続け!山城探訪

歴史好きで、近江の山城💗!

雲住寺 近江国(大津 瀬田)

2020年05月12日 | 平城
雲住寺(うんじゅうじ)
民話『三上山のムカデたいじ』ゆかりのお寺と神社が瀬田の唐橋のたもとに並んであります。雲住寺は、ムカデ退治に活躍した藤原秀郷(俵藤太・たわらとうた)の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっており、瀬田の夕照が眺められる部屋もあります。そのすぐ隣にあるのが、俵藤太と乙姫を祭神とする龍王宮秀郷社。昔から瀬田の唐橋の下には龍神が住むという伝説があり、1440年頃に現在地に橋を架け替えたとき、龍神をご神体として祀ったといいます。ちなみに藤原秀郷は実在の人物で、平将門の反乱に際し、秀郷が将門の左目を射抜いて見事に征討。これは瀬田橋の龍神の御加護によるものである、という由来から、ムカデ退治の伝説が生まれたと考えられています。

瀬田の唐橋
都への要衡としてたびたび歴史の舞台に登場するこの橋の東詰めに、雲住寺はある。

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。
武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋

雲住寺が開かれたのは応永15年(1408)。初めは天台宗だったが、16世紀中頃に浄土宗となっている。
山門を入ると正面に本堂、そしてその左手に「百足(むかで)供養堂」と書かれた小さな六角堂が目にとまる。
この寺を開いたのは、近江・日野の小御門城主・蒲生高秀から逆上ること14代前の藤原秀郷(俵藤太)により退治されたむかでの供養堂なのだ。

醍醐天皇の時代、俵藤太は勇名をとどろかした武将だった。あるとき勢多(瀬田)の橋に大蛇が出て往来をさまたげた。狩りの途中、橋を通った秀郷はこれをものともせずにその背中を渡って行く。すると突然、翁が秀郷の前に現れ、「私は橋の下にすむ龍神です。三上山を七巻半もする大むかでが出て、苦しめられています。ぜひ退治していただきたい」と言った。さて、秀郷は三本の矢を用意し、むかで退治に出た。二本の矢は次々に跳ね返された。そこで三本目には自分の唾をつけ、キリリと射ると、矢はついに眉間に突き刺さり、むかでは退治された。
蒲生高秀はこの地に寺を建立したわけで、以来、寺は瀬田の唐橋の守り寺となっている。寺にはむかで退治の縁起を刻んだ版木、また藤太ゆかりの太刀の鍔(つば)や、蕪矢(かぶらや)、鎗鉾先。また近江八景の版木などが残されている。


瀬田城 近江国(大津 瀬田)

2020年05月12日 | 平城
お城の概要
瀬田城は瀬田川の東岸、瀬田唐橋の南側付近に築かれていたという。 現在は宅地などとなり遺構はないが、県道29号線沿いに石碑と案内板が建っている。
瀬田唐橋東詰交差点を南へ曲がり南下する。緩やかなカーブを描いて川沿いに出る辺りにマンションがあるが、その壁際に石碑と案内板がある。



お城の歴史
近江・瀬田城は、滋賀県大津市瀬田にある平城で、別名は勢多城、山岡城とも言う。
東海道・中山道から京都に出入りするためには、琵琶湖を船で渡るか、北側から迂回しないかぎりは、琵琶湖から大阪湾に流れている「瀬田川」を渡る必要があります。古来より交通の要所として瀬田は栄えました。

飛鳥時代の667年に天智天皇と中大兄皇子が、近江大津宮に都を移した頃には、瀬田の唐橋(瀬田の長橋)があったようです。

東国から京に入る際には、必ず通行する場所でもあったことから、壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、京に関係する戦乱では、瀬田でいくども合戦になりました。
「急がば回れ」と言うことわざも、瀬田橋のことからのようです。

永享年間(1429年~1441年)に山岡資広によって築かれたと云われる。 山岡氏の出自は詳らかではないが、甲賀の伴氏の後裔といわれ、甲賀郡山岡発祥とされる。
参考に甲賀の山岡城https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/4f0aa6e5ad6db2238a35d36c3789f8a2
永享年間(1429年~1441年)に山岡氏の一族で田上城主であった山岡資広が、瀬田に城を築いて移ったのが始まりと云われる。
山岡氏ははじめ佐々木六角氏に仕えており、山岡景隆の時代には「江南の旗頭」と呼ばれる程の実力を持っていた。永禄11年(1568年)織田信長の上洛軍が攻め寄せ佐々木六角が観音寺城を捨てて逃れる頃になると、信長に降った。
その後は信長に仕えて伊勢国大河内城攻めや雑賀攻め、伊賀攻めなどに従軍している。天正10年(1582年)信長が本能寺の変に倒れると、明智光秀の誘いを断って勢多橋を焼き落として山中へ逃れた。その後は織田信雄に味方して伊勢峰城攻めに参加したが、賎ヶ岳合戦の折りに柴田勝家に通じたと疑われ、瀬田城を捨てて出奔し山岡城に蟄居したという。

