まると水軍として進撃するが、8月の南原城攻略作戦では陸上兵力として使用された。全州会議に参加した後は再び水軍として引き続き朝鮮沿岸で活動し鳴梁海戦を戦った。第一次蔚山城の戦いにも加わり加藤清正の救援で武功を挙げる。これら朝鮮における一連の功績から、淡路内で預かっていた太閤蔵入地より3,000石を加増されて3万3,000石の大名となる。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いの脇坂安治陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
秀吉の死後、徳川家康と前田利家が対立。安治は徳川邸に駆けつけた。会津征伐では、家康の下に次男・安元を参陣させようとしたが、石田三成らに妨害され引き返させた。この際、安治は旧友・山岡景友を通じ事情を家康に伝え、家康から引き返したことに対して了解を得る一方、戦いに向けて防備を固めるように指示を受けた(慶長5年8月1日安元宛徳川家康書状)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも家康に与するつもりであったが、安治が大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむなく約1,000名[5]の兵を率いて西軍に付いたとされる。
9月15日の本戦では、東軍と内通の風聞があった小早川秀秋に備えて朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に配置されていたが、秀秋が黒田長政と通じていたのと同様に、安治もまた藤堂高虎より工作を受けており、午後に入り小早川隊が大谷吉継隊を攻撃するとそれに乗じて他の3将と共に寝返り、平塚為広・戸田勝成の両隊を壊滅させた。戦後、石田三成の居城・佐和山城攻略にも参加している。同じく寝返った他の3大名と異なり、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵された。
晩年
慶長14年(1609年)9月、伊予大洲藩5万3,500石に加増移封された。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では本人は参陣しなかったが、大坂冬の陣の際に次男・安元が幕府軍として八丁目口を担当し、大坂夏の陣では天王寺付近での戦闘で戦功を挙げた。元和元年(1615年)に次男・安元に家督を譲って隠居する。
その後は大洲を去って京都西洞院に住み、剃髪して臨松院と号した。寛永3年(1626年)8月6日に京都で死去。享年73。

屋敷跡が遺構。
ただ神社跡の横にある池は安治の産湯の池との言い伝えがある。
Wikipedia

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia、現地説明板『淡海国木間攫』『江州佐々木南北諸氏帳』
本日の訪問ありがとうございす。

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