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膳所城 近江国(大津 膳所)

2020年05月12日 | 水城
 近江大橋西詰のすぐ南側に突き出た地にあった膳所城は、徳川家康が関ヶ原の合戦の後、
築城の名手といわれた藤堂高虎に最初に造らせた城でした。
 城構えは、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかったといいます。
この美観は、「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし) 水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われています。
 戸田・本多・菅沼・石川と城主が変わった後、本多6万石代々の居城として長く偉容を誇りましたが、

明治維新で廃城になり楼閣は取り壊されました。
城門は重要文化財で、膳所神社や篠津(しのづ)神社に移築されて残っています。
 現在、本丸跡は、膳所城跡公園として整備され、春には桜の名所として花見客を多く集めています。

膳所城の歴史
膳所城は徳川家康の命により、天下普請によって築かれた城です。
築城の名手と謳われた藤堂高虎に最初につくらせた城で、日本三大湖城のひとつに数えられます。
大津城にかわって京都の東の守りを固める目的で築かれ、戸田氏や本多氏など譜代大名が城主として配置されました。
また大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」のひとつでもあります。
本丸には4重4階の天守が上げられ、水面に映える姿は里謡に「瀬田の唐橋からねぎぼし、水に浮かぶは膳所の城」と謡われました。
現在は膳所城跡公園として整備され、往時の石垣を見ることができます。
また、城門は膳所神社(本丸大手門)、篠津神社(北大手門)、鞭崎神社(南大手門)に移築されて現存しています。


膳所城の移築城門(移築櫓)をチェック
すべての移築城門の場所をGoogleマップでチェック


本丸大手門(膳所神社表門)
※重要文化財

城門(膳所神社北門)

城門(膳所神社南門)

お碗倉(十六体地蔵堂)

北大手門(篠津神社)
※重要文化財

南口総門番所・粟津番所(民家)

犬走門(若宮八幡神社)

お倉門(御霊神社)

米倉門(近津尾神社)

本丸二層隅櫓(茶臼山公園芭蕉会館)

南大手門(鞭崎八幡宮)
※重要文化財

水門(新宮神社)

南口総門・瀬田口総門(民家)
そのほか、草津宿本陣は、膳所城藩主別邸瓦ヶ浜御殿の一部だとする話が伝わっていた。享保3年(1718)の草津宿大火の後に、膳所城藩主別邸瓦ヶ浜御殿の一部を拝領し、再建したと伝わっていたが、平成元年度以降の保存修理によってその建物でないことが判明したそうだ。

南口総門・瀬田口総門について
大阪府泉大津市松之浜に膳所城の移築城門がある(場所は上記Googleマップを参照)。この高麗門は、膳所城の南総門。膳所城は東海道を取り込むかたちの城だった。西の大津口(西総門)から、この南総門を通行するといった具合だ。

明治5年(1872)に膳所城から滋賀県大津市内の建部神社に移築され、その後、細見家が購入し大阪府泉大津市に移築された。特別に門の内側も見せてもらった。細見家の方の話によると、昭和12年(1937)に、トラック40〜50台で資材を運搬したそうで、その時に瓦の大半が割れてしまったそうだ。よく見ると一部を残し葺き替えられている。鯱瓦もその時に小ぶりなものに替えられた。
また、太平洋戦争の時、菊の御紋は恐れ多いとして塗り込められている(門の内側に見られる)。膳所城の移築城門の中では、その保存状態から堂々たる風格が香る門ではないかと思われる。普段は門の内側に入ることはできないが、岸和田城散策ついでにちょっと足を伸ばして訪ねてみるのもいいかも。
南総門の外観。よく見ると柱下の飾板や釘隠が一部、無くなっている。

門の内側。高麗門であることがよく分かる。特別に入らせてもらった。

熨斗瓦の間に菊丸瓦が入っている(茶色の部分)。太平洋戦争の時、菊の御紋は恐れ多いとして土で塗り込められた。

鬼瓦や軒瓦に本多家の立葵の家紋が見られる。この写真では分かりづらいが、後に付け替えられた鯱の尾がちらりと見えている。