山岡氏は、観音寺城の六角氏に仕えていましたが、戦国時代には、江南の旗頭ともされる山岡景之(かげゆき)がいます。
その子・山岡景隆(かげたか)は、六角氏と足利義輝に仕えており、山内一豊が浪人していた際には、家臣として召し抱えていたこともあるようです。
1568年、織田信長は、足利義昭を奉じて京へ登ろうとした際に、山岡景隆に対して織田家に臣従するよう促しました。
山岡景隆は、織田勢に抵抗したため、1569年に攻撃を受けて、山岡景隆は松永久秀の家臣・柳生宗厳を頼って逃れた模様です。
その後、山岡景隆は織田家に降伏して、弟・山岡景友と共に佐久間信盛の与力となりました。
山岡景隆は織田信長にかなり忠実につくしたようで、甲賀衆を任されたりしています。
1575年には、長さ約324m、幅約7.2mの立派な瀬田橋が完成しました。
織田信長が足利義昭と対立するようになると、山岡氏は織田勢として槇島城も攻撃しています。
1577年の雑賀攻め、1581年の伊賀攻めにも参じました。

1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、近江・瀬田城は明智勢に狙われるようになりました。
明智光秀に味方することもなく、山岡景隆と山岡景友は瀬田橋を落として明智勢の進軍を妨害しています。
そして、山岡氏は、一族で山中へ逃れましたが、羽柴秀吉に随時、明智勢の行動を報告しています。
また、明智勢は、瀬田川に仮橋をもうけるのに、3日間要したともあります。

その後、瀬田の唐橋を復旧させたのは、豊臣秀吉で、現在の大小2橋の橋の位置に架けたとされています。

清須会議のあとは、山岡家は織田家に忠節を誓う立場から柴田勝家に味方して、羽柴秀吉とは敵対しました。
しかし、1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が破れると、羽柴秀吉に降伏しました。
山岡氏の所領は没収され、以後は甲賀にて隠遁しています。

瀬田城は廃城になったと推測され、江戸時代には膳所城が瀬田橋を管理しました。
山岡景隆は1585年に、甲賀郡毛牧村(もひら)にて死去しています。享年61。
ただし、山岡景隆の7男・山岡景以(かげもち)は、1588年に、豊臣秀次の家臣として3000石になっており、のち甲賀・水口城を徳川家より任されています。
また、弟の山岡景隆は、豊臣秀吉の直参になると御伽衆に加わりました。
大津城の京極高次とも親しく、豊臣秀吉が死去したあとは、黒田長政を通じて徳川家康に従っています。
関ヶ原の戦いの際に、山岡景隆は、伊勢・長島城の福島高晴を助けて、東軍として戦いました。
これらの功績が認められ、常陸・古渡藩1万石となっています。
瀬田城跡には、膳所城の別邸で臨湖庵という。その後、臨湖庵という料亭がありました。
その西側の一角に、城址の石碑があります。

2008年にグランスイ-ト近江・臨湖庵と言うマンションが建てられました。

駐車場はありません。
石碑の川側(道路の西側)に、路側帯があり、短時間であれば停車が可能。
駐車になると駐車禁止ですので、車からは離れなで。

鯰江城  近江国(愛東・鯰江)

2020年05月01日 | 平城

鯰江町自治会館の説明板
専修院境内土塁

鯰江町自治会館内の地割図 
『近江愛智郡志』巻貮(滋賀県愛智郡教育会 1929年刊 1982年復刊)所収 「鯰江城阯」
 『近江愛知郡志』の鯰江城阯の項 鯰江城阯は西小椋村大字中戸に在り、高臺に阯を在す、永禄十一年佐々木義賢其子が観音寺落城居後鯰江満介貞景等佐々木氏の奮臣と謀り堀を深くし堤を高くし大土工を起こして修築せし城阯にして天正元年まで近江の守護家佐々木六角氏の城砦なり、實にや今遺阯を見るに規模の大と設備の完なる郡内他に比類少き所とす。
現・鯰江バス停にの鯰江城石碑・説明板・志士「丹羽雅夫の顕著碑」
志士「丹羽雅雄(福田卯之助)の顕著碑」明治18年(1887)故郷の鯰江村に建立された。(愛東の歴史ダイジエストより)
丹羽正雄之碑
 愛知川右岸沿い、県道・外八日市線から鯰江集落へ入る坂道の東側に小さな緑地がある。「鯰江城趾」の説明板とともに、目をひくのが高さ三メートルちかい石碑である。もとは坂道西側に建っていたが、平成初年の緑地整備で現在地に移された。
 石碑上部に、「丹羽正雄之碑」の題字。明治新政府で太政大臣をつとめた三条実美の書である。三条家は平安時代からつづく公卿の名門で、実美は二十一代目。
 幕末の激動が、鯰江に生まれた一人の青年を、三条家の諸太夫(しょだいぶ=公卿の事務全般を司る職掌)丹羽家の嗣子に仕立て上げたのである。「丹羽正雄」の生い立ちから紹介する。
■青少年期の「正雄」
 天保五年(一八三四)、鯰江村・福田市右衛門に二男が生まれた。卯之助と名付けられる。のちの丹羽正雄である。
 卯之助は幼少期から向学の志がつよかった。金屋村(東近江市八日市金屋)瓢箪小路(ひょうたんこうじ=現・大凧通り)の医師・馬淵駿斎の門戸をたたき医学を学ぶ。また、儒学を蒲生郡芝原村(東近江市芝原町)速水橘園から学んだ。
 当時、浦賀沖に外国船が出没していた。嘉永六年(一八五三)には、ペリー艦隊が江戸湾入り口まで侵入した。世相は騒然。「開国か攘夷(外国を打ち払う)か」の議論が各地で沸騰した。卯之助十九歳、多感な青年の心にどんな思いが去来していたか。
■丹羽出雲守正雄
 安政五年(一八五八)四月、井伊直弼が大老職についた。安政の大獄がはじまる。尊王攘夷派の公卿三条家の家臣・丹羽正庸(にわ・まさつね)が、捕縛・追放された。三条・丹羽両家で、正庸が果たしてきた役割を継ぐことのできる人物が必要となった。
 安政六年(一八五九)、卯之助は丹羽家の養子に迎えられた。正庸と卯之助が尊王攘夷活動をつうじ面識があったためという。二年後、家督をえて卯之助は丹羽正雄を名乗る。同時に、出雲守に叙任。ここに、丹羽出雲守正雄が誕生した。二十七歳であった。
 主家・三条家では実万(さねつむ)のあとを継ぎ、実美(さねとみ)が登場。急進派公卿のリーダー格となる。
 実美は正雄より三歳年下である。実美にとっての正雄は、たんなる家臣というより、頼り甲斐のある相談相手でもあったにちがいない。正雄は実美の意を受け、尊王攘夷派の大名家や志士たちとの間に立ち活躍の場を広げる。
大手口横にあり、虎口を形成していた西側土塁。

お城のデータ
所在地:東近江市鯰江町
築 城期 室町後期
区 分:平山城
改修者:鯰江貞景
城 主:鯰江貞景
廃城年:1573年
遺 構:土塁・石垣
城  域:400m×250m
戦 い :元亀の乱・・・佐々木六角氏の終焉

お城の概要
鯰江城は愛知川の断崖を活かして築かれ、川から城への上り道は細道1か所という防御に有利な地形であった。現在は県道が通り、川岸は田畑として利用されている。

お城の歴史
室町時代、鯰江氏は六角氏に属して勢力を伸ばしていたが、永禄11年(1568年)に観音寺城の戦いで六角氏の居城である観音寺城が落城したため、城主の鯰江貞景は甲賀郡に逃げていた六角義賢・義治父子を迎え入れ、主家復興のため織田信長に反抗を企てた。 
鯰江氏が、いつごろこの他に定住し、居を構えたのかは不明であるが、鯰江の地名は荘園名として文永5年(1268)よりその名が見え、興福寺領の被官となってこの地を治めていたとされる。
 永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
 この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。
貞景は鯰江城に空濠の増設・土塁の増強を含む改修を施し、百済寺の僧や一向宗と結び籠城したが、天正元年(1573年)9月、柴田勝家らの軍勢によって落城した。
鯰江城落城後、鯰江氏は全国へ散り各大名に仕えたが、貞景の子・定春は豊臣秀吉に従い、大阪に鯰江の地名を残している。

ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事
 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。
 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し
、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

-小谷落城  
浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事
・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。
 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----。

経緯
 元亀4年(1573)
  ○織田信長VS六角義治
 鯰江城は、愛知川右岸の段丘崖上に築かれ、軍事的には八風街道・高野街道を押さえる要衝の地にある。
 元亀元年(1570)朝倉攻めを開始した織田信長が手筒山城、疋壇城を落とし、金ヶ崎城をも落とさんとした時、妹婿の浅井長政の離反によって、朽木越えで京へ逃げ帰った。
 その頃、信長によって観音寺城を追われた六角承禎は鯰江城を居城としており、美濃へ帰国し軍の立て直しを図らんとする信長に対し、六角承禎は八風街道を押さえるこの城を拠点に信長の美濃帰国を妨害した。
 八風街道を使えなかった信長は、御在所岳の麓を通る千種街道を通って帰国することになるが、この時杉谷善住坊に狙撃される。
城郭遺構としては、昭和初期まで空堀なども残っていたとされるが、現在では土塁が字内に数ヶ所残されているだけである。
 なお字内には “おとぐち” という地名が残っている。この “おとぐち” は大手口が訛ったものものであろう。
『信長公記』
 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
-----------ここまで

信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、

 元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城、,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。

 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、
千草越えで織田信長を狙撃した甲賀の杉谷善住坊を、金ケ崎の戦いの際に遠藤喜右衛門が雇った傭兵であったとする。
『杉谷善住坊のかくれ岩』の標示があったので谷に下りてみると説明板があった。

・信長の千種越え https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/0a5be4a9b86ed952a3e2e6acd73a4dda

https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/c789cb0083a9cf5ec8fed9510d3ad326
発掘調査から
【鯰江城遺跡から石積み遺構と門跡が見つかる】
 室町時代の鯰江城遺跡を発掘調査していた愛東町教育委員会は土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。
 調査は約180m2を対象に行われた。土塁の仕切り幅は約1.8mあり、両基底部に石積みが施されている。残りのよい片方は3段(高さ0.75m ・ 幅6m)積み上げている。石材は砂岩系の自然石で横方向に長く置いている。
 石積みに接して礎石と思われる平らな石と釘が見つかっており、土塁の仕切りは門跡と考えられ、本丸郭の通用門の可能性がある。また、石積みの北西部分で長さ1.5m、幅0.25m、深さ0.2mの排水遺構も検出されている。
 さらに内部からは焼土が検出されている。遺物としては土師器、瀬戸美濃陶器が少量出土している。

 安土城(1567~1582)以前の城は土塁を築き、石積みは観音寺城や小谷城など限られた城郭でしか確認されていなかったが、鯰江城でも観音寺城などと同じ様に石積みが採用されていることが判明した。そこに、六角氏の意向が強く反映していたことが伺える城郭といえる。

本丸土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。
鯰江城本丸跡(公民観南側の民家裏手にあり、高さ1~2m)

豊臣秀次の側室「鯰江おこほ」。(愛東の歴史ダイジエストより)
鯰江駿河守の子「権内」は井伊直政に仕え200石を知行。忠太夫は井元村の春日大社祭礼溝の最高位を務めている。「小倉忠太夫」屋敷絵図。中戸村集落の西部遺構は無く畑地。(愛東の歴史ダイジエストより)
鯰江氏の末裔「小倉忠大太夫」
シリーズ「淡海の城」-鯰江城(なまずえじょう)(滋賀県東近江市愛東町鯰江)より
参考資料:『賀県中世城郭分布調査1』、『信長公記』、ウィキペディア(Wikipedia)、『近江愛智郡志』、淡海の城
、愛東の歴史ダイジェスト版、近江の城郭、現地説明板、東近江市文化財専門委員の説明

本日も訪問、ありがとうございました。

小倉城 近江国(愛東・小倉)

2019年08月05日 | 平城

お城のデータ
所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)小倉町 map:http://yahoo.jp/VRfpif
区 分:平城
築城期:鎌倉期 承暦年代(1077~1080)
築城者:小倉景実
遺 構:空堀・堀切・土塁・現地説明板
城 域:1000m×500m
目標地:小倉集落の北、段丘上の墓地
駐車場:集落の北、段丘上の墓地駐車場
他の写真は、こちらhttps://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/0d2cdde6624c8cdba55b41b402a61ab5

お城の概要
 小倉城は愛知川右岸の河岸段丘上に築かれており、小倉町の公民館前から河岸段丘側へ200mも入ると、
小倉城と清和源氏小倉氏発祥の地の石碑が建てられている。
 ここが小倉城の大手口と考えられており、背後の段丘上に南北30~40m、東西300mほどの範囲に遺構が残されている。
 城域の西側は、河岸段丘が落ち込む自然地形のために城域の境界は明確だが、東側は城郭遺構が延々と続き、
考え方次第では小倉城の出城とされる勝鳥城付近まで城域は広がり、城域は東西400~500mにもなる。
小倉城の石碑前には河岸段丘へ上がる車道が左右に2本つけられているが、大手口からの登城道(大手道)は石碑から右手に延びる道である。
「近江愛智郡志」の挿絵図には、小倉城の北側には【水堀】が青山城の近くまで、存在したようである。
左手の道は主曲輪横に出る小倉新道で、近年拡幅された道。この道は堀切だった地形を利用されている。
大手道を登ると、すぐに河岸段丘を断ち切る堀切(見方によっては横堀ともいえる)が出現する。この辺りが二の曲輪のようである。

 二の曲輪は河岸段丘の東西を堀切った地形の中に、土塁をめぐらせた曲輪が梯郭式に無数に繋がっている。
曲輪は個々に平虎口を設けており、屋敷地のような構えである。
 主曲輪に対する求心性が無いのは、圃場整備で改変をされたのであろう。それとも小倉城そのものが屋敷地のような構えであったのか?

 二の曲輪群の一画に、ひときわ高い土塁をめぐらせた曲輪が幾つかある。
虎口横の土塁の塁線が屈曲するなど他の曲輪とは様子が異なり、後年に陣城として改修の可能性を感じた。

 主曲輪は微高地の地形を利用して周囲に空掘を巡らせ、他の曲輪とは一線を画している。
主曲輪の西約100mほどが小倉城の西端になるが、西側は断崖地形で周囲に空掘を巡らせた30m×40mほどの曲輪がある。
後方は二重の空掘として備えも怠りない。

道は主曲輪横に出る小倉新道で、近年拡幅された道。浅い堀切ひら虎口か、散策路か

お城の歴史
小倉氏は清和源氏満季流といい、承暦年代(1077~1080)、小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築いたのが、そもそもの始まりと伝えられている。以来、小倉氏は小倉城を拠点として、愛知・神崎・蒲生三郡の東部に勢力を築いていった。

 『蒲生系図』によれば、源頼朝の旗揚げに馳せ参じて功を上げ、近江守護となった佐々木定綱の室は蒲生俊綱の姉であった。そして、俊綱の娘が小倉九郎の室となっている。このことから、小倉氏が鎌倉時代初期においてすでに相当の勢力を有していたことが知られる。以後、小倉氏は佐々木、蒲生氏と鼎立する勢いを示し、東近江における一方の雄として続いた。とはいうものの、小倉氏の事蹟が記録などから知られるようになるのは、応仁の乱当時を生きた小倉左近将監実澄の代にいたってである。
 ちなみに、小倉氏の出自に関しても諸説があり、『近江愛知郡志』では
 (1)小椋實秀の裔にて菅原氏
 (2)清和源氏多田満季の裔より出たもの
 (3)佐々木満綱の子孫より出た家
の三説を紹介し、
(1)に関しては小倉氏の家紋「梅鉢」からうなずけるところだが小椋實秀なる人物が確認できないこと、
(2)に関してはその根拠となる系図が南北朝時代で終わっていてそれ以降を継承する正本系図が存在しないことを注記して、それぞれ疑問を呈している。そして、『尊卑分脈』の小椋源氏系図、個人所蔵小椋氏系図を掲載している。

 一方、『近江蒲生郡志』では、蒲生氏の一族として小倉氏を取り上げ、「小倉氏は愛知郡小椋を本拠とする清和源氏なり」として、蒲生氏と小倉氏の関係系図と小倉氏系図一本を併載している。

『信長公記』
 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事
 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。
信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。
 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった--

 小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事
・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。
 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。--

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査1』、『信長公記』ウィキペディア(Wikipedia)』、『近江愛智郡志』、淡海の城
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。